四神封印
2
「よいか、お主ら。よく聞け。お主らはまだまだ未熟じゃ。七星士がその様な体たらくではわしも安穏としておれん。よってお主らには今から修行をしてもらう」
師から告げられた言葉に、それまでひたすら呆気にとられていた井宿は眉を顰めた。
――『七星士』、が?
紅南国を守護する神獣・朱雀は既に召喚された。勿論、自分たちは今も七星士であるという誇りを胸に抱いているけれど、その役目はとうに終わりを迎えた筈だ。太一君が一体何を危惧する必要があるというのか。
「おっ、おいババァ! いきなり何ぬかしとんねん」
「もう一度床に沈みたいのか?」
「申し訳ありません天帝様、一体何をぬかしとるんでしょうか」
流石に再び衝撃波を喰らいたくなかった幻狼が低姿勢で尋ねる。
太一君は「ふん」と鼻を鳴らして続けた。
「言った通りじゃ。未熟なお主らに拒否権などは与えてやらん。代わりに――それ、」
喋りながら片手を翳す。すると掌中から溢れた光りが、立ち尽くす七星士たちを襲った。
――っ?!
「条件を与えよう」
言い終わるのと同時に二つの光りが、二人を別々に包み込む。数秒後、ぽんっ、という破裂音と共に光りが散った。
「……? なんやねん、一体……っ?! 井宿、」
何の変化も見られない己を繁々と眺めていた幻狼は、隣りに立っていた男の変貌を目に入れて大いに驚いた。
袈裟と錫杖と笠――彼を纏う装備は変わらない。数珠も装着している。だが服装と髪型が一変し、先程まで顔に装着していた筈のお面も外され、素顔が露になっていた。
まるで見たことがない姿――というわけではない。この場にいる中で幻狼だけ、井宿の変わり果てた姿に見覚えがあった。
あれは確か二年前、『朱雀の巫女』が再びこの地に降臨した時のこと。強大な敵を前に巫女と七星士たちは再度結束し、闘った。その戦いの最中で、井宿の過去が明らかになった時――否、明らかにされてしまった時、敵が映し出した過去の映像の中に今と殆ど同じ姿をした井宿がいたのだ。
――昔の……姿?
それにどれ程の意味があるのか咄嗟には、幻狼には解らなかった。ただ、変化した己を呆然と見詰めている井宿の顔が若干青褪めているのは読み取れた。
だが声をかける前に、傍若無人な天上人が遮るように口を開いた。
「それが条件じゃ。井宿、お主は――……言わんでも解るな、お前は。そして翼宿」
「へっ?」
「炎を出してみろ」
幻狼は言われるままに背中から鉄扇を引き抜いて、構えた。炎を生み出す呪文を唱える。
「烈火神焔!」
――あ?
部屋を支配したのは、恐ろしいほどの静寂だった。
嫌な予感を察知しつつ、もう一度声を張り上げる。
「烈火神焔!!」
静寂。
「っ烈火神焔!!」
静寂。
「っ烈火神焔ッ!!」
静寂。
「ッあー! 烈火神焔ッ!!」
静寂――。
ぜえ、はあ、と翼宿の荒い息遣いだけが室内に響き渡った。
「そこの者、代わりにやってみろ」
太一君に指示された攻児が幻狼の手中から鉄扇を奪い、軽く振って呪文を唱えた。
「烈火神焔」
ゴォォォォ――――!!、とお約束のように鉄扇から炎が上がる。
攻児はふ、と笑むと鉄扇を持っていた手を突き上げた。
「今日から俺が頭じゃー!!」
「っふざけんなああああッ!! っちゅうかお前らも乗るな!!」
おおー!、と拳を突き上げた外野にツッコミを入れつつ、幻狼は太一君を睨み上げた。
「おいババァ、どういうことや!」
「そういうことじゃ。能力を少し制限した。お主は大層それに頼っておるからの」
「この能力は――いや、鉄扇は至t山の頭の象徴や、使こうて何が悪いねん!」
「そして条件はもう一つ」
「シカトかい!」
喚く幻狼を無視して、太一君は井宿を指差した。
「移動は井宿の笠で行うこと。あとはお主らの自由じゃ。終わったら能力を元に戻してやろう」
「太一君」
今まで黙っていた井宿が顔を上げて、師に問う。
「何を達成すれば、終わるのです」
「……進めば解る。……井宿、お前は」
「時間ねーっ!」
