遺された覚悟

  井宿編  




 誰も彼も守りきる、その為だけに生き長らえた筈なのに。
 力を蓄えて強くなったというのに何も守りきれなかったのは何故だ。結局は力の、能力の問題などではなかったというのか。
 恐らくそれが答えなのだろうと井宿は冷静に思った。
 後手に回り続けた結果、二人の仲間を失った。そしてこの国は戦へと歩みを進めている。
 望んでなどいなかった最悪の未来が今、現実として井宿の網膜に襲いかかる。何がいけなかったのかと過去を振り返ったところで、この現状には何の役にも立たない。
 だがそうと解っていても考えてしまう。今も昔も――もっと冷徹になって、この力を存分に行使していれば。
 ――心宿のようになったのだろうか。
 もしああなれたとしても、朱雀の仲間は誰一人ついてこないだろう。だから――やはり無意味なのだ。
 今は来るべき戦の為に頭を使わなければならない。朱雀を封印されて能力を失った七星士たちに出来ることは少ないが、それでも諦めるわけにはいかないのだ。それが宿命を背負った者達の責務である。
「失礼します」
 部屋に侵入した後で井宿は口を開いた。
 椅子に座り、机に肘を立てて指を組んでいた星宿が顔を上げる。皇帝の顔からは焦燥と疲労の色が窺えた。
「ああ、井宿……調度良かった。戦陣について、そなたの意見を聞きたくてな」
「兵法は大昔に齧った程度ですのでオイラには何とも言えませんのだ。陛下の欲するお答えは、張宿が生前に出してくれていると思いますが」
 星宿の机は巻物や書物でほとんど埋もれていた。北甲国に向かう前に張宿の提案で製作した、戦になった時の為の兵法や奇策、戦陣図の数々である。
 その一つを手に取り、星宿は「ああ」と答えた。
「張宿が起案してくれた兵の調練法などは、お前達が旅に出ている間も実施し続けていた。おかげで兵の力、質、共に飛躍的に向上した。……だが倶東国が相手ではそれでも足りぬ」
「はい。ですからそれを補う為にも策が重要ですのだ。軍師殿は何とおっしゃられているのですか」
「兵の数に差がある。だから先陣は相手にせず、本陣を叩くのが妥当であろうと言っていた。私もそれには賛成だが、いや……」
 手にしていた巻物を卓上に置き、星宿は俯いた。暫しの間眼を伏せ、開眼と同時に井宿をじっと見やる。
「井宿。……この戦、勝てると思うか」
「勝たねばなりませんのだ」
 それは少し残酷な言い回しかもしれない、と井宿は思った。
 こんな話はしたくない。だけれど、しないわけにはいかない。それは星宿も同じだろうが――。
「ああ……そうだ。勝たねばならぬ。しかし……不利な戦と解っていて、兵を死なせて良いものか」
 勝たなければならない。それは解っている。だが同時に、このままでは負けることも解っている。例えどんな策を練ったとしても、青龍七星士たちが相手では生身の人間は敵わないだろう。
 だから奇跡に賭けるしかない。朱雀の封印が解かれるか、何らかの理由で倶東が引くか――何にしても現実味のまったくない、そんな奇跡が起こるのを信じるしかないのだ。
 そんな、馬鹿みたいな神頼みを。
「張宿が起案してくれた策は多岐に渡っていた。これなら局地的には勝てるかもしれぬと思った……だが私はどうしても、勝てる策より兵の犠牲が少ない策を選んでしまう。それは……甘いのだろうか」
「そんなことはないと思いますのだ。あくまで私見ですが……。陛下は国取り合戦に参加しているわけではないのですから、勝つことに拘らなくても良いと思いますのだ。倶東の兵を引き揚げさせる、それが目的なら陛下のご意志を尊重して戦を進めるのは、決して甘くは……むしろ、そちらの方が厳しく、辛い道になるでしょう。掲げた誇りを貫き通すということは容易なことではありませんから」
 厳しいのか優しいのか、自分でもよく解らなかった。年長者として言える言葉はあるとしても、相手は皇帝陛下である。立場が違えば認識も違うのだ、そして負うべき責任も。
 国を背負っている星宿に言えることなど本当は何もないのだ。だがそれでも、言わないわけにはいかない。彼が迷っているというのなら。
 ――何にしても同じ事なのだ。
