明日への誓願
前編
後悔したくないんです。
そう訴える少年の眼を見て、井宿はドキっとした。
朱雀七星士の中でも最年少の十三歳、自分より十一も年下の少年の眼には迫り来る気魄と、儚さにも似た切実な願いが溢れていた。
「何とか皆さんのお役に立ちたいんです。朱雀召喚が失敗した原因は、少なからずとも僕にあります。だから」
「張宿」
無意識に少年の言葉を遮る。彼の気持ちが痛い程よく解るゆえに、それ以上の口上を聞きたくなかったのだと気づいて、井宿は苦笑を噛み殺した。
「朱雀召喚の件は、君の所為ではないのだ。だから負い目に感じることはないのだ」
お面をつけた顔でにっこりと微笑む。
強張っていた張宿の顔が少し緩んだ。
「君の提案には賛成なのだ。オイラも協力するのだ」
「良かった、ありがとうございます」
「でも、完成するまでは誰にも知らせないでおいた方がいいのだ。陛下にも」
「何故ですか?」
「北甲国に旅立つまで、あと何日もないのだ。知らない土地に行くのだし……」
倶東国が――青龍側が此方の動きを探らずにいるわけがない。七星士を一人欠いている青龍七星士も、神座宝を狙ってくる筈だ。道中で何らかの邪魔が入るだろう。
厳しい旅になる。そう予想できるからこそ――みんなには、出発前の残された時間くらい平和に過ごして貰いたい。
「余計な心配はさせたくないのだ。あくまでも念の為なのだから」
そう言うと、張宿も「そうですね」と言って頷いた。この聡い少年がどこまで勘付いているのかはわからない。だが井宿は青龍七星士関連の話をあえて避けた。子供に気負わせたくない、という至極まともな思考が働いた結果だった。
――守りきらなければ。
誰も彼も、守りきらなければ。
その為に――生きてきたのだから。
明日への誓願 前編
首筋に小さく痛みが走る。獲物が網にかかったことを告げる報せだった。本日、六度目だ。井宿は思わず大きく嘆息した。
向かい合っている机では張宿が膨大な量の書物に眼を通しては、せっせと物書きに勤しんでいる。筆の動きが止まることはなく、二、三回声をかけたくらいでは気づかない。正しく没頭している。
井宿は静かに席を立つと、そっと部屋を出た。
辺りを見回してから胸の前で印を結び、気を探る。幾つか招かれざる客の気を察知して辟易した。まったく、しつこいにも程がある。
――いちいち相手にしていられないのだ。
仕方ないと腹を括って、笠をかぶって移動する。
宮殿の東西南北の要所、城壁に赴いては、呪文を書いた札を貼っていく。ある程度呪符を張り終えた後、網を張った中庭の一角に向かい、井宿は印を結んだ。気を張り詰め、小さく呪文を唱える。刹那――各所に張った呪符が光り、互いを結んで大きな結界を作った。それと同時に各所に潜んでいた招かれざる客たち――恐らく倶東国の間者――が、次々に倒れ込んでいった。
全員の気が消えたのを確認したあと、井宿は息を吐いて印を解いた。
――キリがないのだ。
倶東国の間者は増え続けている。人々の心が豊かで平穏なこの紅南国は、悪く言えば隙だらけなのだ。危機意識が薄い。これでは関所も意味がない。
――中継所を叩くか。
倶東国から紅南国の間に、幾つか間者の溜まり場になっている中継地点がある筈だ。そこを叩けば少しは――。
「す、ざく」
呻き声を聞いて振り返る。
全身黒尽くめの男――倶東国の間者だ。肩で息をしながら井宿を睨み上げている。
殺気を放っているが、攻撃してくる気配はない。どうやら思うように動けないようだ。あの呪文を喰らったあと直ぐに意識を取り戻しただけでも大したものだと井宿は思った。
「七星士、か」
