四神封印

    




「烈火神焔!」
 呪文と共にけたたましい炎が空に舞い上がった。
 よっしゃあ!――と翼宿が豪快にガッツポーズを決める。
能力ちからが元に戻ったで! これで至t山に帰れるわ」
「良かったですね、翼宿さん」
 横で様子を眺めていた亢宿が手を叩きながら、浮かれる翼宿を祝福した。
「おう、亢宿。お前、ちょお鍛練の相手せんか? 能力使うてええから」
「えっ、いや……僕じゃ相手になりませんよ、きっと」
「大丈夫やって。お前、昔やってけっこう強かったやん」
「だって、もう何年も能力ちから使ってないですし……奎宿さん、どうですか」
 外壁に寄りかかって煙管を吹かしていた家の主が、呼ばれてぶっと吹いた。
「アホかお前、俺をいくつだと思ってやがんだ。言いたかねえがキバ坊主の相手なんざもうできねえよ」
「そうかあ? 爺さんやって若返ったら強いやんけ」
「うるせえよ。腕試しがしたいなら井宿に相手してもらえ、適任だろ」
「そりゃそうやけど――あいつ朝からおらんねん。どこ行ったんやろ。あいつがおらんと俺、帰れへんのに」
 一人で砂漠越え、なんてしんどい真似は絶対に避けたいところなのだが。
 翼宿は腕を組んで空を見上げた。
 昨日――太一君、天帝が四神を復活させる為に、眠りについた。一同は天上人を見送ったあと、各々思うように過ごして――翼宿の場合、空腹を満たしたあとに爆睡して――奎宿の家で朝を迎えた。
 時間が経って、思う。
 世界は何も変わらない。
 空も空気も、人も何もかも。
 ――太一君がおらんのに。
 いや、大極山もしくは天界で眠りについているのだろうから、いないとは言えないのだが――。
 それでも彼の天上人の意識が地上に向いていないというのに、この世界は何も変わらない。
 そういうものなのだろうか、と思う。
 世界は己の見えないところで創造され、己の見えないところで崩壊するのかもしれない。
「井宿なら、四神天地書を返しに行ってるよ」
 そう告げたのは家の中から出てきた昴宿だった。洗濯物を入れた籠を携えている。外に干しにきたらしい。
「は? 返しに……って」
「それぞれの廟にだ。俺らが持ってても仕方ねえからな。あれは俺たちじゃなく次代の七星士のもんだ。廟に保管しておくのが一番だろう」
 ふう、と煙を吐いて奎宿が言った。
 空に向かってたゆたう煙を眼で追いながら、亢宿が口を開く。
「四神が復活するということは……また、この世界に巫女が降臨してくるんでしょうか」
「そうなるな。太一君が言ってただろう、この世界は四神がいないと成り立たない――つまり、永久に巫女の存在が必要なのさ」
「……僕達のようなことに、ならないといいのですが」
「ああ。その為に太一君は俺たちの記録を新しい四神天地書に記したんだろう。……次代が同じ悲劇ことを繰り返さないように」 
 翼宿と亢宿はハッとして奎宿を眼で捉えた。
「次代まで俺たちが生きてる保証はねえからな。参考になるもんがあれば少しはマシに動けるんじゃねえかって思ったんじゃねえか、太一君は。……ま、しかし記述を信じるか信じないかは読んだ者次第だからな。あってもなくても変わらねえかもしれねえが、あてっ」
「太一君の親切を悪く言うんじゃないよ」
「ってえな母ちゃん、すぐ叩くなよ」
 スキンシップの耐えない老夫婦を見やって、亢宿はくすくすと笑い、翼宿はげんなりとした顔を差し出した。
 相変わらず見た目以上に、心が若い夫婦である。
「そういえば――亢宿、お前これからどないするんや」
