終わらない続きと、新たな始まり




 耳を澄ませば、川のせせらぎが聞こえる。
 天を仰げば、鳥達が優雅に空中散歩を愉しんでいる姿が眼に映る。
 穏やかに流れる時間を存分に味わう。それは定職に就かない流浪の旅人の特権でもある。
 井宿は自然の中で静寂に浸るのが好きだった。暖かな木漏れ日を浴びて、うんと伸びをする。それだけで気持ちが良くなる。
 街は常に喧騒が付きまとう。人が沢山いるからだ。だからいつも人里から少し離れたところで野宿をする。
 人が嫌いなわけではない。それなのにいつもわざと人から逃げているみたいだと、自分でもよく思う。
 怖いのか。それとも寂しいのか。
 どこへ行っても知っている人などいない。逆に井宿を知る人もいない。人脈は七星士時代に世話になった宮殿内と仲間の一人が暮らしている至t山にしかなく、そこへ行かなければ井宿は知り合いに会えない。
 白い雲がゆったりと漂う青空を見上げながら、井宿はふと昔に世話になった寺院のことを思い出した。お坊様達はご健在だろうか。倶東国との戦争の影響は如何程にあったのだろう。
「かわいそうだよう」
 不意に子供の甲高い声が耳を貫いた。見ると、川辺に釣竿を持った子供が二人いた。
「なにがかわいそうだよ。これは今日のご飯なんだぞ」
「だって、かわいそうだよう。まだこんなに元気なのに」
 桶の中を見下ろして、子供の一人が泣きそうな顔をした。きっとその中には釣れたての魚が泳いでいるのだろう。
 向かい合っている子供がきっと目つきを鋭くして、怒った。
「バカ! 食べないとおれたちが死んじゃうんだぞ」
「だ、だって……だって、」
「だってじゃない。お前昨日、貝を食べたじゃないか。あれだって生きてんだぞ。魚だって同じだ」
「そ……そうだけど……」
「なんだよ!」
「そんなに怒ってはかわいそうなのだ」
 ぬっ、と二人の間に割って入る。
 一瞬の間の後、うわああああっと子供達の悲鳴が周囲に響き渡った。
「な、なんだよおっさん!」
「おっさん?!」
 瞬間的に立ち直れない程のダメージを食らい、井宿は項垂れた。
 素顔ならまだしも、お面を装着した状態でおっさん呼ばわりされるなんて――年齢とは空気で伝わるものなのか――否、オイラまだおっさん呼ばわりされる歳ではないと思うのだが――それともそういう雰囲気を醸し出して――。
「おい、いきなり出てきてなんなんだよ。変なおっさん」
「へ――……」
 変ではない、と否定しようとして口を噤む。自分の格好を顧みて、あまり説得力がないと思った。とりあえず、真っ先に修正すべきであろう箇所を口にする。
「おっさんではなくお兄さんなのだ」
「どっちでもいいよ」
 にべもない。だがそれもそうだと思い切り納得してしまった井宿は、一つ咳払いをして子供達に向かい合った。
「お魚を釣ったのだ?」
「なんだよ。やらないぞ」
「そっちの子は、川に返したがっていたようだが?」
 ぎろっと子供――目つきの悪い方――が睨み上げる。
「だから、これはうちの晩飯なんだよ」
「で、でもかわいそうだよう。他に食べるものあるのに」
「芋の根なんかで腹いっぱいになるかよ!」
「こらこら、そう怒鳴ってはいけないのだ。でもこちらの目つきの悪い君の言う通りなのだ」
 え、とおどおどしていた方が目を丸くさせた。一拍遅れて、目つきの悪い方から「誰が目つきの悪い君だよ」と突っ込みが入る。
 井宿はしゃがみ込んで二人と視線を合わせると、にこっと笑った。
「お魚を食べるのは、確かにかわいそうかもしれないのだ。でもそれを言ったら、お芋だってお米だってみんな生きているのだ。育つものは何でも生きているのだ。生きているから育つのだね。だから、お魚を食べるのもお芋を食べるのも同じことなのだ。命を奪うことに変わりはないのだよ」
 おどおどしていた方の子供の目に、涙が溜まる。
「でも、でも……いいの? 命をうばってまで、食べていいの?」
「アホかお前は。食べないと死ぬだろうが」
「だから! ……他のものの命をうばってまで、生きてもいいの? だってお母さん言ってたよ、何かを殺してまで生きることはないって」

 ――何かを。

 何かを殺してまで生きることはない。
 何かを殺してまで生きることはない。
 何かを――。
 殺してまで。
 殺して。
 殺しておいて。
 何をのうのうと、生きて。
 生きて。

