変面修業
足りないものは尊いもの。
道に迷い、擦れ違い、得るものは、
己の在り処だと、したら。
変面修行
あれは魔王だ。
錫杖を抱え、僧侶は――特徴的な髪形や恰好からして、あまり僧には見えないが――その場に立ち尽くした。
全てをなくした者に差し伸べられた手。僧侶はその手が放つ光りを、遠慮がちに浴びた。
そして、新たなる試練が幕を開けた。
――無茶……なの、だ。
僧侶は――井宿は、天上を見上げた。雲一つない青空が視界に広がる。いついかなる時も天上から人間を見下ろしているらしい相手を憎々しく思い浮かべ、思わず嘆息する。
何が天上人だ、何が天帝だ。あれは魔王だ。
僧侶とは思えぬ不敬を胸の裡に吐き散らす。
彼の方の下で修業を始めて、一年と少し。太一君の指導はスパルタ以外の何ものでもなかった。前後左右、上下裏表すべて滅茶苦茶かつデタラメで、何が嘘で何が本当か最後まで解らない始末である。結局、何も解らないまま終わる件も多々ある。
ある時は人助けをし、ある時は無意味に登山を繰り返し、ある時は無意味にからかわれ、ある時は無意味に遊ばれ、またある時は無意味に装備をすべて奪われたのち大極山から放り出され「自力で帰ってこい」とか言われ――井宿は疲労困憊していた。
今回も数日前に大極山を放り出され、目的もなくふらふらと地上を彷徨っている。肌に馴染む空気と温暖な気候から、恐らく紅南国であろうと目星をつけたはいいものの、場所の特定はいっこうに出来ていない。
地図でも買うか――否、銭がない。それ以前に街がない。人里も見えない。もう何日も歩いているのに。
腹の音が鳴る。そろそろ何か口に入れないと倒れるな、と井宿は冷静に思った。といっても周囲に見えるのは、鬱蒼と生い茂った草原と、何処までも続く連峰のみである。
野草でも食べるか。それとも山に入って木の実や果物を探すか。何処かに川はないのか――否、それ以前に。
――これは現実か?
悪戯好きの太一君、もしくは娘娘が見せている幻覚ではないのか。それとも紅南国に似た異空間か何かか。
散々騙された所為ですっかり疑い深くなっている。そんな感情は――邪魔でしかないのに。
「何してんねん、そんなところで」
不意に声をかけられ、井宿は驚いて振り向いた。背後に立っていた人物を目に入れ、更に驚く。
すらりと美しい長身に、光沢のある派手な衣装。そして顔の仮面。紅い表面に黒い隈取、深い緑の筋状の模様。額には白と黒の、陰陽を表す大極図が描かれている。
――舞台装束……?
「っ……あ」
貴方こそ、と言おうとしたのだが、数日喋っていない所為か上手く声が出せない。気を利かせてくれた相手が、竹の水筒を寄越してくれた。深く一礼してから、有難く戴く。
「疲れてるみたいやな。まあ、座れや」
ふと足元を見ると、座るのに調度良い平らな岩があった。二人並んで座れる大きさである。
何だか出来すぎていると思ったが、井宿は大人しく腰を下ろした。
もしこれが太一君が与えた課題なら、どうせ逃げられはしないのだから抵抗しても無駄だ。
「此処に水なしで来るとは、流石に無謀やで」
声音からして恐らく男であろう相手は、そう言いながら井宿の隣に腰を下ろした。
「見ての通り何もないからな。低いいうても山越えなあかんし」
「……失礼。お水、有難う御座いました。此処は何処なのですか?」
