四神封印
6
奎宿が出て行った直後の室内は静寂に満ちていた。翼宿が何か言いたげに口を開いたが、結局は何も言わずに難しい顔をして腕を組み黙り込んだ。亢宿は卓上で手を組んだまま、何か考え込んでいる。
彼らの反応を一瞥したあと、井宿は静かに奎宿の家を出た。一度、外にでも出て頭を冷やすべきだと思ったのだ。
奎宿たちの家の裏には雑木林がある。聳え立つ大木の一本に寄りかかり、そのまま腰を降ろした。
まさかこんなことになるとは思わなかった。四神の封印、なんて大事にまで話が発展するなんて。
――わからない。
これが太一君の思惑? 本当にそうなのか?
彼の方はそれを望んでいるというのか。
井宿は無意識に、右膝を擦った。
四神を封印すれば、能力も字もなくなる。一昔前の自分はそれらを忌み嫌っていた。あっても何の役にも立たない、ただ災いを招くだけのものであると。
小さく唇を噛む。奎宿の言葉が重く圧し掛かった。
『能力がないと困るような生活は送っちゃならねえんだよ』
そんな生活を送っているつもりはない――なんて、断言はできない。今の井宿は己の能力をフルに活用して生きている。もちろんそれは、自分の利益を追求するために使用しているわけではないのだが――。
――落ち着け。考えろ。
井宿は先程から感じている違和感の正体を明らかにすることに集中した。
太一君がもし、四神の封印――七星士たちの能力と字の喪失――を望んでいるとする。だから翼宿と井宿の能力を制限して、外へ放り出した。
――そこだ。
だとすると少々おかしい。能力の喪失を見越していたのならば、制限なんて生ぬるいことはせず完全に封じてしまえばよかったのだ。太一君なら朝飯前である。四神を創造したのも、元はといえば彼の方なのだから。
それに太一君は笠を使用して旅をすることを二人に義務づけた。この方法だと寄り道の仕様がなく、移動中に思わぬハプニングに遭遇するなんてこともありえない――つまり、安全かつ快適な旅なのである。能力の有無について悩む切欠など作れない。
なんとも杜撰な導き方だ。
らしくない、と思う。こんな穴だらけのやり方は太一君らしくない。
それともあの方も、あの方なりに迷っているというのだろうか。
井宿は手を額に当てて俯いた。
――何故、何もおっしゃってくださらない。
貴方が迷うなど、そんな――そんなことは……。
「よう、井宿――だったか?」
降り注いだ声に顔を上げる。見ると、そこには井宿の困惑を更に深める人物――劉喘がいた。
彼を眼に入れた途端、言葉を失ってしまった井宿は視線を泳がせたあと、とりあえず一礼した。
苦笑を浮かべた劉喘が井宿の隣りに腰を落とす。
「あ――お、お久しぶりです。すみません、挨拶もせずに……」
「気にするな。お前の驚愕したツラを堪能できて満足している。ま、驚いたのは俺もなんだが……あの爺さん、何も言わずに呼びつけやがったから」
劉喘の声を聞きながら、井宿は不思議な感慨に捉われていた。十年前、底辺よりも更に下に沈んでいた頃、隣りで彼の声を聞いていた。低く抑えた声音は、悪辣非道な商売をしている親玉が発するものとは思えぬくらい、暖かさと包容力に満ちていた。
否定も肯定もしない。ただ、そこに在ることだけは許してくれる。今振り返ると、昔の自分は彼のその態度にとても甘えていたのだと思う。
「貴方は……今は劉喘と名乗っているのですね」
「ああ。一応、昔のことは伏せてるんでな」
「何故、西廊国に……? 奎宿さんとは、どういう……」
流石に気になったので尋ねてみた。
一体どういう経過を得て、彼はここにいるのか。
刑影喘こと劉喘は、ああ、と答えて遠くを見据えた。
「西廊国にきたのは、四年前の倶東国との戦争が終わったあとだ。店は戦争が始まる少し前に畳んだ。うちの客の中心は倶東と紅南の富裕層だったからな。客が減る前にケリをつけたのさ。元々長くやっているつもりもなかったし……」
