明日への誓願
後編
いつまで逃げるつもりだ。
そう問われた時、井宿は心内で「いつまでも」と答えた。
指摘されずとも逃げている自覚はあった。
寺院に入って僧としての修行を積んでも、何も変わらなかった。だから逃げるしかなかった。朱雀七星士である自分から、この能力から、右膝の字から。
受け入れることなど到底できなかった。だって、受け入れてしまったら――積極的に生きることを選んでしまったら、あまりにも申し訳が立たないじゃないか。
みんな死んでしまったのに。あの人たちはもう二度と、蘇ったりはしないのに。
それなのに自分一人が、のうのうと生き残るなんて。
朱雀七星士というだけで。
朱雀七星士というだけで――!
――消えてなくなることも許されないなんて……!
だから井宿は逃げるしかなかった。どうしても死ねないというのなら、なるべく不様に生きたいと思った。それが罪人である自分への罰なのだと彼は思った。
「いい加減にせんか、馬鹿者」
逃げて逃げて逃げて……その度に増す絶望や虚無感が、井宿を追い詰めた。心はとうに干乾びている。なのに未だ狂えもしない。それもこれもこの能力が。この字が。
みんなの許へ行きたい。
気づいたら川の中へ落ちていた。濁流に呑まれながら、心の内で謝罪を繰り返した。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
みんなみんな、ごめんなさい。救えなくて助けられなくて――死なせてしまって。
――飛皋……。
水の中で死に絶える前、お前は何を思ったのだろう。
俺を憎んだだろうか。あの時、お前を憎んでしまった俺のように。
……謝りたい。謝りたいんだ。
だからそこに逝かせてくれ。
「だからいい加減にせんか、この大馬鹿者が!」
怒鳴り声が耳に飛び込んできて、井宿は飛び起きた。眼前にいた砂かけ婆の姿を確認して思わず身を引く。
ここは何処だ。いや、自分が逝くとしたら地獄に決まっているのだが――。
宙に浮いている砂かけ婆は長い溜息を吐いた後、井宿を見据えて言った。
「まったく、情けないにも程があるわ。いつまで逃げるつもりじゃ。いい加減に認めんか。お前はどう足掻いても朱雀七星士なんじゃ。その任から逃れることなどできぬわ」
「なら」
震えた声が漏れる。
もう限界だった。……何もかもが。
「どうすればいい。どうしたら」
堰を切ったように言葉が口からだだ漏れた。
「俺には解らない。知っているなら教えてください。死ねないのならどう生きろというのですか。朱雀七星士として胸を張ることなどできない。俺はそんな人間じゃない。七星士だなんて名乗れない」
「七星士は巫女を守る為に在る者。だからお前は生き延びねばならぬ」
俯いた井宿に向かって、老婆は続けた。
――井宿よ。
お前は誰よりも絶望を知っている。人間の悪しき部分と、善き部分をすべからく見てきた。
そしてその経験は、お前の力になる筈じゃ。お前の力は巫女を守る力、仲間を守る力――。
己を卑しむなとは言わぬ。今のお前には難しいことだろうからな。
だがお前のその力は、確実に役に立つ日がくる。お前はその為に生まれてきたのじゃ。
だから、その日がくるまでお前はお前の力を磨けばよい。
仲間を得て、共に過ごして、それでもまだ何も見出せぬというのなら、その後はお前の好きにしろ。
だが今は生き延びろ。生きて力を高め、巫女が来る日に備えよ。
いいか、もう一度言う。
逃れることなどできはしない。
お前は朱雀七星士の井宿。
それがお前の宿命なのじゃ。文字通りのな――。
老婆の語調は厳しかった。だがその声音は、何者よりも優しかった。
「わしは太一君。ここは大極山じゃ。お前がその気なら、修行を手伝ってもよいぞ」
井宿は呆然と老婆――太一君を見上げた。
何かを考える前に、口が勝手に動いた。
「……強くなれますか」
――俺は。
強くなれますか。
もう二度と何も失わないように。
誰も彼も守りきれるように。
「それはお前次第じゃ」
「俺は」
吐き出す度に震える己の声が鬱陶しい。
井宿は一呼吸置いて、腹から声を出した。人前で喋る時はそうしろと、幼い頃に父に教えられた記憶を微かに思い出しながら。
「強くなりたい。この能力の意義を――知りたい」
生き残ったことに意味があると言うのなら。
その意味の為に生きなければならないと言うのなら。
この能力が、何かを守れる力だというのなら――。
――守りきらなければ。
誰も彼も。その為に生きてきた。その為だけに。