「……おっさん?」
 子供の声で、意識を取り戻す。
 井宿は小さく首を横に振った。
「生きていくには……仕方のないことなのだ。だから、感謝しなくてはね。お魚にも、お芋にも。……君のお母さんは、何故そのようなことを言ったのだ?」
 う、口をへの字にさせた後、子供の目じりから涙がぼたぼたと零れ落ちた。
「だ……、おじさん、何か嫌な事を言ってしまったのだ?」
 お兄さんじゃねえのかよ、と横から呆れた声が漏れた。
「……そいつ、親父が死んじまったんだよ。この間の戦争で。それでおばさんがさ、人を殺すような奴なんか生きてる価値ないって……そういう意味で言ったのに、取り違えてんの、こいつ」
「すまない」
 は?、と目つきの悪い方が眉を顰めた。
 井宿は泣き止まない子供の頭を撫でて、そっと抱きしめた。
「すまない……」
 戦争を招いてしまって、民を守れなくて、君を泣かせて。
 朱雀の巫女――美朱を守る為に異世界へと赴き、七星士としての任を終えてこの世界に帰ってきたあと、井宿は報告とさまざまな後始末を兼ねて宮殿へ向かった。役人たちは皆、復興への意欲を漲らせており、皇帝が崩御した後にも関わらず宮殿内は意外と活気付いていた。
 戦禍報告、被害状況、様々な情報が錯綜する中で、井宿は具体的な被害報告だけはあえて耳に入れなかった。実際に目で見なければ被害の状況など解らないからと役人には伝えたが、真意は違う。
 ただ、聞きたくなかった。何故なら、受け止める自信がなかったからだ。
 それは自分達が導いた結果そのものであるから。
「なんでおっさんが謝るんだよ……気味悪いぞ」
「……お兄さんには、責任の一端があるのだ」
「責任? 悪いのは倶東国だろ」
「七星士だよ」
 泣いていた子供が涙を手の甲で拭いて、顔を上げた。
「七星士が弱いから国を守れなかったんだ」
「は? 七星士のおかげであの程度で済んだんだろ」
「違うよ。弱いから攻められたんだよ。みんなそう言ってるもん、大人の人」
 ――そうか。
 ここは、国境付近か。ならば被害も一番酷かっただろう。
 国の窮地を救う筈だった巫女と七星士に対して恨みを持つ人間がいても不思議ではない。
「……仕掛けてきた倶東の民がみんな悪いというわけではないのだ。だから……恨んではいけないのだ」
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
 跳ねつけるように子供が問う。
「何か恨まなきゃやってらんねえだろうが。なんでおれたちが魚釣ってるか、あんた解ってるか? 畑が荒らされて使いもんにならなくなったからだよ! 倶東のせいだ、恨んでなにが悪い!」
 違う。
 そんな感情からは何も生まれない。
 恨んでも、憎んでも、何も。
 解ってはいるのに口が動かない。
 恨んでいるというのに、憎んでいるというのに、子供の眼は何の濁りもなく澄んでいた。純粋な怒りだけが少年の瞳の中で熱く燃えている。
 ぐらぐらと揺れる心が、安定を欠く。
 一瞬にして自分を失くす。今まで少しづつ積み上げてきたものが、音を立てて崩れ落ちる。仲間を得て取り戻した何かを、根こそぎ奪われる。
 人を殺すような奴なんかに生きている価値は――。
 ――俺は。
 俺はなんで生きてるんだ。
 井宿はそっと顔に手を当てると、貼り付けていたお面を外した。
 子供たちが驚いて息を呑む。彼らが口を開くよりも先に、井宿は言葉を紡いだ。
「朱雀七星士の井宿だ。恨むならオイラを恨んで欲しい」
 呆気に取られた子供たちから眼を逸らし、井宿は空に溶けるように消えた。
 