ぴょん、と後ろから現れた娘娘が太一君の言を遮った。騒々しい登場の仕方に太一君は顔を顰めつつ、はしゃぐ娘娘を後ろに押しやる。
「と、いうわけじゃ。精々、精進するんじゃな」
「え?! ちょ、待てやババァぶはーッ!!」
衝撃波を喰らって幻狼が床に沈んだのを確認した後、太一君は娘娘と共に光源の中に消え去った。
再び、何ともいえない静寂が室内を支配する。
で、と真っ先に口を開いたのは攻児だった。
「一体どないしたもんかな、これは。ねえ井宿はん」
「……うん……、ちょっと、これは……。……困ったのだ」
胸元で印を結んでいた手を解いて、井宿は腕を組んだ。
一体、太一君は何を考えているのか。彼の方の一番近くにいる人間として、井宿は他の誰よりも太一君という存在を理解していると思っていた。だがそれは自惚れに過ぎなかったのかもしれない。
師が何を企んでいるのか、弟子は現時点で何の答えも出せずにいる。
――それに……。
今試してみたが、どうやら翼宿だけではなく井宿も能力を制限されている。印を結んで念じてもいつものようにお面を作り出すことができなくなっていた。
その事実が、僅かな答えを与える。
井宿は己の顔に触れた。今も彼の顔半分を支配する、左目の傷跡。
――それが『条件』。
隠せないことが、自分にとっての一つの条件――なのか。
――何故なのだ。
どうしてこんなことを? そして何故『今』なのだ?
これから一体何が起こるというのだ――。
「っああ! もう訳解らん、なんやねん一体!」
「ま、少し冷静になって考えてみようや。おーい、酒……はあかんか。茶の用意をしてくれ」
ようやく復活した頭を宥めつつ、攻児が後ろに控えていた仲間に指示を出す。すぐさま数人が卓と椅子を抱えてやってきた。
「ほら、井宿はんも。そう悩まんと、一緒に考えましょ」
促されて井宿も席についた。
卓の上に茶と茶菓子が素早く用意されていく様子を瞬きつつ見やり、攻児が差し出した茶を受け取る。一口啜ると、暖かいお茶が身体に染み渡った。
「さて。どないしたらええんでしょうね、これは」
「どうって……ババァのいうこときかんと能力は戻らんのやろ。むちゃくちゃ癪やけど、従うしか……」
だらしない姿勢で茶を啜りながら幻狼が呻いた。先程彼自身が言った通り、炎を生み出す鉄扇はこの至t山の山賊の頭の象徴である。このままの状態でいるわけにはいかないのだろう。
意外にもあっさりと恭順を示した仲間を、井宿は興味深げに眺めた。物事や状況を的確に判断する能力を、この至t山の頭は年々伸ばしつつある。
「まあ、そうなのだ。太一君が何を考えているかは解らないが、今は従うしかないと思うのだ」
「っちゅうことは、うちの頭はここを空けるっちゅうことやな」
「とっとと終わらせてすぐに帰ってくるっちゅうねん」
「ま、ええねんけど。お土産よろしゅう、お頭」
「あのなあ、遊びいくのとちゃうんやぞ! っあーもう、ほんま面倒臭ーっ」
がりがりと橙色の頭を掻く幻狼を見やり、井宿は口元に手を当てた。
太一君は自分たちに何をさせるつもりなのだろう。ただの修行とはとてもじゃないが思えない――否、そんなことは今考えても仕方ない。
進めば解るとあの方は言った。ならば今は進むしかないのだろう。
――『七星士』として……。
どうしてもそこが引っかかる。神獣はもう現われない筈なのに。
井宿はとりあえず、今明かせる情報を開示した。
「翼宿。さっき試してみたのだが、どうやらオイラも少々能力を制限されているみたいなのだ」
「えっ?! ほんまか?」
「ああ、もしかしてお面が作れへんとか?」
至t山の副頭は相変わらず鋭い。井宿の苦笑を返答と見なしたのか、攻児は「せやったら」と背後に控えていた仲間に指示を出した。
「なんなのだ……?」
「いえ、少し待っとってください、なんとかしますから。幻狼はなんか特別にいるもんあるか?」
「あー……? せやな、剣……いや、ええか。炎出せんでも鉄扇だけで武器になるし」