七星士としての任をまっとうする為だけに――。
「これは……」
発せられた声に耳を傾ける。過去の記憶に浸っていた意識を現実に戻して、井宿は顔を上げた。
「兵法、調練の仕方……戦陣図……。井宿、これは一体……」
「張宿の発案ですのだ」
井宿は大量の巻物を引っさげて星宿の執務室に来ていた。卓上に巻物を広げ、その一つに指を差す。
「我々が北甲国に旅立っている間にもし倶東国が侵攻してきたら、今の国軍の状態だと防衛は難しいと張宿は計算しましたのだ。万が一の話ですが戦になった時の事を考えまして、古今東西の兵法を調べ上げ、戦場と成り得る場所の地形なども考慮に入れて、どんな状況にも対応出来るよう策を練り書き留めましたのだ。今すぐに必要となるものではありませんが、兵の調練法などは即刻実施できる有用な案かと……」
「なんと……これを、この短期間に張宿とたった二人で作り上げたというのか」
「オイラは手伝っただけですのだ。全て張宿の作と言って過言ではありませんのだ。……陛下。張宿は、朱雀召喚の件を気負っているようなのですのだ」
巻物から眼を離した星宿の視線が井宿を捕らえて、ああと頷いた。
「そんな気はしていた。しかし、あの件は張宿の所為でない」
「オイラもそう言いましたのだ。でもきっと彼は自分の能力を有用に使って、何か形として残さないと気が済まなかったのだと思います」
「聡明な子だ。余計に重圧を感じたのだろう……。だが、これは充分に汚名を返上出来る作だ」
重臣達の嫌味も減るだろう、と星宿は小声で続けた。
朱雀召喚は国にとっては死活問題だ。それが失敗した今、宮殿内は不穏な空気に包まれている。井宿もその空気を敏感に感じ取っていた。
「七星士が明るいのが、救いですのだ」
「そうだな」
微笑む星宿の顔にも疲労が窺える。政だけでも忙しいというのに、倶東国との折り合いや美朱との件で、心休まる時もない――それなのに不平不満一つ口にしない。偶に出る言葉は自責の念だけだ。
――立派な方なのだ。
だからせめて、もう少し自愛して貰いたいものだが……。
――えっ……?
オイラ、今、なんて。
「井宿」
反射的に「はい」と返事をした。
両手を組んで俯いた星宿が、低く声を発する。
「もし、倶東と戦になったら……他国はどう動くと思う」
他国――この場合は、北甲国と西廊国のことだろう。
井宿は短い沈黙を挟んで、口を開いた。
「四神に恒久の平和を願っていたとしたら……静観を貫くと思います。援軍は望めないでしょう。距離的にも難しいですのだ」
「やはりな……。しかし張宿が製作したこの書は我々の大きな武器になる。出来るだけ戦は避けたいが、これで少し安心したよ」
「有難いお言葉ですのだ。張宿にも伝えてやって欲しいですのだ」
「無論だ。ところで、北甲国への道のりなのだが……何通りかあるのだが、お前の眼から見てどれがいいだろう。安全な航海をするなら、我が国の使節団がいつも使っている海路があるのだが」
机の傍らに置いてあった地図を引き寄せ、星宿が指を差した。
「そうですね……国交に使用している海路を進めば、倶東――青龍七星士も下手に妨害することは……」
――いや。
青龍側にはまだどんな能力者がいるのか解らない。それに昨日間接的に対峙したあの術者の力は相当なものだった。
邪魔は入るものと考えて動くべきか。しかし海上では明らかにこちらが不利――。
「井宿?」
「いえ。……国交に使用している海路ですが、海流によっては船が流されかねません。何があっても陸地に辿りつけるように、海流の影響を受けない海路が適切かと思いますのだ。つまり――運河ですね」
「そうか。そうだな、何が起こるか解らぬ……」
心苦しそうに星宿が呟いた。厳しい旅になると彼も解っているのだろう。だが自分は都から出られない。美朱を、仲間を、自分の手で守ることが出来ない。
「大丈夫ですのだ、星宿様」
井宿はなるべく優しく微笑みかけた。星宿の苦悩が少しでも晴れるように。
「何があっても、みんな守りますのだ。七星士の証――字に懸けて」
顔を上げた星宿が、ふっと笑った。
「……お前には苦労をかけるな」
「オイラの苦労なんか、星宿様には遠く及びませんのだ。どうかご無理をなさらずに、御心とお身体を休めて欲しいですのだ」
「お前もな」
あっさり切り返されて、井宿は愕然とした。
星宿の顔に貼り付けられていた微笑が苦笑へと変わる。
「お面が外れたことにも気づかないくらい、疲れているのだろう」
――えっ!
