朱い絆と共に
宿屋の一室で張宿は両手を擦り合わせた。
北甲の地は想像以上に冷え込む。出発前に書物で北国の知識を身につけたつもりでいたのだが、実際に赴いてみると解らないことだらけだ。
ただその状況を、不謹慎ではあるが張宿は楽しんでいた。未知なるものを見たり、触れたりすることは、いつも家に篭って勉強三昧だった少年にとって新鮮な体験だった。
――世界は解らないことだらけだ。
だから知ること自体が面白い。向かう土地、出会う人々が張宿の知的好奇心を満たしてくれた。
「だ〜。寒いのだ」
朱雀七星の仲間の一人である井宿が明るい声を発しながら部屋に入ってきた。
朱雀の仲間は玄武の神座宝の手がかりを探す為に三班に分かれ、街を捜索していた。張宿は井宿と共に一日歩き回ったが大した収穫は望めず、日も暮れ始めたので続きは明日に持ち越すことにして宿を取った。
「暖かいお茶を貰ってきたのだ」
お茶を注ぎ「どうぞなのだ」といって井宿が茶碗を差し出した。
一礼して「ありがとうございます」と返し、注がれたお茶を啜る。
「おいしいです」
「北甲国原産のお茶だと言っていたのだ。紅南国のものと比べると味が濃いのだね」
「身体が温まります。……皆さんももう、宿に入ったでしょうか」
「だ。もう外は暗いし、多分みんな今日は休んでいると思うのだ。美朱ちゃんたちには柳宿がついているし、翼宿には軫宿がついているから大丈夫だと思うのだが」
一口お茶を啜って、井宿がふうと一息吐いた。
――井宿さんは……。
凄いですね、と言いかけて止めた。その言い方は何か酷く他人事のような気がした。
ぽっと足元が熱くなる。字が現れているのだと張宿は気づいた。朱く、濃く――そんな時ほど頭は冴える。
「井宿さんが同行者に僕を指名したのは、誰よりも早く神座宝の手がかりを見つけたかったからですか?」
井宿の狐顔が一瞬だけ真顔になる。だがまた直ぐにいつもの笑顔に戻った。
「どうしてそう思うのだ?」
「青龍七星士も神座宝を狙っているなら、神座宝の在り処に近づけば近づくほど危険も増します。だからまず自分が向かって安全を確保した上で、皆さんに在り処を知らせたい――井宿さんならきっとそう思うだろうと思って……。青龍側に先を越されても困りますし」
「それは――」
口を開いて、また閉じる。お茶を一口啜ってから、井宿の狐目が張宿を捉えた。
「……確かに、そんな風に思っていたのだ。でも……そういう在り方は、もしかしたら失礼なのかもしれないのだ」
「失礼……?」
「考えていたのだ、ずっと。自分がどう在るべきか……。オイラはずっと、犠牲を最小限に抑える為にはどうすればいいのかということを考えていて、その結論としてオイラ自身が動くのが一番手っ取り早いと思っていたのだ。でもそれは、やはり失礼なのかもしれないのだ。仲間に対して」
「みんな、ですか?」
だ、と井宿は頷いた。
「仲間なのだ。勿論、君も含めて。……君は聡明だから、誰がどう動いたら一番効率が良いか解っていると思うのだ。いち早くオイラが神座宝の在り処に向かうのが最良だと、君の頭は弾き出したのだ。だから君はオイラが君と同じ事を考えていると思い込んだのだ」
――え?