「何や、知らんで来たんかいな。何、そこの山越えて馬で半日も行けば、栄陽や」
「栄陽?」
都に近いのか。こんな、何もない場所が。
「そう。ここは山と山の間、山間部や。昔は人もおったらしいけどな。何せ不便やから、みんな山を越えてもうた。いつの間にか地名も消えて、存在も忘れられて……今知るのは爺さん婆さんか、若いのは俺くらいやろ。もう何年も前からここに出入りしとるが、他に誰かおるの見たことないしなあ」
成程、この岩は民家があった名残か。
関心していると、男は懐から取り出した包みを井宿に渡した。
「腹ぁ減っとるんやろ。饅頭や、食え」
「、しかし……これは貴方の、」
「ええんや、俺はさっき食うたから。それに、こんなところで倒れられたら余計に迷惑なんでな」
仮面の男がにやりと笑んだ――気がした。
井宿は頭を下げ、有難う御座いますと礼を述べた。
「頂きますのだ」
「……のだ?」
「あ。いえ……」
修行をしている内に、いつの間にか身についてしまった口癖。
井宿という皮と、本当の自分を区別する境目のようなもの――なのだろう。
昔の自分を切り離さなければ、今、前を向くことができない。
「単なる口癖です。オイラは……芳准といいますのだ」
まだ七星名を名乗る度胸はない。
仕方ないので本名を名乗る。まるでちぐはぐだなと自嘲しながら。
「貴方は?」
「俺? 秘密」
「え?」
「正体バレたら少々困るんや。ここは俺の秘密の場所でな。人目につかず、好きなことを思いっきりやれる」
「……劇、ですか」
煌びやかな装束を見ながら尋ねる。
「劇っちゅうか芸やな、これは。変面って知っとるか。ある地方の伝統芸能で、面や衣装が一瞬にして変わるっちゅうやつ」
いいえと答えると、男は立ち上がって井宿と向かい合った。じっと見下ろしたあと、男は仮面に手を当てる。その瞬間、紅を基調とした面が黄を基調とした面に変わった。
――なっ……。
男が再び手を当てると、また仮面が変わる。黄から黒へ、黒から緑へ、緑から白へ……眼にもとまらぬ速さで仮面は変化し続け、剥ぎ取られた色とりどりの面が地面へ落ちてゆく。
何かしらの能力の持ち主ではないかと疑うくらい、人間業とは思えない動作だった。
度肝を抜かれた井宿は、思わず拍手をした。
芸を終えた男が頭を下げる。
「どうもおおきに。けっこう楽しいやろ?」
「凄い芸ですのだ、驚きました。本職の方なのですね」
「ちゃうよ。これは趣味。単に好きでやっとるだけや。ちょっと大掛かりな宴会芸やな」
宴会芸、というレベルのものではないと思うのだが。独学でここまで修めたのなら、本当に凄い人だ。
白い仮面をつけた男は捨てた面を拾い集めると、また井宿の隣に座った。
「舞踏とか剣舞とかな、好きなんや。せやから偶に此処で、思いっきり練習する」
「何故……此処なのですか?」
「他に誰もおらんからな。せやからやり易い。俺は人に努力してる姿を見られるのが死ぬほど嫌いな性質でな。……それに男は、何かしら秘密がある方が魅力的に見えるんやで」
はあ……、と曖昧に返答しながら饅頭を頬張る。変面に圧倒されて、食べるのを忘れていた。
「ただし、意図的に繕わんとあまり効果を発揮せんがな。あんたの面は胡散臭いわ」
僅かに饅頭を持つ手が震えた。
己の面は、術によって顔と完全に一体化している為、仮面とは解らない筈だ。それなのに何故、否それより――。
――胡散臭い……?