井宿はぎょっとして己の顔に触れた。ざらりとした感触が指先に当たる――目の傷だ。辺りを見回すと、足元に剥がれたお面が落ちていた。
「出発までまだ日数がある。その間はゆっくり休め」
お面を拾い上げ再び装着する前に、井宿は苦笑を見せた。
「星宿様も、どうか……お休みになってください」
「ああ。そうしよう」
星宿の大人びた笑顔を見やってから、お面をつける。
「では、お言葉に甘えて休ませて貰いますのだ。他に何か御用はありませんのだ?」
「ああ、大丈夫だ。本当にちゃんと休むのだぞ」
はい、と答えて会釈し、井宿は静かに退室した。扉を閉めてから嘆息する。
――自愛……。
ついさっき、星宿に望んだことだ。もっと自分を大切にして欲しいと。
朱雀七星士だから、ではなく――お前という存在そのものをお前自身が愛すのじゃ。
さもなくば、お前はまた、大切なものを傷つける。
太一君の言葉を改めて反芻する。
理解しきれなかったその意味が、今なら解る――
「ちーちーりー」
気がしたのだが。
井宿の思考は唐突な呼びかけによって遮られてしまった。
振り返ると真後ろに柳宿がいて、井宿は思わず「だあっ!」と叫び身を引いた。
「何よ、化け物でも見たような反応して。失礼ね」
「び、びっくりしたのだ」
「あっそう。ねえ井宿。あんた最近、星宿様と仲良いわよねえ?」
じろっと睨み上げてくる柳宿を見返して、井宿はいやいやいやと首を振った。
そんなありえない勘繰りをされても非常に困る。
「柳宿が思っているようなことには絶対にならないから大丈夫なのだ」
「あ、やっぱり? ならいいのよ」
機嫌良く笑いながら柳宿が勢い良く井宿の背中を叩いた。
――だっ……!
涙が出そうになるくらい痛い。流石、怪力の持ち主だ。
「あ、そうだ井宿。あんた大丈夫なの?」
「何がなのだ?」
「さっき軫宿から聞いたんだけど、あんた倶東の間者とやり合ってたんだって?」
ぎくりとして、思わず柳宿から目を逸らした。
「あのねえ、そういうことはちゃんと報告しなさいよ」
「だ……その、大した事じゃなかったし、みんなにあまり心配をかけたくなかったのだ」
「いいじゃない、心配かけたって」
「だ?」
「ていうか心配させなさいよ。私達、仲間じゃない。隠されたら余計に心配するわよ。それと、一人で全部片付けようとするの止めなさいよね。危なくなったら仲間呼べばいいんだからさ」
あんた変なところ馬鹿よね、と柳宿は続けて笑った。
井宿はそんな柳宿の顔をぽかんと眺めた。
「あっ、それであんた大丈夫なの、身体。軫宿心配してたわよ。容態診る為に部屋に行ったらもぬけの殻だったって」
「あ、ああ……平気なのだ。用事が済んだから、出発まではゆっくり休むのだ」
「ならいいけど。無理するんじゃないわよ」
「だ。……柳宿」
二、三歩先に進んだ柳宿が「何?」と振り返る。
判断力がブレーキをかける前に、井宿は無意識の内に尋ねていた。
「オイラが死んだら、悲しいのだ?」
仲間が唖然とした顔を見せる。井宿はその顔を見て、しまったと思った。
一体何を聞いているのだろう。突然、こんな――。
「バッカじゃないの」
焦燥は動揺へと変化し、一喝されて全て消えてなくなった。
――馬鹿。
そうだ、オイラは。
「そんなの、当ったり前じゃない」
断言した柳宿を呆然と見下ろす。
ふ、と笑んだ柳宿がぐいっと顔を近づけてきた。
「何、あんた知らなかったの?」
「っだ?」
「じゃあ教えてあげるわ。好きよ、井宿。みんなあんたの事がね。だから心配するんじゃない」
――ああ……。
そうか。
朱雀七星士だから、ではなく――お前という存在そのものをお前自身が愛すのじゃ。
さもなくば、お前はまた、大切なものを傷つける。
自分自身を大切にしなければ、自分が大切に想っている人を――自分を愛してくれている人を、傷つけてしまう。
だから自分を愛せ、と太一君は言ったのだ。
――オイラは……。
