遺された覚悟
軫宿編
覚悟していたかと聞かれたら、否と答えるしかない。
微塵の覚悟もなかった。自分の能力に甘えて、過信していたのかもしれない。
軫宿は廊下の縁に寄りかかり、庭園を眺めていた。広大で緑の多いその庭は静寂に包まれている。細い水路から池に流れ落ちる水が心地良い音を奏でた。
西廊国から戻ってきた巫女と七星士たちは束の間の休息を味わっていた。もうすぐ、青龍の召喚に成功した倶東国との戦が始まる。
苦しい戦いになるのは解りきっている。それでも戦わなければならない。絶望的に不利だと解っていても、それでも――立ち上がらなければならない時はあるのだ。
何とかして守りきらなければ、死んでいった者達に顔向けできない。
軫宿は眉を顰めて、庭園から視線を離した。ゆっくりと廊下を進み行く。五感を支配する静謐に耐えられなくなったのだ。
暫く足を進めると、廊下の縁に背を預けて立ち尽くしている井宿がいた。両手で一本の巻物を掴み、無表情を俯かせている。
声をかけようとして口を閉じる。黙って俯く井宿の横顔を、軫宿も黙って見つめた。廊下は依然として静寂と化している。
宮殿中が阿鼻叫喚となって忙しく動いている中、この廊下の静けさは異様とも言えた。少しして、軫宿は何故この廊下がこんなに静かなのか解った。すぐそこ、井宿が立っているところの正面にある部屋は、星宿の執務室だ。宮殿の者は気遣ってこの廊下を通らないのだろう。
そんなことを思っていると、井宿が顔を上げた。彼の狐目が柔らかく軫宿を捕らえる。そして、僅かに笑んだ。
「どうしたのだ?」
「いや……お前こそどうしたんだ」
井宿は微笑を崩さずに、小さく首を振った。
「軫宿、十三歳のころ何をしていたのだ?」
あまりにも予想外な質問を浴びて、軫宿は面を食らった。十三、という数字から数日前に戦死した仲間を連想して、少し胸が痛む。
助けられる力があるのに助けられなかった。あの時、彼を――張宿を助けていたら、どうなっていただろう。あの術者には苦戦したかもしれないが、それでもみんなで力を合わせれば倒せたかもしれない。
無論そんな話は今更すぎて、口に出すのも無粋だが。
「十三歳、か。そうだな……」
目を逸らして昔の記憶を辿る。十三歳――あの大規模な洪水で一族を失う三年前の頃。
「父に言われて……医術や薬学の勉強に励んでいた。ようやく将来を考え始めた頃だ」
「オイラも似たようなものなのだ」
発言の意図が汲み取れず、軫宿は井宿に目を戻した。
微笑した狐目。そのお面を剥がして軫宿に向き直った彼は、笑みを浮かべた。
優しくて、柔らかくて、そしてほんの少しだけ――寂しくて、どこか哀しくて。
そして井宿は軫宿から顔を逸らし、数歩歩いて正面にあった扉を開き、その部屋に入っていった。
――そこは……。
陛下の――。
軫宿は口を閉じて、扉から目を逸らした。
今までの旅、戦いの中で、みんな沢山傷ついた。これから始まる戦は、そんな仲間の心を更に傷つけるものになるだろう。それは誰だって、井宿だって例外ではない筈だ。
――十三歳の頃、か。
あえてその歳の話を振るということは、井宿も張宿のことを考えていたのかもしれない。聡明でありながら且つ誰にも負けぬ勇気を持った少年のことを。
自分が十三歳だった頃に比べれば、張宿は本当に尊敬に値する男である。あれ程の勇気と胆力を持った子供は、他には――。
『オイラも似たようなものなのだ』
――ああ……。
そうか、お前も――……そうだよな。
本当に、比べ物にならないくらい――張宿は素晴らしい七星士だった。
だから自分たちも負けてはいられない。仲間の死を無駄にしないためにも――例え能力が使えなくたって、自分たちは朱雀七星士だ。
巫女を守り、国を守る。大切な人達の為に。
だから全力を尽くして挑むのだ。そして諦めてはならない。
――絶対に。
最期のその一瞬まで、諦めてはいけない。
ぎゅっと拳を握って、空を仰いだ。雲がゆったりと漂う様を眺めながら、軫宿は死んでしまった恋人の顔を思い出した。
「少華」
小さくその名を口にする。音はすぐ空気に吸い込まれて、分散された。
――少華。
お前に誓う。
俺は最期まで諦めない。その一瞬まで、絶対に諦めない。
仲間の為にも、自分の為にも――もしかしたら生まれ変わってこの地に生きているかもしれない、お前の為にも。
「見ていてくれ……少華」
握った拳を胸に置き、軫宿は静かに目を瞑った。
080228