話を聞きながら、井宿は劉喘のことを何も知らないことに気づいた。性格や仕草、喋り口調などは知っているが、生い立ちや経歴については何も知らない。前の商売についても、仕事の内容は知っていても実際に現場でどんなことをしているかまでは知らなかった。井宿は彼の仕事に積極的に関与しなかったし、彼もまた積極的に関与させたがらなかったからだ。
「戦争後、なんだか色々とやる気を無くしてな。どっかになんかねえもんかと思って旅に出たんだ。東は戦の後だから論外、北は寒いってんで通り越して西にやってきた。西廊国にやってきた理由はそれだけだ。それで……これがまた、面白えんだがよ」
劉喘はくくっと笑って前髪をかきあげた。
「俺が来た時、この近くの小さい川で治水工事をやっててな。そこの現場監督――役人だが、これがどうも不器用な馬鹿でよ。頭は回るんだが指示が下手糞だ。で、下の者が言うこときかねえっつって、拗ねて引っ込んじまったんだよ。それで付近の住民が工事が進まなくて困ってるって零してたもんだから――俺はこの土地の人間じゃねえししがらみも何もねえから、困ってんならとっとと進めちまえばいいじゃねえかっつって、でしゃばって勝手に工事を進めたわけだ」
「貴方が、指揮を?」
「そう。まあ、やること解ってりゃこっちは指示するだけだからなんとかなった。しかも予定よりも速く終わってな。住民に感謝された挙句――役人に推挙されちまった」
「えっ……?」
思わず大きな声をあげて聞き返した。
劉喘の口端がにやりと持ち上がる。
「で、俺もその誘いを受けちまった。というわけで、俺ぁ今ここら一帯を治めている役場に勤めてんだ」
「や――役人になられたのですか」
「なられた、つっても大したもんじゃない。正式に登用されたのは半年ほど前からだ。それまでは見習いだった。大体、出した経歴書も嘘っぱちだし、ちゃんとした学があるわけでもねえから……普通は登用なんかされるわけもねえんだがな。奎宿の爺さんは、この国の役場関係は良い意味でザルだっつってたな。あと経歴よりも能力を重んじる傾向にあるらしい。大らかなんだよ、ここの連中は――紅南国の人間とは違う意味で」
確かに西廊国の人々は初対面の人間に対しても敵愾心がなく、大らかで親切だ。紅南国に住まう人々と気質が似ている。
だが、違う意味とは――?
疑問に答えるように劉喘が口を開いた。
「土地柄の問題だな。この国は、温暖で一年中安定した気候を保っている紅南国とは違う。砂地が多くて空気が乾燥している上に、雨が少ないから作物も育てにくい。砂漠で酷い砂嵐が起こると、風に乗って街まで砂が飛んでくる――厳しい土地だ。その厳しい土地を受け入れた上で、この国の人間はここに住んでいる。度量の深さが違うんだ――それに、逞しい。紅南国は相変わらず常春なのか?」
「はあ……、温暖であることは確かです。ここ数年は大きな災害の話も聞きませんし……。ただ、戦争の痛手を乗り越えて、紅南の人々も少しは逞しくなったと思います。これからは肥沃な土地と穏やかな気候に甘えているばかりではいけないと、宮中の方たちも話していましたし」
「へえ、お前は宮殿に仕えているのか?」
「いいえ、少し出入りしているだけです。今は……太一君に仕えながら、旅をしています」
間違ったことは言っていない。受け取りようによっては、無職同然と捉えられてしまうかもしれないが。
井宿は話題の矛先を変えた。
「奎宿さんとはいつ出会ったのですか」
「ああ……あの爺さんは、俺が見習いとして役場に通い始めた頃にツラ見にやってきてな。どうやらここら一帯を裏で仕切ってんのはあの爺さんらしい。土地の人間からも信頼されている。んで、あの爺――あらかじめ俺の正体を調べつくした上で、脅しにきたのさ」
