宵越しの約束




 どこぞの巫女の話では、異世界では己が生まれた日に祝い事をするのが常識なのだそうだ。
 しかしそのような習慣とはまったく縁がない翼宿は、井宿から「そういえば今日はオイラが生まれた日なのだ」と言われても何の感慨も沸かなかった。さよか、と返して空いている相手の杯に酒を注ぐ。
 今日、酒宴に彼を誘ったことに深い意味はなかった。ただ、こちらから呼びつけなければまったく顔を出さない、案外薄情な仲間のことがふと心配になって呼んでみただけのことである。
 現れた井宿は前に別れた時と何一つ変わってはいなかった。
「以前に美朱ちゃんが言っていたのだ。向こうの世界では、誕生日というのだ。その日に生まれた人に贈り物をするらしいのだ」
「ふうん。……は? なん、お前それ、暗に俺に何かくれっていうとんのか?!」
 翼宿の慌てっぷりがツボに入ったのか、井宿は珍しくけたけたと声をあげて笑った。見た目はそれほど変わらないが、恐らくけっこう酔っている。
 井宿は人並み程度には飲めるが、鯨飲の類である翼宿には到底敵わない。もう少し強ければ自分ももっと楽しく飲めるのだが、と翼宿は思う。
「そういうわけではないのだ。でも、くれるなら欲しいのだ」
「何や、欲しいもんあるんか? 珍しいな」
 井宿には物欲がない。それどころか食欲だって睡眠欲だって、必要最低限の量が摂取できればそれで満足なのだ。たまに必要最低限の量すら摂らずにふらついている時もある。旅を続けている間に、それでも平気な身体になったらしい。
 翼宿に言わせてもらえば、そんなことは自慢にも何にもならない。余計な心配を周囲に振り撒いているだけだ。旅先で行き倒れて、そのまま――なんて、死んでも御免である。解っているのだろうか、この自分自身にとんと無神経な男は。
 杯の縁を指先でなぞりながら、井宿はううんと唸った。お面の顔が困ったように笑う。
「ものは、咄嗟に浮かばないのだ。ものでないなら、欲しいものはあるのだが」
「はあ? 解るように喋れや」
「しかも君にしか頼めないのだ」
 くすくすと楽しそうに笑いながら、軽やかに翼宿の発言を無視して話を進める。
 やはり酔っ払っているのだ。これは話半分に聞くべきかもしれない。
「ああ、考えたら本当に欲しくなってきたのだ。翼宿……………………」
 短い沈黙が流れる。
 いつまで経っても二の句が紡がれてこないので顔を上げてみると、井宿が杯の中の酒を一気飲みしていた。
 ――おいおいおいおい!
「ちょ、お前っ」
「あ〜……翼宿ー」
「あ?!」
 新たに注がれる前に酒瓶を避難させてから、乱暴に尋ね返した。これだから酒量の違う男と二人で飲むのは辛い。先に飲みまくってとっとと酔っ払うべきだった、と素面に近い翼宿は軽く後悔した。
「贈り物が欲しいのだ〜君からの〜」
「あー解った解った。何が欲しいねん、言うてみい」
「約束」
「なんやて?」
「約束が欲しいのだ」
 翼宿は茫然と、向かい合っている男を眺めた。
 いつの間にか井宿はお面を剥ぎ取り、素顔を晒していた。若き日の頃に負った傷跡は今も痛々しく彼の顔半分を支配している。酒の所為で火照った顔から、射抜くような視線が翼宿に向けられた。眉を顰めてそれを受け止める。
 井宿は何かと誤魔化すことが多い。本心も欲求も晒さない。いつもふざけた態度をとってかわしてみせたりする。
 ことに彼は弱音を吐かない。愚痴を零さない。
 それは、攻児が言うには「僧侶として正しい姿」なのだという。ならば人間としてそれが正しいのかと問い返すと、親友は無言で肩を竦め、苦笑を返した。
 男ならやせ我慢をするべき時があると翼宿は知っている。だが井宿のそれは、やせ我慢というレベルではない。重い枷を引き摺りながら歩いているようなものだ。仲間を得て、過去との決着がついた今でも、彼はそう、、なのだ。今も己の身体に打ち込まれた楔を引き抜けずにいる。
