信に基づく教導




 それは吉報なのか、凶報なのか。
 瞬時に判断はつかなかった。ただ高まる胸の鼓動が、全身に緊張を走らせた。
 遂にその時が来たのだ。そう思うといてもたってもいられなくなった。何せこの時の為に、生き長らえてきたのだから。
 この時の為だけに。
「何用じゃ」
 侵入者の姿を確認もせずに太一君が口を開いた。確かめずともこの大極山に来れる人間など一人しかいないのだから、わざわざ振り向くこともない。
 老婆の背後で笠を取り、井宿は小さく会釈した。
「……解っていらっしゃる筈ですのだ」
「のだ、か……。お前もここ数年で妙なキャラになったのう」
「キャラとか言わないで欲しいですのだ……」
 確かに今在る自分は、この三年間で築かれたといっても過言ではない。何故このようになったのか自分でもよく解らないが、生き長らえることを選んだ以上、仕方のないことだったのだと思う。
 以前のままでは自分を保つことが難しかった。それだけのことだ。
「異世界から……人が降りてきた気配がしましたのだ」
 一瞬、右膝の字が熱を持ち、心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。天を見上げると蒼い空に一筋のあかを見つけ、井宿は悟った。
 巫女が来たのだ。異世界から、朱雀の巫女が。
「そのようじゃな。だからどうした」
 こういう時、太一君は大抵突き放した言い方をする。言外に自分で判断して動けと言っているのだと、三年間付き合ってきた井宿には解った。
 太一君は人を導きはするけれど、人を裁きはしない。沢山の選択肢、方法を示して見せても、最終的な判断はいつも人間自身に任せる。
「……いえ」
 お面を剥がして、井宿は眼を伏せた。
「三年間……ありがとうございました」
「ふん。何の礼か解らんな」
 師の相変わらずな言動には苦笑を禁じえない。遠すぎず近すぎないこの距離感が井宿にとっては心地良かった。
 しかしいつまでも厚意に甘えているわけにはいかない。
 遂に朱雀の巫女が現れたのだから。
「朱雀七星士としての任を、果たして参ります」
 その為に、その為だけに――生き延びてきたのだから。
 一礼をしてお面を顔に貼り付ける。笠を被り、しゃんと錫杖を鳴らして――井宿は大極山を後にした。



 宿命の星の下に生まれた男が消えるのを見送って、太一君はふうと息を吐いた。
 天上から星を見下ろせば凶報ばかりが読み取れる。玄武、白虎共に召喚までの道のりは厳しいものであったが、朱雀、青龍はその上をいくかもしれない。
 それでも太一君は――天帝は信じている。
 人とは宿命に勝る者であると。
「太一君っ! 井宿行ったね?」
 ひょいと顔を出した娘娘を視界に入れて太一君は身を引いた。
「突然出てくるでないわ」
「この三年で井宿はとっても強くなったね! もう立派な術者ね、これからが楽しみねっ!」
「相変わらず人の話を聞かんのうお主らは……。何が楽しみだというんじゃ」
「井宿ならどんな敵でもどっかーんのばっりーんのぼっこぼこね!」
「それはどうかの」
 深く嘆息して、太一君は娘娘に背を向けた。
 にゃん?、と娘娘が首を傾げる。
「三年であの傷は癒えんじゃろうて」
 井宿の傷の根は深い。元来、真面目で優しすぎる性格である所為もあるのだろう。あの男は自分で自分の傷を抉っている。そうしなければならないと思い込んでいる。常に心に傷を負い続けることこそが、償いであり罰なのであると。
 この三年間であの男は随分と変わった。だがその一点、己を許さない姿勢だけは変わらない。むしろ悪化したと言っていい。
「大丈夫ね、太一君。井宿は一人じゃないね。これから出逢う仲間がきっと井宿を変えてくれるね」
「ほう。偶には良い事を言うのう、娘娘」
「娘娘はいつも良い事言うね!」
「嘘を吐け」
 嘘じゃないね!と口を尖らせた娘娘を見やった後、太一君は移動した。近くに在る池の水面から、下の世界を見下ろす。
 力強い生命力を漲らせる人間達の間にひっそりと潜む邪気。人外の邪悪な魔物――。
 宿命の星の下に生れ落ちた彼らの道は暗雲に満ちている。
 ――人ではない我に手出しは出来ぬ。
 天上人は見守ることしか、導くことしかできないのだ。
 天上人は人にはなれない。
 人は天上人にはなれない。
 それも理。
 だから天上人の真似事をしたところで――何が変わるわけでもないのだ。
「今はいい。人としての己を取り戻すのは難しいであろうから」
 だけどいつか、その眼に負った傷を受け入れることができたのなら。
「変わらなければならぬよ、井宿。……お主は人なのだから」
 どんなに逃れたくても逃れられない宿命があるように、人も人であることから逃れることなどできないのだ。たとえ魔に堕ちたとしても、それは同じこと。
 人は人で在るが故に憎み、妬み、恨み、争う。
 だが人は人で在るが故に、他の存在を愛し、慈しみ、育む。
 陰と陽、どちらか一つ欠けたら人であるとはいえない。
 だから天上人は人を信じる。どんなに間違っても、自ら滅びへの道を歩んでいったとしても、人の可能性を信じている。
 水面が揺れて世界が閉じる。
 世界を統べるのは天上人である。だが未来までは操作できない。
 異世界から来た朱雀の巫女は希望の光りと成り得るだろうか。
 天帝はそっと瞼を閉じた。
 暗闇の中に僅かでも光源が見つかることを信じて。
 













080131