「脅し……?」
「この国で役場を拠点に商売するつもりだったらタダじゃおかねえってな。あの爺、爺のくせに眼力鋭くてよ。あとで白虎七星士だって聞いて逆に納得したけどな。それで、俺ぁそんなつもりはねえっつって――まあ、話し合いついでに酒盛りに突入よ。その後も暫くは警戒されてたが、次第に打ち解けていった。今じゃただの酒飲み仲間だ。…………それにしても……」
劉喘が井宿に顔を向ける。井宿は彼の鳶色の眼を見返した。
「這い出たんだな。沼の底から」
とくん、と一つ胸が鳴る。
誰よりも過去の自分を知る人。その人から漏れる、感慨深い声音。
「大分マシなツラになったじゃねえか。……よく頑張ったな」
頭に手を置かれ、一度ぐしゃっと撫で回された。
井宿は茫然と劉喘を見返したあと、静かに顔を伏せた。
嬉しくて嬉しくて、堪らなくなる。どん底に沈んでいた時期の自分を知っている人から言われた言葉だからこそ――今在る自分に胸を張れる。
それは、過去を乗り越えた証でもあった。
「仲間の……朱雀の仲間のおかげです。みんなのおかげで、這い上がることができました」
絶望の水底から。
恐怖の水面から。
みんなのおかげで這い出ることができた。そして前を向いて進めるようになった。
陸の上を、歩けるようになった――。
「貴方にも感謝しています。あの時、助けて頂かなかったら」
「ああ、止せ。助けたんじゃねえ、拾っただけだ。だから気にすんな」
井宿は答えずに苦笑を返した。
気にするなと言われても気にせずにはいられない。彼に拾われ、そして紹介された寺院で井宿は僧としての視点と作法、そして己を確立するための術を得たのだ。その切欠を与えてくれた劉喘にはいくら感謝してもし足りない。
寺院にいた頃のことを頭に浮かべながら、井宿は太一君に次ぐ恩師とも言える人物のことを思い出していた。
劉喘の博打友達であり、井宿が世話になった寺院の代表者でもあった――劉蝉和尚のことである。
「興善寺の――劉蝉和尚は、お元気でしょうか」
「……あ? なんだお前、顔出してないのか?」
「不義理ではありますが、なかなか機会がなくて……」
「あの爺なら死んだぞ」
――え?
井宿は驚いて劉喘を見つめた。
「なっ……亡くなられたのですか……?! いつ……?」
「四年前だ。倶東の軍が進軍してきて、国境付近にけっこう被害が出てきた頃だな。俺ぁ店を畳んだあと爺の寺に世話になってたんだ。あの坊さん、死ぬ二年くらい前から急に体調が悪くなってよ。気づいた時にはもう手遅れだった。処置の仕様がないってやつだ。ま、余命半年って言われたくせに結局その倍以上生きてたけどな」
病死ということか――そんな、あんなにお元気でいらっしゃったのに。
井宿は唇を噛み締めた。今まで何も知らず暢気に過ごしていた自分が憎い。今更遅い後悔ではあるが、暇はいくらでもあったのだから寺院に立ち寄っていればよかった。
「お前に関わることができて良かったと言ってたぜ」
「え……?」
「死ぬ前にな。……あの爺もかなり無茶苦茶な人生を歩んできたようでよ。朱雀七星士であるお前に関わって、導くことができて良かったと言ってたぜ。……自分が今生に生まれ落ちた意味があったと」
らしくねえけどな、と言って劉喘は少し寂しそうに笑った。
「寺院は弟子の一人が継いでいる。時間が出来たら行ってやれ、歓迎してくれると思うぜ」
「はい……」
痛む胸を押さえる。訃報には慣れることがない。言いようのない寂しさと悲しさが体の内側に浸透していく。
今件が片付いたら寺院に赴き、焼香をあげさせて貰おうと井宿は思った。
「まあ――前書きはこのくらいにしておいてだな」
本題に入ろうぜ、と劉喘は続けた。
「お前、随分気に喰わねえみてえじゃねえか。奎宿の爺の言い分が」
――気に食わない?