「そうなのだ」
「何故だ。何故、殺さん」
男の問いに眉を顰める。
連中は間者とはいえ、倶東国の兵士だ。生きて返すより殺して捨てた方が後々の為にも良いに決まっている――が。
なるべく殺生はしたくない。
だから殺さない。理由はそれだけだ。
だが井宿は、人道的な理屈だけでは国は成り立たないことを知っている。七星士の中で汚れ役を負うならば、それは自分の任であるということも。
――今は、まだ。
この程度の相手ならば、殺さずとも――。
「無駄な情けをかけるな。さっさと殺せ」
「殺生の権利は勝者にあると思うのだが」
井宿はそう言って、男に近づいた。右手の指先を男の額に当てる。
「それに無駄な情けなどかけていないのだ。その証拠に――少し苦しんで貰うのだ」
空いた左手で印を結び、呪文を唱える。
見開かれた男の眼を見やってから、井宿は眼を瞑った。
***
不意に、ほう、と背後にいた男が唸った。
心宿はゆっくりと振り返り、何事かと眼で問う。子供の姿をした男は――箕宿は、くくっと喉で笑った。
「朱雀の者が仕掛けてきた。紅南国に放った間者を通してわしに攻撃しようとしている」
「あの術者か」
以前に連中が倶東国に侵入した際、一人厄介な男がいた。様々な術に長け、その上いつも一歩引いたところから冷静に戦局を見極めることのできる――朱雀側の懐刀とでも言おうか。
多分その術者だ、と箕宿が楽しそうに告げた。
「貴様の同類だな」
「取るに足らんよ。現にわしまで術が到達しな……」
箕宿の顔色が変わった。室内にあった鏡を指差し、素早く呪文を唱える。鏡面に幾つかの景色が浮かび上がっては、消えていった。
「どうした」
「……わしの気を通して、間者の駐屯地を攻撃しおった」
「ほう……」
これで紅南国に向かう間者の数は激減するなと冷静に悟った後、心宿は半ば放心している男を見やった。
「反撃は出来ぬのか」
「無論、このままでは終わらせん」
箕宿は両手で印を結ぶと、目を閉じた。青い気が彼の小さな身体を包み込む。
――本気か。
相当頭に来ているらしい。
「同じ術者に負けるのは屈辱か? 箕宿」
「負ける?」
わしを誰だと思っている。
不敵に笑んだ術者に向かい、心宿も口端を上げてそれに答えた。
愚問にも程がある、と。
***
それはまるで暗闇に走る青い稲妻。
「っく……!」
折れた両膝が地につく。井宿は息を呑んだ。
全身を雷で貫かれたかのような衝撃――術を返されただけではなく、更に強大な術をかけられたのだと気づく。
思い知らされた力量の差が、若干の恐怖を身に纏わせた。
――倶東が飼っている術者の力とは思えない。
ならばこの力は青龍七星士のもの。だとしたら、今のうちに少しでも損傷を与えておいた方がいい。
再度仕掛けるかと考えたが、井宿はその案を捨てた。攻撃を受けたこの状態で、しかも他の人間――倶東の間者――の身体を通してでは、ろくな結果は得られまい。
『どうした、朱雀の術者よ』
頭の中に若い、子供のような声が響いてきて井宿は驚いた。
不気味な余韻を轟かせて声は告げる。
『仕掛けてこないのか? ならばこちらから』
「生憎だが、相手をするつもりはないのだ」
『逃げるのか。先に仕掛けたのは貴様だろう』
「間者を忍ばせたのはそちらが先なのだ」
くく、と声が笑った。
『何を惚けたことを抜かしている。間者くらい紅南国も送っているだろうよ。ただ、我々の方が優秀なようだが』
「お前達は」
井宿は声を遮るように言葉を挟んだ。
「何がしたいのだ。青龍の巫女を担いで、何を望んでいるのだ」
『担ぐ? あの娘は自らの意思で巫女になったのだ。朱雀の巫女と一緒だよ』