 井宿は神頼みの奇跡など期待していない。だが仲間なら期待できる。信じることができる。彼は今、その一点だけを主柱にして立っている。
 具体的な打開策は何もない。このまま倶東国とぶつかれば喰われるだけだ。だが未来の決定権は人間にはないし、それは大極山に住まうあの方でさえ持ち得ないのである。
 だから最期まで諦めてはいけない。例え目の前に広がる道がどんなに困難な道であろうとも。
「……すまない。甘いのではなく、甘えているのだな、私は」
 苦笑を返した星宿の眼を見やって、井宿は「いいえ」と静かに首を横に振った。
「謝ることはありませんのだ。……貴方も人間なのですから」
 だからそう、完璧を求めて苦心しなくとも良いのだ。今は特に――貴方は確かに皇帝陛下だけれど、同時にまだ齢十八の青年なのだから。
 眼を丸くさせたあと、星宿は優しい笑みを浮かべた。井宿の言葉の意味を正確に読み取った皇帝は、実に落ち着いた声音を放ってみせた。
「ありがとう、井宿。少し肩の荷が下りた。……駄目かな、それでは」
「惑うことも迷うことも、恥ずべきことではありませんのだ。陛下は陛下のご裁量で――出来る限りのことを為されば宜しいのです。陛下を人身御供にするつもりなど誰にもありませんし、また陛下がそうなることを望む者はおりませんのだ」
 冷静に諭しながら、理想と現実の狭間で苦しんでいるのは星宿だけではないことを井宿は自覚した。
 守るものが大きければ大きいほど守りづらくなる。掲げる理想が突きつけられる現実に対応しきれず、脆くも崩れ去る様が見て取れた。
 だが悲観に暮れている暇はないのだ。迫りくる期限が思考回路さえも破壊する。
 井宿は思う。今、我々に求められているものがあるとすれば、それはたった一つ。
 覚悟を決めることだ。
「……ならばどうすれば良い?」
 その質問を、皇帝陛下が発したものではなく齢十八の青年が発したものであると受け取った井宿は、優しく微笑んだ。
「簡単ですのだ」
「え?」
「開き直ってしまえばいいのですのだ」
 星宿の端正な顔が綺麗に固まったあと、緩やかに崩れていった。口元に手をあて、くすくすと笑いながら皇帝は言った。
「そうか、成る程な。その手があったか」
「はい。ですからどうか、お一人で全てを抱え込もうとなさらないで下さい。まだ雌雄は決していないのですから」
「そうだな。少し悲観が過ぎたようだ。焦っていても仕方ない。諦めずに、出来る限りのことをしよう。私の器の範囲で」
「ですのだ。さて、そんな星宿様に朗報ですのだっ」
 場を和ませるようにおどけて喋る。お面をつけていた方がより効果的なのだが、皇帝陛下と対面しているのに素顔を隠したままでは流石に失礼なので、お面は入室前に剥がしていた。
「これをご覧くださいなのだ」
 井宿は卓上に持っていた巻物を広げた。
「これは……?」
「倶東国側の戦陣図及び戦略の大まかな概要ですのだ」
「何……? 井宿、そなたまさか向こうに乗り込んで」
「まさか、そんなことはありませんのだ。オイラも術は使えなくなってしまいましたから行きたくても行けませんのだ。これは、倶東国に放った我が国の間者が調べてきたものですのだ」
「間者が? 私にはそのような報は入っておらぬが……その者はどうしたのだ?」
「手当てを受けていますのだ。先刻宮殿に帰ってきたのですが、追っ手にかなり酷くやられたようで重傷ですのだ。――しかし陛下、これがあれば五分とは言わずとも、倶東軍に一泡吹かせるぐらいのことは出来ますのだ」
「うむ……。よし、具体的に策を練ろう。これから軍議を行う、そなたも同席してくれ」
「わかりましたのだ」
 立ち上がり執務室を出た星宿を見送って、井宿は一息吐いた。
 皇帝陛下相手に偉そうに講釈を垂れることの出来る身分でもなければ立場でもない。自分自身すらこの現状にどう対処すれば良いのか解らずにいる。それでも口を開き言葉を紡いだのは、井宿なりに腹を括った末の決断であった。
 何故陛下に言葉をかける気になったのか――それは今星宿に手渡した、間諜が持ち帰った巻物を見てしまったからである。
 ただの気の所為で終わってしまったら大変だから星宿には伏せたが、実際問題、これは妙な話なのだ。
 ――何故生きている?