もう、とっくに手にしてしまっていた。
かけがえのない存在を――仲間を。
なくしたくない、大切な人たちを。
「だからね、一人で無茶しないの。みーんな、あんたのこと大切に想ってるんだから。ね?」
投げかけられる言葉の全てが嬉しくて、胸がいっぱいになる。
だけど同時に申し訳ないと思った。そんなことを言われる資格など自分にはない。七星士としても人間としても不適格である己は、そんな言葉を貰える立場にない――。
でも今それを口にしてしまえば、仲間を否定することになる。自分を大切に想ってくれる人たちを傷つけることになる。それでは本末転倒だ。
井宿は己の顔に触れて、静かにお面を剥がした。
素顔で柳宿に微笑みかける。またこんな風に微笑える日が来るなんて、三年前の自分は思いもしなかったなと思いながら。
「ありがとう」
心の底から礼を言う。それしか言葉は見つからなかった。
にやっと笑んだ柳宿が「どういたしまして」と言ってウインクを返した。それから井宿の顔をまじまじと見つめて、
「ねえ、あんたさ。お面の笑顔も可愛くていいけど、素顔の笑顔も凄く素敵よ。なんかホッとするわ」
と言った。
井宿は数秒固まった後、口元に手を当てて顔を逸らした。頬が赤くなっていくのが自分でもよく解る。さっさとお面をつけて隠してしまえばいいのに、まったくそこまで気が回らなかった。
案の定、柳宿からツッコミが入る。
「あーれー? 照れてんの? やあねえ井宿、かわいいー」
それは一般成人男子に使う褒め言葉ではないのだ……、と思いながら井宿はようやく手中にお面があったことを思い出し、急いで装着した。貼り付けたと同時に自分の顔になってしまうから、頬の赤みまでは隠せないが。
「柳宿も、カッコイイのだ」
「可憐といいなさい、可憐と!」
また叩かれそうだったので少し距離を取ったあとに「可憐なのだ」と言い直す。
柳宿は「よし!」と腕を組んで納得した後、上機嫌に廊下を進んだ。
離れていく仲間の背を見つめて――井宿はまた少し不安になった。
こんな風に幸せな気持ちを味わっていいのだろうか。そんなことが本当に許されているのだろうか。
――でも……。
これは罰だから、自分は不幸でなければならないのだ――なんて思っていることをみんなに知られたら、きっと。
――悲しませてしまう。
もし自分が逆の立場だったらきっと悲しむ。他の仲間が、美朱や鬼宿、柳宿、星宿、翼宿、軫宿、張宿が、そんな風に思っているのだと知ったら、きっと言う筈だ。「そんなことはないのだ」と。君を大切に思ってくれる人がいる以上、君は幸せに生き続けるべきなのだと。
井宿は唇を噛んだ。
他人だったら幾らでも許せる。だけど自分は。自分自身だけは――。
――駄目だ。
まだ割り切れない。割り切ってはいけないのだ、と過去の記憶が訴える。この眼に焼きついた光景が、身体の芯にまで染み込んだ絶望が、井宿を捕らえて離さない。
積極的に生を選ぶことなど出来ない。だけれど――自分はもう独りではない。
守るべき人達がいる。大切な、かけがえのない存在。
「守りきらなければ……」
当初、それは闇雲に、半ばやけくそ気味に抱いた決意だった。
七星士であるから生き延びねばならないというのなら、この能力を最大限有効に使ってやろう。どうせそれ以外に使い道のない能力なのだから――と。
だが今は違う。今は素直に、守りたいから守るのだと思える。彼等が大切だから、なくしたくない存在だから。
だから井宿は誓う。
今日から繋がる明日へと向けて。明日から繋がる未来へと向けて。
――守る。
誰も彼も、守りきる。
それがオイラの宿命なのだ。文字通りの――。
ふと天井を見上げる。天の彼方――大極山に住まう師に向けて、井宿は言った。
「ようやく解りましたのだ。仲間と……自分を、守る理由が」
自室に戻る為に長い長い廊下を進む。
遅いんじゃ馬鹿たれ、という太一君の悪態が聞こえた気がして、井宿は密かに笑った。
<終>
071229