そういうわけでは、と返そうとして口を噤んだ。
違うといえば嘘になる。
「……納得ができないんです」
「何か引っかかるのか」
「やり方が……あの方らしくない。こんな筋の通らない展開は」
「太一君――か」
劉喘が何か物思いに耽るように顎を擦った。
「天帝っていうのは、本当にいるのか」
「え? はい……。オイラの恩師です」
「おいら?」
「あっ。いえ、」
井宿は困ったように眉を寄せ、顔を逸らした。
昔の自分を通すことも、今の自分を通すこともできず、実に曖昧な対応をしている自分に戸惑う。
劉喘が相手では繕えない。だが今の自分は昔の自分とは違う。中途半端な応対をしてしまうのは仕方のないことなのかもしれない。
「恩師っていうと、お前はかなり交流があるのか?」
「はい、……恐らく、今生きている人間の中では一番」
「じゃあ、奎宿の爺よりお前の直感の方が正しいんだろうよ」
呆気なく劉喘が結論を述べる。
井宿はぽかんとした顔を彼に差し出した。
「あの爺、ちょっと先を急いでいる感じがしたしな」
「待ってください、何故オイ……俺の方が、正しいと」
「お前が太一君の一番近くにいる人間だからだよ。そのお前が違和感を感じているなら――今ある結論は間違ってるってことだ。つまり四神は封印しちゃならねえってことなんじゃねえか」
「それは……感覚的にはそう思いますが、確証は何もないんです。太一君に導かれて西廊国まで来たのは確かですし、それに」
「どっかの寺院の生臭坊主がな。昔、俺に言ったんだよ」
井宿の言葉を遮って、劉喘が言った。
「太一君は四つの神獣と二十八つの星を世界に墜として、その行く末を人間に託した。だから四神というのは、人間の危機を察して発動する――。四神っていうのは、人間が自滅しないために太一君が創った装置みたいなもんだ。……もし太一君が四神の封印を望んでいるとしたら、」
劉喘はそこで言葉を途切らせた。短い沈黙を挟んで、ちらりと井宿を見やる。
「……なあ。お前、本当は全部解ってんじゃねえのか」
――え?
「お前の師匠が望んでいること」
太一君が――望んでいること。
――太一君は四つの神獣と二十八つの星を世界に墜として――。
――人間の危機を察して発動する――。
――創った装置――。
――もし太一君が四神の封印を望んでいるとしたら――。
人間は――見放された……?
――違う。
あの方がそんな結末を選び取るわけがない。オイラはよく知っている。あの方のことを、あの方は――。
――そうか……!
「わかった……、わかりました、あの方の望んでいることが……! ならば……この旅の意味は……?」
「さあな。で、どうすんだ。あの爺けっこう強気だぜ」
「いえ――止めます。四神の封印は、太一君が望んでいることではありませんから」
「おっ、そうか。そりゃあ良かった、俺も昔の連中をアシに使わずに済む。あの爺さん、俺のツテを使って青龍と玄武の廟から四神なんとかやらを盗んでくるつもりだっただろうから」
それが目的で劉喘は招待されたらしい。確かに、幾ら七星士とはいえ関わりのない他の四神天地書をそれぞれの廟から持ち出すのは難しいだろう。ならば手っ取り早く盗んできたらいいと奎宿は考えたに違いない。
そんな奎宿の思惑が、劉喘との再会に繋がったのかと思うと――なんだか不思議だと井宿は思った。
しかも彼の示唆により、井宿は欲していた解答を得たのである。
「……影喘さん」
「……覚えてたのか」
その名を――。
「忘れるわけがありません。……ありがとうございました」
「俺ぁ知らねえんだけどな」
片頬を引き上げて、劉喘が笑んだ。
「刑って呼び名しかよ」
井宿はハッとして顔を上げた。
そうだ。昔からこの人には何も語っていない。何も告げていない。
今更過ぎるかもしれない。だが井宿は躊躇わずに答えた。
微笑を添えて。
「名は、李芳准といいます。七星名は井宿。朱雀七星の、星のひとつです」
「俺は刑影喘。今は甘劉喘だ。……よろしくな」
差し出された手を握り、笑みを零す。
十年を経て、ようやく交わされた自己紹介だった。
***
気に喰わない、と翼宿は思った。
やはりどう考えても気に喰わない。こんな展開は納得がいかなかった。
何か明快な理由があるわけではない。むしろ反対意見は全く思いつかない。奎宿の言っていることはもっともだ、とすら思う。
だが気に喰わない。
「っ……だああああッ! あかん!」
「うわっ! ど、どうしたんですか翼宿さん」
近くにいた亢宿が驚いて仰け反る。