「まあ、しゃあないか。隠しようがないし。それにしても、顔に秘密があるなんて大変やなあ」
「……何故、そう思うのです」
「それは秘密や。芸でも何でも、簡単に種明かししたらつまらんやろ」
――躱された。
そう、躱されたのだ、いとも簡単に。
不思議な男だ。常にするりするりと脇をすり抜けていく。
な、と男は言った。
お前の考えはお見通しだとでも言うように。
「秘密っちゅうんは便利やろ」
仮面の奥は知れない。だがやはり笑っていると、井宿は思った。
鷹揚としていて懐が深い。そんな仮面の男に興味を抱く。自分にしては珍しいことだ――特に、修行に入ってからは。
「貴方は……何者なのですか」
答えるわけもないのに、気づいたらそう尋ねていた。
何者なんやろうなあ、と男は空を仰ぐ。
「手掛かりは幾つかある筈やで」
手掛かり――。
山に囲まれた場所。栄陽まで馬で半日。言葉、方言。
――栄陽から馬で半日……確かその辺りの山の麓に、集落があった筈。
山の名は何だったか。昔、近寄るなと言われた記憶がある。山賊が出るとか何とか――否。
「狼が」
ああ、狼だ。
「この辺りにはよく出ると……聞いたことがありますのだ」
芳准、近寄るのではないよ。
あの辺りには狼が出るから。
人の面を被り、人のふりをし、人を奪う――。
こわいこわい狼さ。
「……驚いた」
ぽつりと男が呟いた。
「まさかほんまの正体を見破られるとは」
「ほんとうの?」
「そう。俺――ほんまは、狼やねん」
互いに仮面をつけたまま、見つめ合う。
数瞬後、二人は噴出して笑った。
「貴方は……本当に、秘密の使い方がお上手なのだ」
「いや、あんたが追及の手を緩めてくれたおかげや。せやから冗談も吐ける」
人の姿をした狼。
狼を冠した人。
とある山の山賊の頭は代々、狼の一字をその名に受け継ぐという。
「此処におる時は、単なる芸好きの男でいたいんや」
「それならオイラも、単なる旅人でいたいですのだ」
「単なる行き倒れやろ」
「ごもっとも。……饅頭、ご馳走様ですのだ。何かお礼をしたいのですが」
「ああ、別に……。せやなあ、あんたは何か、芸事はできるんか」
「芸、ですか。……そういえるかどうか」
苦笑して立ち上がる。
錫杖を翳し、数珠に触れて印を結んだ。念を放つと、どろんと煙に巻かれる。
再び眼前に現れた井宿を、男は唖然と見やった。
「す――砂かけ婆?!」
「太一君なのだ」
井宿は術を用いて、天に住まう我が師、太一君に変化してみせたのだった。
「……太一君って砂かけ婆なんか」
「い、いや……? 砂はかけませんが……。この様な姿をしていらっしゃるのですのだ」
「太一君って天帝やろ。天帝ってこんな砂かけ婆やったんか……ちょっと衝撃やな。死んだら天でこの婆と会うんやろ?」
「えっ……はあ、そうらしいですが……しかし、この姿は仮の姿らしいですのだ。本当の姿はオイラも見たことがありませんのだ」
どろんと再び煙に巻かれて、元の姿に戻る。
今はまだ、これくらいのことしか出来ない。
ふうん、と男が感嘆の声をもらした。
「いや、見事なもんや。流石、星を背負っとるだけのことはあるなあ」
――っ……?!
何故、それを。
そう問う前に、男の指が井宿の右足をさす。所々破れているズボンを見下ろし、井宿はああと納得した。
隙間から除くのは、紅い井の文字。
「まあ……刺青かもしれんし?」
「……そうですのだ。唯の行き倒れですし」
微笑して答える。それがこの場における礼儀と信じて。
男は満足気にせやな頷き、空の様子を探るように遠くを見つめた。
「さて、そろそろ山ぁ越えるか。晩うなったら厄介やし。あんたもついてこいや、案内するで」
「有難う御座います。……狼さん。一つ、お尋ねしたいことがあるのだが」
「なんや」
「秘密なのは、心得ていますのだ。けれども教えて欲しいのです。……何故、オイラの仮面のことを言い当てられたのですか」
「へえ。当たってたんか?」
――は?
男が振り向き、白い仮面を剥ぎ取る。
現れたのは、精悍として美しい、端正な顔だち。
一つに纏めた長い黒髪を鬣のように揺らし、狼は愉しそうに笑った。
まるで童のように。
「そんなん、単なる勘に決まっとるやろ」
秘密と度胸の使い方を心得ている――そんな狼に、勝てるわけがない。
思わず釣られて、井宿も笑う。
それは天上人さえも予期しなかった、偶然の出来事だった。
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