「そうですね……とりあえず、養父母のところへ帰って、いろいろ話をしたいと思います。七星士の時のことや、昔の――……弟とのことを……。ちゃんと、自分の生い立ちを話たいんです。それから――倶東国に行こうと思います」
「え? 西廊国ここを出るんか?」
「いえ、生活の拠点を変えるつもりはありません。でも、今の倶東国を見ておきたいと思って。自分が生まれた国ですし……それに、青龍七星士があの国でどう評価されているか、知りたいんです」
 決して良い評価を得ているとは思わない。
 太一君によって齎された他の七星士たちの記憶は、亢宿にとって衝撃以外の何ものでもなかった。仲間のしたことが――心宿のしたことが本当ならば、青龍七星士じぶんたちの評判は著しく悪いだろう。
 それでも、全てを知ることが今の自分の、生き残った自分の役割なのだと、亢宿は思う。
 もう逃げないと誓った。現実からも、能力からも、宿命からも。
「そうか。倶東と紅南は近いさかい、来たら俺らのところにも寄っていけや。歓迎するで」
 亢宿は「はい!」と威勢の良い返事と明るい笑みを見せた――その時。
 ひゅるるるるる、と妙な効果音が響いたあとに、どすんと音が鳴って翼宿が地面にめり込んだ。
 うう、と背中に乗るものの感触を確かめながら唸る。
 ――くそおおおお!
 油断したああああ……っ!!
「修行が足りないのだ、翼宿」
「っうるっさいわあ! 毎度毎度人の上に落ちてくんなああああ!!」
 悪びれのない声を聞いて、翼宿は思わず怒鳴り返した。
 うるさいのは翼宿なのだー、と言いつつ乗っかっていた井宿が背中から降りる。
「お約束は守らないといけないのだ。繰り返しは芸の基本なのだ」
「誰が言うてたんやそんなこと!」
「攻児君なのだ」
 親友の名を聞かされて、翼宿はぐったりと項垂れた。一気に反論する気を失くす。
「さて。帰る準備は整ったのだ? 翼宿」
「あ? なんや、もう帰るんか」
「だ。そろそろお暇するのだ。――奎宿さん」
 井宿は振り返って奎宿を見やった。
「天地書はそれぞれの廟に納めておきましたのだ」
「おう、ご苦労さん。またいつでも遊びにこいよ、説教ぐらいはしてやるぜ」
 にやりと笑む奎宿に向かって、翼宿が「いらんわそんなもん」とぼやいた。
 苦笑しつつ、井宿は小さく頭を下げる。
「昴宿さん、亢宿君も――この度はお世話になったのだ。ありがとうございます」
「堅苦しいこと言いなさんな。世話になったのはこっちのほうだよ。またいつでもおいで」
「僕も、お世話になりました。またお会いできる日を楽しみにしています」
 笑顔に笑顔で返して、首にかけていた笠を手に取る。
「近いうちにまた寄りますのだ。何かありましたら、気を放って強く呼んで下さい。飛んできますのだ」
「大丈夫やろ。そこの爺さんと婆さん、まだまだ死なんて」
 冗談交じりの翼宿の弁に、今度は奎宿が「当たり前だ」とぼやいた。
「では――また」
「おう。またな」
「また来るわ。元気でな」
「あんたたちもね」
「寄ったら連絡します。お元気で――」
 笠から溢れる光りが、二人を包み込む。
 薄い朱の光りに包まれながら、翼宿は太一君との違いを感じていた。井宿の術は、当然のことながら井宿の気を感じる。今まで意識していなかったが――。
 ――あれ?
 疑問を感じると同時に、視界が開けた。
 徐々に慣れていく目が周りの景色を認識する。見慣れた木々と道――そこは、至t山の麓だった。
「相変わらず、一瞬やな」
 ――あれ……?
