眠れない夜には




 針を刺したような痛みが頬を襲う。北国の風は予想以上に冷たい。
 だが不思議と井宿はこの国の風土に心地良さを感じていた。気候的に厳しい土地であるにも関わらず人々は開放的で、活気付いている。
 北甲国は特に夜が寒い。身体の芯まで冷えるというのはこのことだと井宿は思った。だがこの国の夜は静寂に満ちていて、落ち着く。
 じっとはしていられないから絶えず両手を擦った。指に息を吹きかけて、天を仰ぐ。
 真っ黒い空に、眩しく輝く星たち。
 美しい天体を眺めていると、何をしにこの国に来たのか忘れそうになる。そう気づく度に井宿は苦笑し、己を叱咤した。
 そんな事では駄目だ。そんな覚悟では何も守れない。
 ――本当に。
 こんな事では駄目だというのに、体力温存の為に寝付けもしない。
 眠れない夜は幾度とあったが近頃は酷い。
 大切なものを、かけがえのない存在を再び手にして、井宿は喜びと同時に不安を感じている。その不安が彼の中に燻り続ける焦燥を煽った。
 ――守りきれるかどうか。
 そう思うと目を瞑ることすら怖くなる。いつ青龍七星士の襲撃があるか解らないのだ、安穏とはしていられない。
 全く、自分の臆病さにはほとほと愛想がつきると井宿は思った。幸福だけをただ享受していたあの頃と何ら変わらない。
 それでも昔は、自分の臆病さも無力さも全て棚に上げて、笑うことができた。沢山の優しい人たちに、大好きな人たちに囲まれて生きていたから。
 ――馬鹿なのだ。
 独りで思い悩んでも何も変わらない。焦るだけ無駄だと、今の井宿は知っている。それでも――考えてしまう。また、大切なものをこの手中に入れてしまったから。
「井宿」
 予期せぬ声に呼ばれて顔を上げる。みんなが寝静まったのを確認してから出てきた筈なのだが。
 振り返ると、毛布を身に纏った軫宿が見下ろしていた。
「こんなところで寝ると凍死するぞ」
「いや……ここで寝るつもりはなかったのだが」
「寝付けないのか?」
 井宿の隣りにゆっくりと腰を下ろしながら軫宿が尋ねた。
 医者なのだから当たり前なのかもしれないが、彼の診断の的確さには毎度感心させられる。
ここは余計に寝付けないだろう」
「だ。……少し、外の空気を吸いたかったのだ。落ち着く気がしたのだ」
 白い息を吐いて、軫宿が真っ黒い空を見つめた。広大であり壮大な、雲一つない空を。
「……静かな夜だな」
「獣の声すら聞こえないのだ」
「ああ。だが寒い夜だ」
 紅南の人間には厳しいな、と軫宿は続けた。
 だが井宿には「そろそろみんなの元へ帰ろう」と言っているように聞こえた。
 心内で深く反省する。また、仲間に心配をかけてしまった。
 ――馬鹿なのだ……。
 もっともっと、上手く接することができたらいいのに。
「なのだ。寒いから戻るのだ」
「ああ。……暖かい方が寝付ける筈だ」
 柔らかく微笑む軫宿の笑顔を見て、心が和らいだ。身体の芯がぽっと温かくなる。これなら眠れるかもしれない。
 二人は立ち上がって、幕舎に引き返した。みんな毛布に包まって寝ている。
 抜け出す前に寝転がっていた場所に向かうと、足元から「んあ?」と声が聞こえた。
「なん……寒い」
 近くで寝ていた翼宿が薄く眼を開けて呻き声をあげる。幕舎の出入り口を開けたから、冷たい風が中に侵入してきたのだろう。
 井宿より先に、後ろにいた軫宿がぽつりと呟くように告げた。
「井宿が外にいたんだ」
「はあ? 何してんねん〜」
 翼宿は寝惚けた声で唸ると、いきなり後ろから井宿に抱き付いた。驚く暇も与えず井宿を横に倒し、毛布で身体を包み込む。
「だっ、だっ?!」
「冷た! あ〜もう」
 文句を言いつつ井宿の冷たい身体を包み込み、翼宿は「おやすみー……」と呟いて寝に入った。
 行動の意図がまったく汲み取れず、井宿は異様に動揺しながら翼宿に尋ねた。
「た、翼宿、なんで」
「あ〜? くっついてたら暖かくなるやろ……」
 それから三秒も経たない内にぐー、という寝息が後ろから聞こえてきた。
 井宿は呆然と固まった。
 確かに暖かい。暖かいが――。
 ふと、同じく呆然と固まっていた軫宿と眼が合った。
 顔を見合わせた二人は、思わず――笑ってしまった。
「敵わないな、翼宿には」
「なのだ」
 全く勝てる気がしないなと思いながら、軫宿に「おやすみなのだ」と返して、井宿は眼を瞑った。
 目前に広がる暗闇も、背中から伝わる暖かさが光りに変えてくれる。
 そんな気がした。






 ちなみに、翌日早朝。

「ん……ああ?! なんでお前俺に抱き締められてんねん、気色悪っ!」
「うーん、その言い分は微妙に腹が立つのだが今回は許してやるのだ」
「なんやねんそれ、わけ解らんわ。あー腹減った」

 やっぱり、翼宿には勝てる気がしないと井宿は思った。














080119