「また酷い顔をしておるの」
 よくもそんな面をわしに曝せたもんじゃ、と師は続けて悪態を吐いた。
 極彩色の世界。優美でありながら静寂を乱さない――天上界。
 世界の中心である大極山に井宿はいた。
 何の前触れもなくふらりと現れた男を見据え、師は立腹しているようだった。謝罪もうまく口に出来ず、井宿は不安定な己を自ら露呈する羽目になった。
「解らなく……なりました」
「何がじゃ」
「生きている意味が」
「意味などないじゃろう。お前の場合は」
 師が、太一君が振り返った。かち合った眼を見て、僅かに怯える。
 怒っている。真剣に。
「好きにしろとわしは言った筈じゃが」
 ――好きに?
 その問いが緩やかに井宿を狂わせる。
「死んでも……?」
「愚か者」
 返答は即座に返された。冷たくて鋭くて、厳しい語調。馬鹿者と言われるよりも数段重くて、辛い。
 井宿はますます解らなくなった。自分がどんどん消えてゆく気がした。必死に埋めてきた外堀が壊されてゆく。『井宿』として生きてきたこの数年間がぼろぼろになった廃墟の外壁のように剥がれ落ちてゆき、見られたくない、曝したくない中身が、本質が徐々に露になる。
 オイラは誰だ。井宿? 芳准? それともそれ以外の何か? 
 俺は誰なのだ。俺は、俺は――。
「馬鹿みたいね、井宿」
 ――娘娘?
「お面なしじゃ生きていけないね?」
「自分に自信がないね?」
「結局『井宿』に逃げていただけね」
「変われるとでも思ったね? そんな馬鹿は話はないね」
「変われないね。芳准はいつまで経っても芳准ね」
「逃げられないね。だって井宿は芳准ね。憎しみに駆られて親友を殺そうとしたあの芳准ね」
「誰も救えなかった芳准ね」
「死ぬことばっかり考えていた芳准ね」
「貴方は芳准ね。今も同じ」
 死ぬことばかり考えている。
 井宿はその場に尻餅をついた。世界は暗闇と化し、眼は何も写さなくなった。
「どうする」
 師の声が耳元で響く。
「今なら死ねるぞ」
 あの時とは違う。何度死のうとしても死ねなかった六年前とは違う。
 朱雀七星士としての任を終えた今、朱雀の能力が井宿の自死を阻むことはないだろう。 
 今なら死ねる。今なら。
「迷っているなら一つ、教えてやろう」
 ――今なら。
「死んで取れる責任など何一つない」
 ――ああ……!
 それは死よりも残酷な事実。
 暗闇が消滅する。
 光りを取り戻した右目が師の姿を捉えた。
「死んで償える罪もない。それでも死にたければ死ぬがいい。選ぶのはお前じゃ。お前の命はお前のものじゃからな」
 何故この大極山に赴いたのか、解った。
 師に選んで欲しかったのだ。断罪して欲しかったのだ。死んでしまえ、生きろ、どちらでもいい。誰かの指針がなければ動けない。自分の判断だけで生きるのはあまりにも過酷すぎる。生きていくのなら、何をどう償っていけばいいのか。償いたい相手はみんな死んでしまった。
 それとも生き残った七星士として、戦禍に見舞われた人々の助けに――。
 ――まずはそれか。
 やはり眼を背けるべきではなかった。受け止めきれなくとも、向かい合うべきだった。どんなに傷つくことになっても。
「……どうするのじゃ」
「……死にません」
「そうか。お前の腹が決まったところで、一つ白状するがな。お前、まだ死ねんぞ」
 ――え?
「まだ七星士としての任は終わっておらんということじゃ。まあなんというか、あ奴らも面倒な奴に目をつけられたというか……」
 太一君は嘆息しながらぶつぶつと呟いた。
 七星士の任はまだ終わっていない――ということは、まさか、再び――。
 朱雀の巫女と、彼女と一緒になることを願った仲間の顔を脳裏に浮かべる。あの二人は異世界で無事に結ばれたのだろうか。そして彼女は、敵になって闘った親友と和解できたのだろうか。
 ――……あの子達なら、きっと。
 身勝手ではあるが、希望を抱かずにはいられない。そして心から祈っている、彼女達の幸せを――。
 もしいつか、再び会えるのだとしたら。
 ――こんな醜態は晒せないのだ。
 井宿は小さく笑った。仲間のことを思い出すだけで、胸の中の黒い霧が晴れていく。世界は再び輝きを取り戻し、少しだけ自分に自信を取り戻す――そして前を見る勇気を与えてくれる。
 自分にとって、仲間との思い出はかけがえのない宝物だ。
「ちっちっりっ!」
「だあッ!」
 ぼうん、という効果音と共に、目の前に娘娘が現れた。少女の顔をした天女はにこっと笑って小首を傾げる。
「元気になったね?」
「……だ。面倒をかけて、すまなかったのだ」
「そんなことないね。ね、太一君」
「ああ、まあな。いつものことじゃしな」
 相変わらず容赦のない言動を耳に入れてがっくりと項垂れる。不安定になる度に、この厳しくも暖かい師に頼る自分が悪いのだろうが――。
 井宿は深々と頭を下げた。
「……すみません。有難うございます」
「ふん。礼だけ受け取っておこう」
 師の、どこまでもぶっきらぼうな返答に、弟子は唯々苦笑する他になかった。
 













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