「ならば何故、先々で我々を妨害したのだ」
『巫女様がそう望んだからさ。我ら七星士は巫女の為にある』
一応の筋は通っている。そしてそれは恐らく九割方、真実なのだろう。
鬼宿を巡って、唯が美朱を憎んでいる。
井宿はぎゅっと口を結んだ。
その気持ちは、痛い程よく解るから。
――だから。
助けたい。唯も美朱も。
伝えたい。大好きだから憎むのだと。大好きだから許せないのだと。
だけどどんなに憎くても、どんなに許せなくても――。
大好きであることには、変わりないのだと。
「青龍の巫女に伝えておくのだ。……ずっと今のままでいると、君は大切なものを全て失くすことになる」
『何の話だ?』
「友達を蹴散らしてまで得たものに、価値などないのだ」
そう言い捨てて、井宿は媒介にしていた倶東の間者の額から手を離した。直ぐに印を解き、完全に繋がりを断つ。
嘆息した瞬間、力が抜けた体がふらりと地面に倒れた。それと同時に顔からお面が剥がれ落ちる。
――不味いのだ……。
四肢に力が入らない。思った以上にダメージが大きい。
だがいつまでもこんなところに寝転がっているわけにはいかない。井宿は持てる力を振り絞って、地面に腕を立てた。
「井宿!」
耳に飛び込んできた叫び声にびくりと身を震わせる。
見つかってしまったか。
「どうしたんだ、一体」
声の主を把握して、井宿は一瞬振り向くのを躊躇った。彼にはまだ素顔を見せたことがない。
――言ってる場合ではないか。
大丈夫なのだ、と答えて顔を上げる。眼が合った彼は――軫宿は、心配そうに井宿の顔を覗き込んだ。
「どこが大丈夫だ。顔色が酷く悪いぞ」
仲間の身体を仰向けに寝かせ、首筋に手を当てる。
井宿は再び大丈夫だと答えて起き上がろうとした。だが軫宿の大きな掌が、やんわりとそれを阻んだ。
「今、治す」
有無を言わさぬ声音だった。
開きかけた口を閉じて、井宿は大人しく軫宿の治療を受けた。彼の掌から深緑の光りが溢れ、暖かい気に包まれる。それはとても優しくて、心地良い感覚だった。
「……邪気を受けたな?」
図星を突かれて苦笑を返した。流石名医だ、隠し事はできないらしい。
治療を終えて軫宿が手を引く。井宿はゆっくりと上体を起こすと、術で作ったお面を顔に貼り付けた。
「すまなかったのだ。助かったのだ」
「礼はいい」
だからちゃんと事情を説明しろ、と軫宿の眼が訴える。
真摯な眼を見つめ返して、井宿は観念した。笑って誤魔化せる相手ではない。
「倶東国の間者を見つけたので捕まえようとしたのだが、油断してしまったのだ」
嘘ではない――正しくもないが。
軫宿は黙って井宿を見据えていたが、その内顔を逸らして「そうか」と答えた。井宿の回答を受け入れてくれたらしい。恐らく、正しくないと知っていながら。
「立てるか?」
だっ、と頷いて、すくっと立ち上がった途端――がくりと膝が折れる。
「っだあ〜?」
「……井宿。問診に答えろ」
「だ?」
「一つ、過去の病歴。一つ、昨夜の就寝時間。一つ、今日の食事内容」
「ええと……病歴は特にないのだ」
「残り二つは?」
「……じ、実は、やらなければならないことができて、昨日から、その、そんなに寝てないというか……そういえば、食事を摂った記憶もないのだ……」
ははは、と乾いた声で笑いながら頬を掻く井宿の横で、軫宿が溜息を吐くように吐息をついた。それから黙って後ろを向き、しゃがみ込む。
「軫宿?」
「おぶされ。部屋まで運んでやる」
「っだあ?! そ、そんな、いいのだ。子供じゃあるまいし」
「嫌なら強制的に横抱きになるが」
なんだその二択は――!
