四神封印

    




 長い時は人を腐らせる。
 それはあまりにも、あまりにも長い時間だった。
 歴史から眺めれば、ほんの一瞬に過ぎないかもしれない。
 それでも人間の一生として見れば、長すぎる時間だった。
 長くて長くて――振り返るのも、先を見るのも億劫だった。
 だから。
 疲れた、のかもしれない。

「なんてぇのは言い訳なんだよなあ」
 背後に感じた気配に向けて告げる。
 奎宿は大通りに面した商店街にある、呉服問屋の屋根に胡座をかいて座っていた。
 賑やかに流れる通行人たちを見下ろす。知った顔ばかりだ。そしていつの間にか、それが減っていく。そしてまた知った顔ばかりになり、いつしかそれもまた消えていく。
 長い間、そんな光景ばかりを目にしてきた。
「井宿」
 奎宿は後ろにいた人間に向かって声をかけた。すっ、と指先を通行人の一人に向ける。
「あの姉ちゃん最高だなあオイ、ぼんっきゅっぼん、でよ!」
 背後に立っていた井宿は咄嗟にリアクションができず、奎宿のでれた顔を何ともいえない表情で見下ろしていた。
「あ……あの……」
「納得できねえか?」
 不意に真顔になって問う。
 僧侶は困ったように眉を寄せて、頷いた。
「四神を封印するという話ですが、」
「七星士っていうのは、なんなんだろうな」
 言葉を遮られて井宿は口を閉じた。
 老者は構わず続ける。
「巫女を守る役目を負った人間――ってのは解る。だが役目を終えた後も、何故俺たちは七星士なんだろうな」
 巫女のいない世界で、神獣の現れない世界で。
 それでも何故我々はまだ七星士なのか。
 何故能力があるのか。何故生命力が衰えないのか。
「一体、誰がそうさせていると思う? 神獣か? 太一君か? どっちでも構わねえが――利用されんのは御免だな」
「いいえ! 太一君は、そんなことは」
「俺は七星士である自分を誇りに思う」
 再び井宿の声を遮る。
 太一君をよく知る彼がここまで必死になって否定するということは、太一君に悪意はないということだろう。
 だがそんなことは奎宿にも解っているのだ。
 解っているから受け入れるしかなかった。
 誇りと、そして――業を。 
「だからこそ、だ。……最期くらい選ばせろ」
 決して自暴自棄になっているわけではない。長すぎる時間の中で奎宿は考えた。考え抜いた上で出した結論だったのだ。
 あの日、唐突に現れた太一君はいつも以上に神妙な顔をして『選べ』といった。
 最初は何のことか解らなかった。迷うまま白虎廟へ赴き、新たな白虎の四神天地書を手にして――ふと思った。
 変わるなら、これが最後の機会かもしれない。この長すぎる時間から脱却し、後の世界を変える、最後の機会。
 だから奎宿は選んだのだ。
 七星士としての最期を。
「若いお前らにはわからん話だろうが」
「解りません」
 井宿は意外にもきっぱりとした態度でそう答えた。
 嬉しさ半分、困惑半分でその声を聞く。
 ――否定すんのか。
 そんなにはっきりと、違うというのか。お前それは、まるで――まるであの方みたいだぜ。
 厳しい言葉の裏に感じる慈愛と優しさ。
 世界を統べる者のことを思い出して、奎宿は苦笑した。僅かでもそれを期待していた自分がいたことに気づいてしまったからだ。
 奎宿は振り返って井宿を見上げた。
 達観していて、いつも一歩引いた眼で物事を見据えている。常に落ち着き払っていようとするその姿勢は見事なものだが、奎宿から見ればまだまだ考え方が若い。物事の感じ方も、世界の見方も。そしてたまに見え隠れする青さと潔癖さが、井宿という人間の特性を教えてくれる。
 彼は――正しさを重んじずにはいられないのだ。悪人か善人かと問われたら、確実に善人なのだ。それも濃度でいえばかなり濃い善人なのである。
 それで鈍感な単純馬鹿ならなんの問題はない。本人も周囲もいたって平和だ。だが彼は違う、頭の回転が速い上に感受性が強い。人の痛みを自分の痛みのように感じ、なんとか救ってやろうと考え、行動する。真摯に、真剣に、心から誠実に。
 善人で優しすぎるが故に傷つき易い。だから達観することで、人の群れから一歩引くことで、彼は自分の身を守っている。今まで生きてきた経験の中でその術を学んだのだろう。それは、心を強く持たねば出来ぬことだ。