翼宿は椅子の背もたれにぐったりと寄りかかると、がしがしと頭を掻いた。
「どうもこうも……あかんわ、考えなんてまとまらん。さっぱり解らんわ」
「ああ、そうですよね……。僕も解りません、何が一番正しいのか……」
別に正しさを求める必要はないだろうと思ったが、翼宿は黙って口を閉じた。
要は自分が一番納得できることをすればいいのだ。それが見つからないから、翼宿は困惑しているわけだが――。
「……井宿さん、どこにいったんでしょうね」
亢宿がぽつりと呟いた。
そういえばそうだ、井宿はどこにいったのだろう。奎宿が部屋を出て行ってから、彼もすぐにこの部屋を出た。
――あいつも……。
納得しているようではなかった。むしろ、心内では激しく反発しているように翼宿には見えた。
井宿は何かを掴んでいる。あいつが一番、答えに近い場所におる――。
翼宿は野生的な勘でそれに気づいていた。
「井宿なら、裏の林の前で劉喘と話をしていたよ」
答えたのは新しいお茶を持って部屋に入ってきた昴宿だった。
「りゅうせん?」
「さっきうちの人が紹介しただろう。もう忘れちまったのかい」
卓上の湯飲みをお盆に載せながら、昴宿が笑った。
「やかましいわ。っちゅうかなんなんや、あのオッサン」
「こっちにきてもう四年くらい経つかな。今は役場に勤めてるよ。懐可は知ってるだろう」
「ええ、何度か話をしたことがあります。家が割と近いんで……」
亢宿の声を聴きながら、そういえば彼は西廊国に住んでいるのだと、今更なことを翼宿は思い出した。
「ふうん。ただの役人には見えへんけどなあ」
「今はただの役人さ。それにしてもあの二人が知り合いだったなんて、驚いたね」
あの二人、とは井宿と劉喘のことだろう。
それは翼宿も驚いた。劉喘が現れた時、あの井宿があからさまに動じていたから。
――昔のダチやろか。
あの洪水前の? それとも後? いや、そんなんどうでもええか。
「……悪かったね」
不意に昴宿が謝ったので、翼宿と亢宿は驚いて彼女を見た。
「急に――驚いただろ。うちの人があんなこと言って」
「いや、そりゃ……せやけど、あんたが謝ることやないやろ」
「そう言ってもらえるとありがたいね」
昴宿はそう言って笑ったが、またすぐに神妙な顔つきになった。
「うちの人もね……何も短絡的に考えてあの答えを出したわけじゃないんだよ。あたしらはもう、……かなり長いこと生きた。その間には本当に色んなことがあった。あんたたち若い連中を同じ目に遭わせたくないんだよ」
能力があると人が群がってくる。それによってどれだけ傷ついたか。
人を信じられなくなったこともあった、誰も寄り付かない辺境で奎宿と一緒に二人だけで暮らしていた時期もあった。
「七星士であることを後悔したことは一度もないよ。でも――それとこれとは話が別だ。四神がもう現れない以上、あたしらの力は無用の長物だろう」
「待ってください、」
止めたのは亢宿だった。彼は昴宿の顔を見つめ、躊躇いがちに言葉を紡いだ。
「四神を封印したら、能力が消えるのだとしたら……僕達は、普通の人間に戻るってことですよね。それって、つまり……その、昴宿さんたちは……」
語尾が薄れて消えてゆく。亢宿は俯いて沈黙してしまった。
なんや、と尋ねようとして翼宿はハッと気づいた。
能力を失って普通の人間に戻るのだとしたら、昴宿と奎宿は……!
「おい! あんたら、普通の人間に戻ったら」
「その瞬間に死ぬかもしれないね」
昴宿の返答に言葉が奪われた。
奎宿や昴宿がこんなに元気なのは、七星士として強い生命力を誇っているからだ。普通の人間になってしまえばその生命力も衰えてしまう。二人ともかなりの高齢だ、能力を失った途端に死んでしまう可能性は大いにあった。
昴宿は小さく息を吐いたあと、緩やかに首を振って答えた。
「うちの人が言ってただろう。……もう腹は決まってるよ」
――そんな……。
そんなん――納得できへん……!
翼宿は拳で卓上を叩き、椅子から立ち上がった。
「気に喰わん」
怒鳴ろうと思ったのに、自分でも驚くくらい冷えた声が漏れた。頭に血が上り過ぎて吼えるのも煩わしいのだと気づく。
「なんやそれ、そんなんで全部丸く収まるとでも思っとんのか。ふざけんな……!」
犠牲を想定した解決など――そんなものは解決とはいわない。第一、そこまで切羽詰った状況でもない筈だ。
太一君の出現と伝言、新たな四神天地書の創出、そして引き合わされた七星士たち。
それが統合された結果が『四神の封印』?