あんぐりと口を開いて呆然とする井宿をちらりと見やってから、軫宿が言った。
「ふらついて歩けもしない人間を放っておくわけにはいかん。医者としてだが、それ以前に――仲間として、だ」
――仲間。
低く柔らかい声音から発せられた二文字が、胸に響く。暖かくてむず痒い感覚が心を包み込み、その後少しだけ痛んだ。
井宿はにっこりと微笑んだ。
「……ありがとうなのだ」
そんな言葉しか返せない自分が、嫌だ。
しかしいちいち己に悪態を吐いていても仕方ない。
言葉に甘えて、軫宿の広い背中におぶさる。
「……軽いな。男にしては」
「うっ……言わないで欲しいのだー、けっこう気にしているのだ」
おどけた調子で言うと、軫宿がふと笑んだ。
「だったら自己管理を徹底することだな。……いつまでもこんな無茶をしていたら身が持たんぞ」
普段寡黙な彼がこんなに饒舌なのは、本当は心の底で怒っているからなのかもしれない。井宿はそんな風に思った。
あの時から――この左目に傷を負った時から、出逢う人にはいつも怒られてばかりいる。もっと自分を大切にしろ、と。
『朱雀七星士だから、ではなく――お前という存在そのものをお前自身が愛すのじゃ。さもなくば、お前は』
「また、大切なものを傷つける」
口の中で師の教えを呟く。
軫宿が不思議そうな顔をして振り向いた。微笑んで「なんでもないのだ」と井宿は返した。
絶望の淵から導いてくれた師の、太一君の言葉の意味は、正直なところまだ理解しきれていない。
自分の存在自体を愛す。自分を大切にする。自分を守る。井宿はそんな行為に意味を見出せない。何故なら、自分という存在は――消したくて堪らないものだから。
今は、他に守るものがある。それだけの為に生きているといっても過言ではない。朱雀七星士としての任を終えた時、果たして自分は――。
『いい加減にせんか。全く、お前という奴は面倒な奴じゃのう。こんなに手のかかる七星士はお前が初めてじゃ』
――太一君。
『井宿、わしが約束してやろう。お前の仲間になる朱雀七星士たちは、お前にとってかけがえのない存在となる。わしを信じるのだ、井宿よ』
だから生き延びて力をつけろと太一君は言った。過去に自分が犯した罪に対する贖罪、処遇は、それから考えればいいのだと。
軫宿の背中から伝わる温もりを味わいながら、思う。
そんなことが許されるのか。
かけがえのない存在を、再び手にする――そんなことが、本当に自分に許されているのか。
お面に隠された左目の傷が僅かに痛む。連鎖するように胸の奥に苦い気持ちが広がっていく。
他の七星士とは違う。己は明らかに罪人なのだ。客観的に見てあれは事故だと言われても、そんな言葉はなんの救いにも、慰めにもならない。
世界中の人間に許されようとも、井宿は己を許す気にはなれない。
許してしまえば終わる気がする。人として、成り立たなくなってしまう。自分自身に絶望して、心が壊れて。それでも不様に生き続けるというのなら、この身なんぞ――。
意識が遠のいていく。睡眠不足に疲労過多、いつ気を失ってもおかしくない。
――駄目だ。
まだ、やることがある。北甲国に出発する前に何とか最低限の準備だけはしておかなければ。
朱雀七星士の一人として、この国を、巫女を、仲間を、守る為に。
その為に、その為だけに――生き延びてきたのだから。
――って、あれ?
眼を覚ました井宿は、暫し呆然とした後に勢い良く上体を起こした。辺りを見回すと、どうやら自室である。軫宿が運んでくれたのだろう。
呆気なく意識を失ってしまった自分に嫌気を感じつつ、寝台から抜け出した。
部屋の戸の隙間から微かに光りが差し込んでいる。窓を開け放つと暁の空が見えた。夜明け少し前、といったところか。
靴を履き、袈裟を着て部屋を出る。急いで昨日重臣に借りた執務室に向かった。張宿の様子が気になったのだ。
人通りのまったくない廊下を足早に進み、目的地に到着する。扉を開け放つと、そこには膨大な数の書物に囲まれた机に突っ伏して眠る張宿の姿があった。
安らかな寝息を立てている少年の姿を眼に入れて、とりあえず安堵する。袈裟を脱いで、張宿の身体にそっとかけてやった。
少年は筆を握ったまま寝ていた。しかし書きかけの書は見当たらない。井宿は机横に高く詰まれた巻物を、一つ一つ手に取って見た。
――凄い……のだ。
緻密な文字が整然と並んでいる。内容は機知に富み、古今東西のあらゆる知略が凝縮されていた。
井宿は朱雀七星士最年少である少年の偉業に脱帽した。これがあれば、安心して北甲国に出立できる。
「君は立派なのだ、張宿」
むにゃ、と張宿の顔が歪む。
穏やかに崩れた寝顔が正しく十三歳の少年のそれであったことを、井宿は微笑ましく思った。