 己の性質を認め、その全てを包み込むように強さを身に纏い、現実に立ち向かい前を向いて生きる。
 ――っていうのが理想なんだろうけどな。
 井宿の場合は若干違う気がする。己の性質を認めるというよりは一旦無視をして、がむしゃらに纏った強さを武器に現実に立ち向かい何とか生きている――奎宿には彼がそんな風に見えた。
 どこかで無茶をしている。だからどこかにひずみが出てきてしまう。
 素顔を晒しだすことでそれが顕著になってきている。そのことに、本人は気づいているだろうか。
「奎宿さん。貴方の考えていることは、オイラにはよく解りませんのだ。ですが……太一君は、貴方にそんなことは望んでいない。それだけは断言できます」
「何故だ」
「解ったのです。太一君が望んでいること、彼の方が成し得ようとしていることが」
「ほう、」
 面白い、と奎宿は思った。
 真の答えなど何も見出せないこの状況で、井宿はそれを弾き出したという。誰よりも太一君の近くにいるからか、いや単に彼が聡いのだろうと奎宿は心内で井宿を称賛した。
 だが――。
「それがなんだ?」
 井宿の顔が刹那、青褪めて凍りつく。
 奎宿は立ち上がって隻眼の僧侶の紅い眼を見つめた。
「太一君が何を望んでいようが関係ない。これは俺たちの問題だ。お前がどんな答えを導き出そうと、俺は自分の意志を曲げるつもりはねえ」
「……はじめから……そういうおつもりだったのですか」
「嫌なら力づくでもいいんだぜ」
「そんな……っ!」
 ――ほら、青い。
 そして純正だ。だから怒るのだ。
「そんなことに何の意味があるのです、我々同士で争うなど……!」
「勝った方が己の意志を貫ける。それが闘うことの意味だ。嫌なら引っ込め」
「……妥協はできないのですか」
「何度も言わせるな。俺は自分の意思を曲げるつもりはねえ」
 融通の効かない頑固な爺だと思われるだろう。それならそれで仕方ない。
 既に腹は決まっている。
 ただのわがままだということも充分に理解している。解っているからこそ、強硬なのだ。
 正当性も合理性も決断の基準にはならない。核になっているのは感情、そして強い意志に他ならないのだ。
「……貴方が意志を曲げないというのであれば」
 放たれた声には張り詰めたものがあった。
 思わず顔を上げて井宿を見やると――彼はその紅い左眼に、奎宿と同じように強い意志を宿していた。
「制止します」
るか?」
「いいえ」
 問いは呆気なく否定された。
 奎宿は心内で舌打ちする。
 制止する、ということは最悪の場合、話し合いでの解決を放棄するということだろう。つまり奎宿の行動を止める――四神封印の邪魔をする、ということだ。術者である井宿なら、奎宿の意識を奪うことなど造作もないことである。
 だいたい、闘うにしても井宿が相手では歯が立たないだろう。昴宿の術で肉体を若返らせたとしても彼には敵うまい。遠距離攻撃型の術者は、接近戦を得意とする奎宿にとっては苦手な部類なのだ。
 無論、奎宿も本気で『闘う』などと言ったわけではなかった。脅迫ついでにこちらの確固不抜な決意を強調したつもりだったのだが――。
「やけに強く出るじゃねえか。お前さんにしちゃ珍しいな」
 思ったことを素直に口にした。
 この男の本質は、純真でまだ青い。だが、今までそれを表に現すようなことは決してなかった。
 常に一枚の暗幕を己に纏い、人と接している。何をするにしても何を言うにしても常に傍観し、俯瞰しようと心がけているように奎宿には見えた。
 だが今の井宿は違う。人と接するのに、隔てるものが何もない。
 奎宿はくっと笑った。
「あの面妖なお面を取り払うと、そうなっちまうのか」
 井宿の顔が小さく歪んだ。
 一呼吸置いて、口を開く。
「……違います」
 目を伏せて、しかしながらはっきりと井宿は答えた。
 太腿の横で握られている拳を見やりながら、奎宿はぼんやりと思った。
 ――ああ……。
 足掻いてるんだな。
「オイラが……強く言うのは、太一君の目的がはっきりと解ったからです。どうか、話を聞いてくれませんか」
「あのな。太一君の目的なんて俺には、」
「あの方は貴方と真逆のことを考えている」
 井宿の語気に気圧されて、奎宿は思わず口を閉じてしまった。
 ――真逆だと?
 俺と、正反対のことを……?
 だとしたら――。
