至福への道筋




 幸か不幸か――否、今件は最大にして最良の幸福だったのだと井宿は思った。
 己が手にかけた親友との再会、対峙は実に壮絶なものだった。仲間を巻き込み、傷をつけ、辛い思いをさせたことだけは悔いている。だが親友との再会自体は、それは喜ばしい出来事だった。
 心も身体も傷つけ合って闘ったが、最後には互いに親友であったこと、今までもこれからもそうであり続けることを確信できた。それは井宿にとって、僥倖に他ならなかった。
 この和解がなければ、自分は死ぬまで親友と許婚に対し疑心を抱き続けたに違いない。
 長年、信じたいと思っても信じられなかった。裏切られたという確証はあっても、二人のことを信じると判断するに足る確証は得られなかったからだ。
 ――それでも、どんなに愚昧であろうと、信じていれば良かったのだ。……大好きな人たちを。
 今ならそう思う。幾ら愚かだと謗られようが、二人を信じていれば良かったのだ。もっと信用していたら、あんなことにはならなかった。
 親友は誠実な男だった。あの時、自分がもっと穏やかに対応していたら、恐らくきっと真相を明かしてくれただろう。
 それなのに先走って、双方に裏切られたと思い込んでしまった――結局、あの時、壊れた己が一番愚かだったのだ。大好きな人たちを怒りと狂気を以って責め立てることしか出来なかった己が。
「井宿、ちょっといい?」
 気付くと、背後に元朱雀の巫女――美朱が立っていた。
 地煞四天王の最後の一人である俑帥との対峙を終え、天罡との最終決戦に向けて、今は一時休憩している最中である。
 井宿は黙って頷くと、美朱と共に他の朱雀七星士たちとは少し離れた場所に移動した。
 向かい合い、改めて美朱の顔を見て――井宿は思わず口元を緩めた。
 彼女の周りを包み込む暖かくて心地良い空気が、見ている者の心を解してゆく。
「美朱ちゃん、とても幸せそうなのだ」
「えっ……そうかな? うん……そうだね、あたし、今とても幸せなんだ」
「魏のお陰なのだ?」
「うん、それもあるけど……みんなのお陰だよ。誰一人欠けてもだめ。みんなや井宿のお陰で今、こうしていられるの。本当にありがとう」
 美朱はそう言うと愛らしい笑顔を見せた。
 幼い少女のそれではなく、慈愛溢れる女性の微笑み。著しく成長した彼女の姿を目にし、井宿は素直に感心した。
「それだけではないのだ、美朱ちゃん。君自身がとても頑張ったから、今の君があるのだ。……君はとても強くなった」
「ありがとう、井宿。……あのね、あたしね。井宿が飛皋と闘っていた時……ううん、飛皋が現れた時からずっと、頭から離れなかったことがあるの」
 飛皋――それは大好きだった親友の名前。
 結果的に二度も己が手にかけてしまった、幼馴染。
「それはね、昔のこと……あたしと唯ちゃんが朱雀と青龍に分かれて闘った時のこと。あたしも唯ちゃんに凄く辛い思いをさせてた。でもあたし、自分のことばっかりで……好きなのに、信じているのに、どうしてこんなに伝わらないんだろうって。唯ちゃんがどんな気持ちでいて、どんなに辛かったかなんて、本当は全然解っていなかった」
「それは……仕方のないことなのだ。君や唯ちゃんが悪いわけではないのだ」
「うん。井宿、前もそう言ってくれたよね。北甲国に行く前に」
 朱雀の召喚が失敗に終わり、神座宝を求めて北甲国に赴くことになった際――美朱は一度、鬼宿の手を振り払った。
 恋と友情、どちらかに重きを置けば、片一方を失ってしまう。
 だが美朱は、鬼宿も唯も失いたくなかった。どちらも同じくらい大好きで、どちらも失いたくない大切な人。
 二人の狭間で悩んでいた時、美朱は魚の釣れなさそうな池で釣りをしていた井宿に声をかけた。その時に初めて聞いた井宿の衝撃的な過去と、その経験から発せられた助言を、美朱は今でも克明に覚えている。
「あたしあの時、井宿の言ってることがあまりよく解らなかったの。大好きだからより一層憎んでしまうって……なんでだろう、好きなのになんで憎んじゃうんだろうって。でもね、今ならよく解るよ。『好きなのに』じゃなくて『好きだから』憎んじゃうんだって。凄く大切だから、誰よりも信じていたから……愛する気持ちが大きい分、憎しみも増しちゃうんだね」
 朱雀の巫女と青龍の巫女、二人の少女の関係がどう帰結したか、井宿は知らなかった。心配になり、今更ではあるが恐る恐る美朱に尋ねる。
「……美朱ちゃん。君の世界に帰ってから、唯ちゃんとは……」
「あ、ううん。心配しないで、帰ってからすぐ話し合って仲直りしたの。唯ちゃんとは今も大親友だよ! 今回も天罡のこと調べたりして、凄く協力してくれたんだ」
「そう――それは良かったのだ。とても……」
 井宿は安堵の息を吐き、彼女達の友誼の復活を自分のことのように喜んだ。
 彼女達のことは心の片隅でずっと気にかけていた。自分は彼女達の気持ちを、痛いほど理解できたから。
「うん、それでね、思ったんだ。あたしが飛皋に捕まっていた時ね……あの人は憎まれ口ばかり叩いていたけど、その分だけ井宿のことが大好きだったんだなって」
 ――え?
 驚く井宿の視線を受け止めて、美朱は続けた。