 なんやろ、この違和感。ああ、せや――。
 翼宿は隣りに居た井宿を見つめた。萌黄色の上着に量の多い髪、顔の傷を隠す大きな黒い眼帯。
 ――こいつ。
 能力ちから戻ったのに、なんで元の格好に戻らんのやろう。
「井宿」
 思わず名を呼んだ。
 笠の上の汚れを払っていた井宿が顔を上げる。
 紅い瞳と眼が合って、翼宿は――何故か狼狽した。
「お前――」
 なしてそのままでおるん――なんて、馬鹿正直な質問はできなかった。
 何故かそれを聞いてはいけない気がした。
 言うべき言葉を失くして口篭る。
 井宿が小さく小首を傾げて次の句を促した瞬間、翼宿は再び「お前、」と繰り返した。
「これから、どないするん」
 亢宿にしたのと同じ問いが口から漏れた――刹那、何故かしまったと思った。
 やはり、聞いてはいけない気がしたのだ。
 何故なら、井宿にもきっと――。
 固まった翼宿を見やって、井宿は口元を綻ばせた。
 その顔を見た瞬間、翼宿は頭の中が真っ白になった。
 それは誰がどう見ても、困った笑顔だった。
 見てはいけないものを見たような気がした。彼の素顔の――更に中の素顔を見ているようで、翼宿は目を逸らしたくなった。
 居た堪れない笑みを浮かべて、井宿は言った。
「……どうしようか」
 ――せや……。
 わかっていた。わかっていたのに。
 これからのことなんて、井宿にもきっとわからないのだ。いや、本人が一番わかっていないに違いない。そして一番戸惑っているに違いないのだ。
 大極山にはもう入れない。彼にはもう帰る場所がない――。
「……至t山オレんとこくるか?」
 気づいたらそう尋ねていた。というより、そう尋ねずにはいられなかった。
 彼に居場所を与えずには――いられなかったのだ。
「お前なら、みんなも」
「いや。……それは止めておくのだ」
 勧誘は呆気なく拒否された。
 確かに彼には、山賊なんて稼業は似つかわしくないだろうが――。
 翼宿は安心したのか残念だったのか、いまいちよくわからない心境で「さよか」と答えた。ぐしゃっと己の橙色の髪を掻き揚げる。
「……じゃ、死なん程度に生きろや。いつでも遊びに来てええで。来るたび宴会や」
 井宿は小さく声をあげて笑った。
 それを見て、翼宿も笑う。
 互いの笑いが治まったあと、二人は向かい合って告げた。
「……それじゃあ」
「おう。……またな」
 そう言って背を向け、正反対の道を歩き出す。
 そんな近くまで一緒に来たのにどうして無理やり連れてこなかったのだと、攻児を筆頭にして仲間達に帰宅早々なじられることになろうとは、この時の翼宿は思いもしていなかった。
 一方――。 
 歩き出した井宿は、広大な空を見上げて――立ち止まってしまった。
 どこまでも広がる青い空と、雄大に漂う白い雲。
 それは自由に似ている。
 拠り所がない自由、支えがない自由、何もない自由。
 歩き出した一歩は自立への一歩。
 あの方が背を押してくれた、新たな自分への一歩。
 ――恐れるな。
 またお面を被るかもしれない。また傷を隠すかもしれない。
 先のことはわからない。一秒先の未来ですら、今の井宿には予見できない。
 これからどうなるのか。自分はどうしたいのか、どう生きるのか。
 先のことはわからない、けれど先は長いから。
 もう、己を殺すなんて馬鹿なことは考えないから――。
 井宿は再び足を前に出した。そうして自立への道を歩んでいく。
 誇りはあるが、もう七星士ではない。太一君にも会えない。
 『井宿』ではない自分。それは芳准なのだろうか。
 果てのない自由が選択を迫る。どの道を往くのか、どの自分を選ぶのか。
 井宿は何も考えずに大地を踏み締めた。
 天から降り注ぐ暖かさと優しさが――胸に染みた。






















 四神封印/終





090322