「四神は、我々だけのものではない、、、、、、、、、、、のです。奎宿さん、四神はオイラたちがどうこうできる存在ではないのだ。その権限はあの方にしか齎されていない」
「ちょっと待て。太一君は――」
「あの方は、この世界の中心。すべてを統べる者――あの方なくして、この世界は回らない。そして……恐らく、四神という存在も」
「待てって言ってるだろ! お前、それじゃあ……世界は、俺たちが生きているこの世界は……太一君と四神なしじゃ存在し続けられないっていうのか……!」
 何を口走っているのか、奎宿は自分でもよく理解できずにいた。
 いや、本能は理解している。頭でも本当は解っているのだ。だが深い理解を理性が拒んでいる。考え込んでしまえば、恐ろしい結論までも導いてしまいそうだから。
「太一君は――天帝は創造神であり、この世界のすべての源ですのだ。ならば、その天帝は」
「止せ!」
 無意識に叫んでいた。通行人の視線が奎宿の背中に突き刺さる。
「お前、自分が何を言おうとしているか、解っているのか」
「いいえ。……いえ……、本当は、そんなことはどうでもいいのです。この世界の創世なんて、そんなことは――どうでもいいはずです。現にオイラ達は、今、この世界で生きているのですから。それ以上の事実はありませんし、それ以下の事実もありません。何を知っても現状に変化はない。だから……やはり問題は、『今』ですのだ。奎宿さん、太一君は四神の封印など望んでいはいないのです。勿論、直接聞いたわけではありませんから、オイラの憶測に過ぎません。ですが、オイラの知る限り、太一君、天帝という方は、……っ?!」
 途中で言葉を途切らせた井宿が、勢い良く後ろを振り返った。
 奎宿も驚いて顔を向ける。
 彼の言葉を遮らせたもの、それは後方から聞こえてきた悲鳴だった。
 しかも、あの声は――。
「翼宿……?!」
「キバ坊主か!」
 頷く前に走り出す。大通りを離れて、二人は悲鳴が聞こえてきた方へ向かった。
「っ?! なん……っ」
 唐突に、眩い光に包み込まれる。
 眼中に飛び込んできた光りに視界を奪われ、刹那、瞳は何も映さなくなった。
「っんだってえんだよ……!」
 苛立ちが素直に声に出る。心も身体も純粋な怒りで満ちていた。
 ――俺は……!
 俺は、振り回されるのはもう御免なんだ――!
 太一君にも、四神にも、宿命にも運命にも、なにもかも!
 だから四神の封印を決意した。最期くらい自分の意志を貫きたかった。宿命にも運命にも負けずに、自分たちの手で自分たちの道を切り開いてみたかった。
 四神の宿命と運命に呑み込まれていった仲間達の代わりに。
 ――鈴乃……婁宿……!
「なんでだ……」
 何も映さない虚無の中で、奎宿は頭を抱えた。
 何故だ、どうして。
 どうしてあの二人は――。
「……!」
 不意に視界が晴れる。
 奎宿は何度か瞬きをすると、辺りを見回した。
 天上がない。地面もない。ただ、何もない、光りに満ちた空間に浮いている。
「あんた……」
「昴宿?」
 気づいたら傍らに妻の姿があった。よく見ると正面には角宿が、右隣には井宿が佇んでいる。
 そして――。
「こらぁーっ!! さっさと降りんかい、この砂かけババァ!!」
 うつ伏せになってもがいている翼宿の上には、砂かけババァ――もとい、太一君が鎮座していた。
「ふん、鍛え方が足らんの」
「そういう問題とちゃうやろ! なんやねん、いっきなり人の上降ってきよってからに!」
「お主の上は落ち易いんじゃ」
「なんじゃそりゃあ!!」
「あー騒ぐでない、やかましい」
「せやったらさっさと降りろや……!」
 じゃれ飽きたのか、太一君はゆっくりと上昇して下敷きにしていた翼宿から離れた。
 起き上がった翼宿は、肩を揉みながら深く嘆息した。
「太一君、これは……」
 戸惑いの中、井宿が師に向かって声をかけた。
 太一君は弟子を横目で一瞥したあと、奎宿に向かって告げた。
「すまないが――お主らの思い通りにさせるわけにはいかんのじゃ」
「……なんだと?」
「わしがお主らに『選べ』と言ったのは――」
「そんなこたぁどうでもいい」
「あんた、」
 尋常ではない様子に気づいた昴宿が、夫の腕を引いた。
 奎宿は構わずに続ける。
「俺はずっとあんたに聞きたいことがあったんだよ」
「ねえ、よしなよ。もういいだろ、」
「なんで鈴乃と婁宿じゃ駄目だったんだ」