「なんや、持っていくんか」
「当たり前やろ。火ぃ出せんいうても手放すわけにはいかへん」
幻狼はそう言うと茶を飲み干し、正面に座っている井宿を一瞥してから席を立った。着替えてくると言い残して部屋を出る。残っていた数人の山賊も出て行って、室内は井宿と攻児だけになった。
「――で。井宿はん」
「だ?」
「大丈夫でっか?」
質問の意図がよく解らない――振りをする。井宿が小首を傾げると、攻児は困ったものでも見るように笑った。
「顔色悪いでっせ。その姿になってからずっと」
優しい微笑を見せる割りに目元が笑っていない。ここの副頭はいつも鋭くて、厳しくて、意地が悪いのだ。
「大丈夫なのだ」
「ほんまですか? なんや知られとうないことがあるんやったら気をつけた方がええですよ。幻狼も気ィついてたみたいですから」
「え?」
思わず素で反応してしまい、井宿は戸惑った。
お面をつけていないから、何も誤魔化せない。特にこの勘の良い男の前では。
「至t山の頭、嘗めんとってくださいよ。あいつは――ここ数年、俺も驚くくらい成長してますねん。ま、成長せん方がおかしいし、してくれへんと至t山の事情的にも困りますがね。もう十代のガキとちゃうんやし――中身がアホやったら他所に嘗められる。山賊にとっては死活問題ですわ。……まあ今んところは平気ですけど」
「副頭、持って来ました」
先程出て行った男が菓子折のような箱を抱えて部屋に入ってきた。おう、と答えて攻児が箱を受け取る。
「ちゃんと清潔なもん選んできたんやろうな」
「そらあもう。井宿はんにやるゆうたら、みんな一番綺麗なもん出して来ましたわ」
「よっしゃ。――どうぞ井宿はん、俺からの餞別ですわ。好きなもん幾らでも選んで持ってってください」
そう言って攻児が箱を差し出した。何かと思い覗いて見ると、そこには様々な形をした布切れのようなものが沢山入っていた。
――これは……。
「……眼帯?」
「ピンポーン。正解です。うちにも片目ない奴はぎょうさんおりましてね。こんな稼業ですから。あと単に装飾品としてつけとる奴もおりまして、眼帯ならこの通りぎょうさん揃えられるんですよ。その傷……隠しきれへんとは思いますが、ないよりはマシでしょう」
左目を覆う大きな傷。素顔で出歩くと目立って仕方ない上に、通行人に余計な先入観を与えてしまう厄介な代物。
自分の傷の所為で人に不快感を与えるのが嫌だった。だから井宿はいつも術で作ったお面を被っていた。
だがそれは昔の話だ。今は状況が違う。何故なら井宿は今、自分の傷を治すことができるからだ。二年前に転生した仲間が授けてくれた、ものを元に戻す能力がある水――『神水』を使えば、井宿の目を元に戻すことができるのである。
目を治せばお面も眼帯も必要ない。人の目を気にせず出歩ることができる。
――駄目だ。
しかし、井宿にはそれが出来なかった。
この傷は過去の証であり、己への戒めでもある。まだ治す気には、顔から消してしまう気には毛頭なれない。
かといって人に不快感を与える傷を曝しておくわけにはいかない。
井宿は攻児の気遣いに心の底から感謝した。
「ありがとう、攻児君。とても助かるのだ」
「ええですよ、気にせんといてください。ああ――これなんかええんやないですか」
言われるままに箱の中を物色し、試着等して検討してみた結果、簡素な型をした黒い眼帯を装着することにした。布地に幅があるので目の傷もほとんど隠れる。似たものを幾つか予備として貰い、胸元に仕舞いこんだ。
「本当にすまないのだ」
「ええですって。俺に出来るんはこれぐらいですからね。っちゅうか、ここまでですからね」
そう言って攻児は山賊とはとても思えないくらいの優しい笑みを見せた。
井宿は思わず苦笑する。
「相変わらず……君は鋭くて、意地悪なのだ」
「ふっふっふっふっ。褒め言葉として受け取っておきますわ。あとは何か、要るもんあります?」
「いや……どこへ行くか解らない以上、何の準備も出来ないし……。気持ちだけ受け取っておくのだ、ありがとう」