「二人とも、凄く辛い想いをしたんだよね。悲劇的な関係になってしまって……それは凄く悲しいことだったけど、でもね。こんな言い方良くないかもしれないけど、飛皋が魔物になって天罡の配下として現れて、良かったと思うんだ。だって――井宿にまた会えたから。井宿、前に言ったよね。あたしが唯ちゃんを助けてあげるんだって。……そうなんだよね、やっぱり当人同士じゃないと解決しないことってあると思うんだ。他の誰に慰められても、理解されても、本人と言葉を交わさないと、何の意味もない……。だからね、飛皋も井宿に会えて良かったと思うの。死んじゃった人と会えるなんて滅多にないじゃない。その滅多にない機会に、二人が再会して、分かり合えて……凄く良かったなって。本当にそう思うんだ」
「うん……そうだね、オイラもそう思っていたところなのだ。傷つけ合ってしまったけれど……最期に分かり合えたことだけは、本当に良かった……」
 心を縛り付けていた重すぎる過去は分散し、僅かながら軽くなったように思う。
 親友に刃を向けたという、己が犯した罪は一生消えることはない。過去は変わらないのだ、それは解っている。
 だが――それでも。
「……人の道筋というものは、本当に解らないものなのだね。こんな風になれるなんて、少し前までのオイラには考えられなかったのだ」
 二年前――朱雀の巫女が去り、朱雀七星士としての役目を終えた井宿は、己を葬り去ろうとしたことがある。
 故郷には顔向けできない。一族は皆滅びた。朱雀の任も解かれた。もう何もすることはない。だから存在する意味も、価値もない。
 ならば、今も尚在り続ける己に断罪を。
 井宿は本気で世界から消えることを望んでいた。師である太一君の叱責を受け、実行にまでは至らなかったが、それでも井宿は自分が在り続けることに意味を見出せていなかった。
 だけど、今は違う。
 今は――もう少し、自分の道を歩いてみたくなった。
 視界は狭くても、前を見れるようになったから。
「それは美朱ちゃんや、みんなのお陰なのだ。オイラこそ礼を言わなければならないのだ。ありがとう、美朱ちゃん」
「うん、あたしが井宿の力になれてるなら凄く嬉しいよ。それと……こんな風に言うのは変かもしれないけど」
 美朱は小さく首を傾げて、何か伺うように井宿を見上げた。彼女の仕草を眼に入れた井宿は高揚を覚え、そして驚いた。
 ――この()は……。
 本当に、立派な女性になったのだ。
 愛情と男を知る女に。
「井宿がね、今生きてるって事実が、本当に嬉しいの。もちろん翼宿も。前の戦いで沢山の人たちを失ったけれど、それでも……仲間の中に今も生きている人がいるっていうことが、凄く嬉しい。生きているってことは、未来があるっていうことだから。未来があるっていうことは、どんな可能性もキョウジュできることなんだって、唯ちゃんが言ってたんだ」
 生きているということは未来があるということ。
 未来があるということはどんな可能性も享受できるということ。
 ああ、と井宿は同意する。
 だからこそ死という現実は何よりも残酷なのだ。
「井宿にこの先の未来があることが、凄く嬉しい。だから……それでね、できたら……ううん、絶対にね。井宿には幸せになって欲しいんだ」
「え?」
「ごめんなさい、でもちゃんと伝えないと伝わらないなって思って……。唯ちゃんとのことがあって、井宿の過去を知って、それで今のあたしがあって――……出た結論がそれなの。なんか上手く言えないんだけど……ごめんね、ほんと変なこと言って」
「あ、いや……そんなことは」
 ない、と言おうとした時、背後から美朱を呼ぶ声がした。あれは柳宿の声だ。
 美朱が後ろを振り返り「ちょっと待って、今行くー!」と返してから、井宿に向き直る。
「それとね、素顔で闘ってた井宿、すっごく格好良かったよ!」
「えっ?!」
 驚嘆の声をあげると、美朱はうふふと笑った。
「これから、新しい恋ができるといいね」
 少し前まで少女だった女は、そう告げると井宿に背を向けて走り去っていった。
 仲間に近付いていく影を茫然と目で追う。
 数瞬、固まったあと――井宿は、思わず笑ってしまった。
 ――女の子は、男より大人になるのが早いというけれど……。
 君は何段階も飛び越えて、もう大人になったのだね。とても素敵で、立派な女性に。
 絶えず試練に打ちのめされ、その度に踏ん張って耐え、よく頑張ってきた子だ。もっとご褒美をあげてもいいくらいである。
 どんな敵が相手だろうと、彼女を守り抜く決心を改めて誓った井宿は、美朱のメッセージを受けて小さく返答した。
「……そうだね」
 この先の未来、どんな可能性も享受できるというのであれば――できたらいい。あの時以来の恋を、誰かを真剣に想うことを。
 そしていつの日にか、幸せだと胸を張って言えるような人間になれたらいい。
 ――君が望むのならば、叶えたい。
 オイラも望んでいるから。君の幸せを、心から――いつまでも、ずっと。
 離れていても遠い空から、星から見守っている。
 君は掛け替えのない大切な仲間の一人だから。
 ――だから君ももっと幸せになるのだ。
 君達の幸せは我々の幸せなのだから。
 この戦いで彼女と仲間を守りきった暁には、そう告げよう。
 みんなの想いが力になるように、そして現実になるように。
 そよぐ風に揺られて、静かに目を閉じる。
 道筋の解らないこの先の未来に、井宿は想いを馳せた。
  
 
 

















 初出:『いつの日にか、また』(20100502)より『至福への道筋』
 加筆修正・再録:20170521