 それは、もう気が遠くなるほど昔の話だ。
 許されぬ恋に落ちた二人の話。
 結ばれたまま離れ離れになった二人の話。
 けれども最期の最後で、二人は一緒になれたと信じている。
 信じている、が――。
「鬼宿は朱雀の巫女と一緒になれたんだろう」
 弟子が幸福を手にしたことを知ったとき――単純に、嬉しかった。それは本当に嬉しかったのだ。
 だがそれとこれとは話が別である。
「なあ。なんであいつらじゃ駄目だったんだ。愛が足りなかったとでもいうのか? 覚悟が足りなかったとでもいうのかよ!? なんでそんな差が生まれるんだ、同じ七星士同士で、同じ宿命を背負う者同士で……!」
 何故同じ願いを抱いた者達が、違う道を歩まなければならない?
 一体何が道を違えさせたのだ、何があの二人を引き裂いたのだ!?
 知っているなら答えろ、教えてくれ太一君――否、天帝。
 四神を創造した者として、二十八つの宿命の星を墜とした者として――!
「……白虎と朱雀では、司るものが違う。二組の命運を分けた要因として挙げられるものはそれだけじゃ」
 ――それだけ。
 それだけ。それだけ、か。
「畜生……っ!」
 唇を噛み、拳を握り締める。
 解っている。それだけ、、、、なのは、解っているのだ。今更蒸し返したところでどうにもならないことであるのも解っている。
 たとえ離れ離れであっても心は通じ合っていた。最期は二人で一緒に天に逝けたのだ。
 解っている。そんなことは解っている、だけど、だけど――……!
 奎宿は力なくその場に座り込んだ。
 だけど、それでもどうしても考えずにはいられないのだ。あの時、もしも二人が一緒になれていたら、と。
 沈んだ肩に、そっと手が添えられる。奎宿は反射的にその手を掴み、指を絡ませた。生涯の仲間であり伴侶でもある妻の温もりに浸る。
 言葉を失った夫の代わりに、昴宿が小さく口を開いた。
「ごめんなさい、太一君……解っているんです、この人も、私も」
「……よい。力添えが出来なかったことは確かじゃ」
 絡ませていた指に力を込め、昴宿は少し泣きそうな顔をしてから、笑った。
「優しいのね」
 いつも、貴方は――泣きたくなるほど。
 寄り添う白虎七星士たちから目を離すと、太一君は弟子を見た。
「気づいたのだな」
 問われた井宿が小さく頷く。
 一同の様子を見守っていた翼宿が困惑した声をあげた。
「おい、なんやねん一体。ちゃんと解るように説明しろや」
「ああ。説明しよう」
 意外と簡単に太一君が頷いたので、翼宿は逆に驚いた。
 ――なんや……?
 至t山に突如現れた時とは雰囲気がまるで違う。こんな太一君を見るのはいつ以来だろう。もしかしたら初めてかもしれないと翼宿は思った。
「時は満ちた。わしが何故、新たに四神天地書を創造したか。何故、今になってお主達に働きかけたか――全てを話そう」
「太一君」
 井宿が声をかける。一つだけ引っ掛かった箇所があった。
「時は満ちた、とは」
「支度が整ったということじゃ」
 弟子は静かに息を呑んだ。
 恐らくこの場において、誰よりも師の――太一君の胸中を理解している井宿には、その言葉の意味がよく解った。
 支度が整ったということは、もう幾許の猶予もないのだということ。そして説明が終わり次第、太一君は計画を実行に移すつもりでいるのだということ。
「回りくどい説明は後でいい」
 俯いたまま奎宿が呟く。
 鋭い眼光を宿した瞳を天上人に向けて、白虎七星士の生き残りは静かに続けた。
「結論から先に言えよ」
 一同の視線が太一君に集まった。
 宙に浮いた天上人は七星士たちを見下ろすと緩々と口を開き、彼らの要望を汲んで結論を述べた。
 すべての目的と、自らの望みを。
「わしの望みは、四神の復活。この世界に再び神獣と二十八宿を墜とすことじゃ」
 そして、世界を語る話が始まった。



 始まりがあれば終わりもある。
 この世界にも始まりがあった。
 ゆえに何れ終わりを迎える。
 それは避けられぬ真理。
 世界の理。
 しかしながら。
 足掻くのが生きとし生ける者のさだめ。
 我もまた。
 この世界の中で、足掻く者に過ぎない。
 だからこそ。
 世界が在る意味を、創る為に。
  
 我は抗う。

 世界を、護る為に。


 
















090212