 持ち帰ったのは倶東国の重要機密である。追っ手が放たれたということは機密の漏洩に倶東も気がついたということだ。それなのに何故あの間諜は生きている。本来なら殺されて当然だ。我が国よりも優秀な倶東軍の追っ手から逃げ切ったという話はとても信じ難いが、嘘を吐いているようには見えなかった。だとしたら――倶東側がわざと手を抜いた、つまりわざと情報を持ち帰らせた、ということになる。
 もしかしたらこの情報は全くのでたらめで、倶東国側の戦略の一環なのではないかと井宿は一瞬疑ったが、すぐにその考えを消し去った。何故なら、そんなことをする意味がないからである。正面衝突したって圧勝すると思われる程の戦力差なのだ。わざわざ奇策を練る必要はないし、こんなことで我が国の軍隊を翻弄したところで戦場が悪戯に混乱するだけである。倶東国だってなるべく敏速に勝利を収めて奪った領土を統治したい筈だ。
 だとしたらこの情報は本物ということになる。なら倶東国は何故わざとそれを流したのか。そう考えた時、井宿の脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。青龍七星士の筆頭、倶東軍の将軍――心宿。
 あの男は何を考えているのだろう。もし奴が青龍の巫女、そして倶東国の為に動いてはいないのだとしたら――己の私利私欲の為に行動していたとしたら。
 ――何を狙っている。何が欲しいのだ。
 何故軍隊の情報を流した。少しぐらい手応えがなければつまらないとでも言いたいのか。戦局が悪化した方がより楽しめるとでも?
 もしそうだとしたらふざけた話だ。だが奴の目論見は、もっと別のところにあるような気もする。
 いずれにしても心宿の思惑は推し量れない。ならば今はあえてそれは考えず、この手に入れた情報を有効に利用すべきだと井宿は考えたのだった。
 これが吉とでるか凶とでるかは、戦場に赴いてみなければ解らない。
 井宿は眼を細めた。
 ――君がいたら……。
 相談もできたし、もっと明確な分析と有効な対処法を導き出してくれたのだろう。
 卓上に乗っていた書物に手をかけ、頁を捲る。彼の手によって引かれた朱色の赤線が眼に飛び込んできた。細かやかで綺麗な文字で外注が付け足してある。その文字を指先で撫でながら、井宿は呟いた。
「すまない」
 君を守れなくて、助けられなくて。
 誰も彼も守りきると、そう誓ったのに――その為だけに生き長らえてきたのに。
 まだ十三歳だった少年の最期は、その場に残っていた軫宿や翼宿に聞いたところ、とても立派なものだったらしい。
 あれほど気高く勇敢な少年を、井宿は他に知らない。
「君の策を使うのだ、張宿。この国と、君が大事にしていた仲間の為に」
 井宿はそう告げると、精一杯の笑顔を見せた。生前に彼が暖かいと言ってくれた笑顔を。
 書物を閉じて卓上に置き、井宿はお面を取り出した。
 争い、戦いは好きじゃない。血も死体も見たくない。だけど平和に導く力も策も、今の自分にはない。
 大切なものを守る為に剣を手に取り戦う。それ自体がエゴだと断言するつもりはない。結局は其々の判断に委ねられる問題だ。正しさ、正義の定義は人によって違う。
 ならば今の自分の正義は、正しさは何だ。それは戦いが嫌いだからといって、戦いから逃げることではない筈だ。
 これ以上仲間を失ってたまるか。根底にあるのはそんな感情論でしかないのだと思う。だがそれ以上の答えが他に必要だろうか。明確な理屈が、正当性のある理由がなければ動けないなんて、そんなのは糞食らえだ。そんなことでは何も守れやしない。
 井宿はそっとお面を顔に貼り付けた。
 読めない未来を無理に読もうとすれば痛い目を見る。だからこの先のことは深く考えない。最良の結果も、最悪の結果も、今は――今はただ、目前に立ち塞がる壁を一つ一つ乗り越えていくことを考えなければ。
 宿命の星は重い。だが井宿は仲間と出会って以来、右膝に浮き出る字を煩わしく思ったことは一度もなかった。その事実が彼に勇気を与え、同時に彼の背中を押す。
 朱雀七星士の誇りを胸に、この国と巫女と仲間を守る為に戦えることが今は嬉しい。
 だから戦う。七星士としての能力を失っても、自分達は……。
「……ああ、そうなのだ」
 例え力が無くとも、字が無くとも、オイラ達は朱雀七星士なのだ――そうなのだね、張宿。
 その誇りがあるから歩んでいける。怯まずに敵に立ち向かうことができる。
 君が遺してくれた言葉は忘れない。
 心の中でそう告げて、広げた巻物を手にする。
 そして井宿は覚悟を決めた。
 最期を迎えるその刹那まで――朱雀七星士で在り続ける覚悟を。
 
 
 









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