 そんな井宿が、何も包み隠すことはないとでも言いたげな、真っ直ぐな視線を寄越していることに翼宿は驚きを隠せなかった。
 ――何を。
 何を言うつもりや。
 無意識の内に身構える。
 井宿は殊更深刻な顔つきになって、年下の仲間を見つめた。
「君が先に死ぬのは絶対に御免なのだ」
「は?」
「先に死ぬのは絶対にオイラの役目なのだ。だからオイラより先に死なないと、約束しろ」
「ち――井」
「喧嘩しても病気になっても死んじゃいけないのだ。絶対オイラが先に死ぬのだ。絶対なのだ」
 絶対、絶対と繰り返す井宿の眼が段々据わってきた。その姿が駄々を捏ねている子供のように見えて、翼宿は唖然としながらも呆れていた。
「あ、あのな。いきなり何言うてんねんお前は」
「約束するのだ。大体、みんなふざけているのだ」
「何がやねん、」
「オイラが一番年上だっていうのに。みんな若いくせにどんどん死んでいって、まったく冗談じゃないのだ。オイラの立場がないのだ」
 みんなきらいなのだー!、と喚いて井宿は卓上に突っ伏した。完全にただの酔っ払いである。
 だが翼宿は、そんな井宿を見てボケることもツッコミを入れることもできなかった。彼の言う「みんな」が、今はもういない仲間達のことを指しているのだと気づいてしまったからである。
 今更ながら納得した。そして今の今までそんなことに気づきもしなかった自分が阿呆らしかった。
 井宿は――朱雀七星士の中で最年長であり、恐らく当時は仲間内で最強であった。
 誰よりも長く生きているのに、死んでいくのはいつも自分より年下の若い仲間。
 誰よりも強い力を持っているのに、誰も彼も守りきれずにみんな死んでいく。
 そう考えて翼宿はぞっとした。自分がもしその立場にあったとしたら――想像するだけで辛い。自分の無力さと非力さを嫌というほど思い知らされて、自尊心などぼろぼろになって崩れ落ちるだろう。
 翼宿が看取った仲間の中で、自分よりも年下だった人間は張宿だけだ。自分より長く生きられなかった、それだけで可哀想だと思った。弟のように思っていた、まだまだ子供で、もっと大人に甘えながら生きていい年頃だったのに、彼は死んでしまった。自分が十三の頃といえば、まだ実家を飛び出してもいない。それなのに――……。
 井宿は、張宿が死んだ時に翼宿が思い知ったそんな悔しい想いを、みんなが死ぬ度に感じていたのだろう。
「井宿……」
 張宿が散った時に感じた気持ちが胸にぶり返してきて、声が詰まる。
 呼びかけに返事はない。顔を覗き込むと、安らかな寝息が聞こえてきた。
 翼宿は井宿が外して傍らに置いていた袈裟を手に取り、彼の身体にかけてやった。席に戻り、半分ほど残っていた杯の酒をぐいっと仰ぐ。
「……なあ。おい」
 聞こえていないのは解っている。だけど言わずにはいられなかった。
 空になった杯に酒を注ぎ入れる。
「お前の望み通り、約束したるわ。……お前より先には死なん」
 自分より年若い者に先立たれる辛さは、翼宿も身に染みている。
 だから、せめて――俺くらいは……。
「せやから、俺にも約束させろ。俺の言うことも聞けや、頼むから――」
 眼が覚めたら井宿は青褪めて、なかったことにしてくれと言うかもしれない。彼は酔っても記憶を失くさないから、昏睡する前の自分の言動を思い出したら慌てふためいて恥じるだろう。
 だが翼宿にはなかったことにしてやる気など毛頭なかった。撤回されても、絶対に約束を守ってみせる。
 俺は絶対にお前より先には死なん。
 だから。
 だから、お前も――。
「長生きしぃや」
 伏せている男が僅かに身を捩る。
 穏やかな寝顔が眼に入って、翼宿は僅かに安堵した。
 


 








080521