「さいでっか。……しっかしまあ、井宿はん」
「だ?」
「前々から思うてましたけど、男前ですよね」
攻児の指摘に眉を寄せる。彼にはこの大仰な傷跡が見えないとでもいうのだろうか。
「いやね、なんちゅうか。ぶっちゃけ、めちゃくちゃ――不似合いっちゅうか」
「何がなのだ?」
「それですよ」
「え?」
「その話言葉と今の井宿はんの格好がめっちゃ微妙ですわ。井宿はん、昔っからそんな口調で喋っとったんですか?」
あ、と口篭る。なんと答えたらいいか解らず、井宿は困惑気に視線を投げた。
事実を伝えるならば、昔の自分はこんな喋り方はしていなかった。これはお面を手に入れてから徐々に己に身についた――新たな自分、のようなものだ。
しかしそんなことを何故、今目の前にいる男に白状しなければならないのか。必ずしも伝達しなければならない情報であるとはとても思えない。
「おい、準備できたか? お、なんやその眼帯、かっこええやん。……っちゅうか何この空気」
「俺が井宿はんの地雷踏んだ空気」
着替えを済ませて現われた頭が「はぁ?」と副頭に顰めた顔を向けた。
攻児は両手を開いて肩を竦めてみせると、井宿に向かって目配せをし「えらいすいませんなあ」と詫びた。
「井宿はんっていじめやすくて俺好みなんですわ」
「気色悪いこというなアホ。井宿、もうええんか? 早いとこ済ませて砂かけババァをギャフンと言わせたろうや」
屈託なく笑う幻狼の顔を見て井宿は安堵した。とりあえず攻児の追求からは逃れられそうだ。
――逃れ……。
また逃げるのか。
一体、いつまで。
小さく拳を握る。顔を上げて井宿は微笑んだ。自分がどうであれ、これから一緒に旅をする幻狼に――翼宿に、心配をかけるわけにはいかない。
「オイラは大丈夫なのだ。出発できるのだ?」
「おう、いつでもええで。――っちゅうわけや、お前ら。俺のいない間に何かあったら承知せんからな」
「心配すな、俺がきっちり護ったるさかい。ま、あんまり長い間留守にするようなら俺が頭になっとるかもしれへんけぶっ!」
バシン、と幻狼の鉄扇が攻児の後頭部に当たった。
「冗談やないかっ!」
「せやったら真顔で言うなっ! それにお前の冗談、時々本気に移行するやろっ! 何度騙されたと思ってんねん!」
「そんな幻ちゃん、人聞き悪いわー。俺はお前と至t山の為にならんことなんか一つもしてへんで」
うっ、と幻狼が怯んだ。確かにそれは事実だ。攻児はたまによく解らないことを言ったり、裏で勝手に行動していたりするが、それらは結果的に全て頭と至t山の為になっているのである。組織の副代表としては有能すぎるくらい有能であることは周知の事実だ。よく口にする「俺が代わりに頭になったる」発言も彼流の冗談の一つなのであることは幻狼も重々承知しているのだが、いかんせん体の芯に染み付いた芸人魂――もといボケとツッコミの精神が、副頭のボケを無視するのを拒むのであった。つまり反射的につい手が出るということである。
「わ、解っとるわ、そんなこと」
「はっはっはっはっ。幻ちゃんかわええな」
「なんじゃそれは……っ!」
鉄扇が正常に機能するならば確実にこいつを焼き殺していると不穏なことを考えながら、幻狼は側でくすくす笑っていた井宿に向き直った。
「もう、いこうや。ここはこいつらに任せとったら大丈夫やから」
「解ったのだ。……では」
井宿は首にかけていた笠を手に取ると、宙に放ち錫杖を鳴らした。すると太一君が現われた時と同じように、笠から光りが溢れた。
刹那、白い光りが視界を遮ると、次の瞬間には二人の姿はそこになかった。
あっという間に消えてしまった七星士たちを思いながら、山賊の一人が呟く。
「頭と井宿はん、大丈夫ですかねえ……」
「んー……命を取られるようなことにはならんと思うが」
――しっかし何を考えとるんやろ、天帝様は。
俺が考えてもしゃあないかと思いながら、攻児は消えた二人の安否を祈った。
081119