それでは先程の推理は的外れだったというのか。
張宿が困惑した視線を投げると、井宿はにこっと笑った。
「オイラもそう思ってはいたのだ。でも、そうでなくても良いとも思っていたのだ。何故なら、やはり失礼だと思ったのだ。何も言わずにオイラだけ勝手に動くのは――それが仲間を守る為であっても、仲間に対して失礼なのだ。それは、信用していないと言っているようなものなのだ」
――あ……。
気づいてハッとする。朱雀七星士としての任――神座宝を入手するにはどうしたらいいかということばかりを考えていて、その他のことを忘れていた。
大切なのは効率だけではない。一人で旅をしているわけではないのだから。
「みんなを信じていたいから……みんなの信用を裏切りたくないから、幾ら効率が良くとも一人で動くのは控えるようにしようと決めたのだ。……でも、本当にオイラが一番最初に神座宝の在り処に赴いて、結界でも張っていた方が良いのだけれどね。何があるか解らないのだし」
「いえ、でも……何があるか解らないからこそ、井宿さんでも危険だと思います。僕は戦闘になると役に立ちませんし、もし僕ら二人だけで向かって危険な目に遭ったら、きっと皆さんに怒られてしまうと思います」
「なのだ。きっと柳宿にぶっ飛ばされた後、翼宿に燃やされてしまうのだ〜」
おどけた調子で言うので、張宿は笑ってしまった。
井宿は事あるごとに明るく喋りかけてくれる。子供だから気を使ってくれているのだろうかと今まで思っていたが――勿論それもあるだろうけれど――彼の口から『仲間』という単語を聞いて、それは違うのだと気づいた。
認めてくれているのだ。朱雀七星士の一員として、仲間として。
そしてそれを表現しようとしてくれているのだ、色んな形で。
その一つが彼の優しい笑顔なのだと、張宿は思った。
「それにしても、部屋の中だというのに寒いのだ」
「あ、そうだ。井宿さん、これ」
手を擦り合わせる井宿の姿を見て、張宿はあることを思い出した。そして荷物の中から小さな紙袋を取り出して、狐顔の仲間に差し出した。
「だ?」
「井宿さん、不眠症なんですよね? 軫宿さんから聞きました。これ、僕と軫宿さんで薬草を調べて、調合したんです。身体を温める効果があるので、寝る前に飲むとよく眠れると思います。良かったら試してみてください」
ぽかんと口を開けて、井宿が呆然とした顔を差し出した。
首を傾げてその狐顔を見上げる。何か気に障ることでも言っただろうか。
「あ、す、すみません、差し出がましい真似を」
「ち、違うのだ。その、驚いて」
井宿は慌てて首を振り、軫宿が調合した薬が入った紙袋を受け取った。微かに赤く染まった顔で微笑すると、彼はその顔に手を添えて、自分から剥がした。
――えっ……?!
顔が、顔から剥がれた――ことにも驚いたが、それよりも露になった彼の素顔の方に張宿は驚いた。
白い肌によく映える紅い右眼と、痛ましい傷痕で塞がれた左眼。
井宿は遠慮気味に微笑んで「驚かせてすまないのだ」と言った。
「でも素顔で礼を言いたかったのだ。ありがとうなのだ、張宿。とても助かるのだ」
あとで軫宿にも礼を言っておくのだ、と言って井宿は剥がした顔――お面を再び貼り付けた。
一瞬のうちに元に戻った狐顔を呆然と眺めながら、張宿は思った。
――どうして隠すのだろう。
あんなに綺麗な紅い眼をしているのに。
「井宿さんは……どうしてお面をつけているんですか?」
まさか突っ込まれるとは思っていなかったのか、お茶を飲んでいた井宿がぶっと噴き出した。
「ええと……、その……オイラの顔の傷は、見た人に不快感を与えるのだ。だからお面をつけているのだ」
「不快感……?」
そんなものは全く感じなかった。
井宿の笑顔は優しくて――。
「小さい子は、怖がったりするのだ。だから」
「僕は――僕は、怖くなかったです」
――暖かかった。
不快感も恐怖も感じなかった。それどころか優しさと暖かさで、胸が溢れて――嬉しかった。
「井宿さんの笑顔は、凄く暖かいと思いました。本当です」
だから何とかそれを必死に伝えたかった。張宿を仲間だと認めて、信じて、頼ってくれた井宿に。
井宿はお面をつけたまま、にっこりと笑った。
「とても、嬉しいのだ。……ありがとう」
お面をつけたままなのに、素顔の笑顔が見れた気がした。
080126