奎宿や昴宿がどんな風に思い悩んだか翼宿には知る余地もないが、提示された結論には些か乱暴な印象を受ける。
太一君に『選べ』と言われて選んだ結論なのだろうが――自分たちに危険が及ぶと理解している上で何故、あえて『四神の封印』を選んだのか。
「昴宿さん。僕も……翼宿さんと同じように思います。昴宿さんや奎宿さんが危険な目に遭うような提案は、呑めません。たとえ、貴方達がそれを強く望んでいるのだとしても……それが僕達の未来のためであっても、納得できない」
亢宿が悲しげに眦を下げて告げた。
昴宿は若者二人の真剣な眼差しをしっかりと受け止め、近くにあった椅子を引いて静かに腰を降ろした。
「……ありがとう。そう言ってくれて、嬉しいよ。それは……本当にそう思ってる」
「せやったら、」
「でもね。……あたしらは夫婦だから」
だから――何だというのだろう。
翼宿には昴宿の言わんとすることがさっぱり解らなかった。
「それに、どのみちもう長くはないさ。あたしもあの人も充分に老いて、充分に生きた。決して自棄っぱちになっているわけじゃないんだよ。ただ……あたしらなりに、けじめをつけたいんだ。生き残った七星士として……四神の最期を看取りたいのさ」
それが『四神の封印』という結論に至った理由か。
翼宿は溜息を吐いて、また椅子に座った。
「……あかん。俺は納得できんわ、すまん」
理解したいとは思ったが、どうしても理解することはできなかった。そのことに対して翼宿は謝罪を述べた。
いいんだよ、と昴宿が力なく首を横に振った。
「そんなに反対してくれて、ありがとうね」
自分たちの身を案じての反発であることは、昴宿もわかっていた。わかっていて、嬉しかったから――礼を言うことしかできなかった。
「時間はまだあるから……何か思いついたら話しておくれ」
昴宿はそう言って立ち上がると、湯飲みを載せたお盆を持って部屋を出て行った。
亢宿が思いつめた顔で、そっと呟く。
「……翼宿さん」
「ああ?」
「能力が消えようと字が消えようと、僕は何とも思いません。でも、昴宿さんや奎宿さんが危険に晒されるのは我慢がならない。奎宿さんたちの意志を無視することになっても、どうしても止めたい。……僕は間違っているでしょうか」
――俺に聞くか。
そういう白黒つけ難い面倒臭そうな質問は井宿にしてもらいたいのだが。
翼宿は卓上に肘を乗せ、頬杖をついた。
「……間違ってはおらんやろ」
翼宿も亢宿と同じ気持ちだ。だがぐだぐだ悩んでいるだけでは何も解決しない。
自分たちとは違う視点が欲しい。現状以上の何かを掴めている人間の視点が。
翼宿はおもむろに立ち上がり、亢宿を振り返って言った。
「とりあえず井宿連れてくるわ。あいつ、多分何か掴んどる」
返答も聞かず外に出ると、翼宿は天に両腕を突き上げて伸びをした。
からっと晴れた空と容赦なく照りつける太陽。紅南とは似ても似つかない風景を目に入れながらとぼとぼと歩き出す。
井宿は裏の林の前にいると昴宿が言っていた。その言葉を信じて家の裏に向かうと、雑木林の前に男が一人座っていた。
井宿ではない。役場に勤めているという、劉喘という男だ。煙管を口に咥えながらどこか遠くを眺めている。
翼宿は眉を顰めて男を見つめた。
――カタギには見えんけどな。
「よう、あんた――井宿と一緒やったんとちゃうんか」
「ああ。あいつなら、奎宿の爺さんのところに行くと言っていたぜ」
どうやら行き違ったようだ。翼宿は困って家の方を見た。
「今どこにおんねん、あの爺さん……家の中にはおらんようやったしなあ」
「あいつは気配を探ってさっさと行っちまったぞ」
「そないなこと井宿以外にはできへんっちゅうねん。しゃあない、ぼちぼち歩くか……おおきにな」
「爺なら多分、近くの大通りに面した商店街の屋根の上にいるぜ」
進みかけた身体を反転させて、翼宿は劉喘を見やった。
やはりどこをどう見ても役人には見えない男は、表情一つ変えずに続けた。
「女を物色できる一番いい場所だから」
「なんやねんそれはっ! ……ああ、そういやあの爺、女好きやったっけ」
「素直に生きてるよな。ま、考え事がある時も大抵そこにいるから、きっといると思うぜ」
試しに行ってみな、と言って劉喘は手を振りそこから立ち去った。
怪訝な顔つきでその姿を見送ったあと、翼宿も大通りへ向かって歩き出した。
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