みずのなか
1
水面に写るものの正体を誰も知らない。
水底に在るものの正体を誰も知らない。
覗いてみなければ解らない、落ちてみなければ解らない。
それなのに、水の中から這い上がる方法を誰も知らない。
覗いたが最後、落ちたが最後。
暗い暗い水の中から、太陽の光りが射す水面を見上げて、ただ。
その眩しさに、焦がれるしかない。
みずのなか
そこは不気味なまでに静寂に満ちていた。
人智の及ばない、神聖な空気が何処からか派生する緊張感によって引き締まっているようだ。もっとも、神聖な空気というものが具体的にどの様なものであるか井宿には見当がつかない為、あくまで彼個人の感覚的な感想に過ぎない。
細かい文様が彫られた高い天井に、一見だけでは読み取れない文言が刻まれた壁。何十人も寝泊りができそうな広い部屋が大きな敷地に幾つも連なっている。
異様とも言えるこの建物を支配するのは、僧侶達だ。
この国における僧侶の主な役割は、大まかに言って三つある。一つは布教。もう一つは死者の弔い。最後の一つは、知者、賢者として人々の支えになることだ。つまりは相談役である。
僧侶は人としての欲を捨て、修行に生きる者。彼らは皆、世界を見渡す術を持ち、客観的な見地から人々の疑問に答えを与えることができる、というのが人々の認識である。僧侶は、この国では知恵者として人々に畏敬の念を抱かれる存在なのだ。
俗世の苦しみから逃れる為に仏門を叩く人間は多いが、僧侶の修行は過酷な為に大体の人間が途中で僧への道を諦める。
だからお坊さんの数は少ないのだ、そして修行を全うしたお坊さんはとても偉いのだよ、と教えてくれたのは父だったか、叔父だったか。
今はどちらも鬼籍に入っているので確かめようもない。だがどちらの発言であったにしても、その言葉は現実と照らし合わせて正しいと言えるものではない、と井宿は思った。
ここは寺院の中だ。大勢の僧侶が静々と暮らしている。誰も苦行に苛まれてはいない――ように、見ている分には思う。
勝手に抱いていた想像との違いが井宿を戸惑わせる。よくよく考えてみれば、自分は何も知らないのだ。仏のことも教義のことも僧侶のことも、何も。
だが一番井宿を戸惑わせているのは、僧侶達の態度だ。彼らは皆、興味津々といった目つきで井宿を見つめていた。この建物の責任者が僧侶達に彼をこう紹介したからである。
――――皆の者、よく聞け。此の者は南方朱雀七星宿の一つ、井宿である。
僧侶達はどよめいた。その反応に井宿は驚いた。僧侶と言えば冷静沈着、何があっても動揺せずに落ち着いて行動するものだとばかり思っていたのに。
横で白い髭を生やした和尚が笑んだ気配がした。
「理解できたかの?」
低く、優しい響きが耳元に届いた。井宿は訳が解らず、ただ小さく首を横に振った。
「これが僧侶というものじゃ」
困惑が、再度井宿を襲った。
興善寺と呼ばれるこの寺院を訪れたのは、昨日のことだ。世話になった人の勧めで井宿は仏門を叩いた。
叩いた早々、井宿は困惑した。前途の通り、この寺院の責任者である和尚が彼のことを『井宿』と紹介してしまったからである。
彼は『井宿』と名乗るつもりはなかった。今まで使っていた偽名か、もしくは本名で通そうと思っていた。それなのに和尚にいきなり出鼻を挫かれてしまった。
井宿と名乗るということは、朱雀七星士としての自分を認めたということだ。
黙って首を振る。自分にはまだその覚悟はない。
「井宿様」
声に顔を上げる。何故様付けで呼ばれるのか、井宿には理解できない。それどころか腹立たしささえ覚えた。
自分は、そんな人間ではないのに。
「和尚様がお呼びです」
井宿は「はい」と頷いて席を立った。
袈裟を着こなし剃髪をした僧侶の後をついていく。昨日この寺院にやってきた井宿は、来た時と同じ格好をしていた。
この寺院では和尚の権限が絶対であり、僧侶は和尚の指示で動く。井宿は仏門を叩き、入信を願い出たが、その場で和尚は返答しなかった。それからほぼ丸一日待たされていたのである。
ぎい、と軋みながら重厚な扉が開かれる。奥へ進むと、ゆったりとした座椅子に年配の和尚が座っていた。井宿の姿を認めると、にっこりと愛想良く微笑む。
「来たな。まあ、そこに座るが良い」
錆色の絨毯の上に座布団が置いてある。井宿は指示されるままに、そこに座った。和尚と向かい合う形だ。
「きちんと名乗っていなかったのう。改めて自己紹介をしよう。わしは劉蝉和尚じゃ。この寺院の、まあなんというか、代表じゃな。そなたのことは影喘から聞いておるが……入信の意志は固いのかのう?」
「……はい」
頷くと、和尚は微笑んだまま「仕方ないのう」と言って片手をあげた。
わらわらと近くに控えていた僧侶達が井宿に近付いていく。
「したいというのなら止めはせんがな。まあ、何事も形から入るのが一番解りやすいのじゃよ。入信するならとりあえず、坊主らしい格好をしたらいい。髪も……」
和尚は途中で言葉を切って、顎に手を当てた。井宿をじっと見据えて「ううん」と唸る。
「しかしのう……。七星士を丸坊主にしてしまうわけにはいかんよなあ」
和尚の口端がにやりと持ち上がる。
井宿は、久々に嫌な予感というものを感じ取っていた。
数時間――僧侶達に囲まれて散髪だの着替えだのと振り回された末に、井宿は大鏡の前に立たされた。
思わず口を半開いて呆ける。鏡の中には、それはそれは妙ないでたちをした男が立っていた。
僅かな前髪と後ろ毛を残して刈られた頭髪。周囲にいる僧侶達が身に纏っている無地暖色の袈裟とは違い、丸い文様の入った濃い藍色の袈裟。その下は引き摺るような法衣ではなく、まるで旅装束のようにすっきりとした白い上着に黒い服筒。
とてもじゃないが、僧侶の格好とは思えない。
「いやあ、似合うのう。時代の最先端じゃ。にゅう〜うえ〜ぶじゃのう」
背後に控えていた和尚が、かかかと笑った。
――にゅ、にゅう……?
井宿にはまったく理解できない。
「言っておくが、その袈裟は一応値打ちもんじゃぞ。そなた、眼蝉という男を知っておるかの」
「あ……『天狐の眼蝉様』、ですか?」
そうじゃそうじゃ、と言って和尚は頷いた。
「伝説扱いしておる輩もおるがのう。眼蝉は実在人物なんじゃよ」
「はい、小さい頃に何度かお助け頂いた事があります」
答えた瞬間、僧侶達がざわめいた。
井宿は慌てて注釈を付け足す。
「その、本物だったら、の話ですが……。子供の頃、山や竹薮で遊んでいて一人逸れてしまった時や、賊と思われる輩に攫われた時に、助けて頂いて……その方は、確かに『眼蝉』と名乗っていました。ですからてっきり、周辺で噂になっていた『天狐の眼蝉様』であると思っていたのですが……」
『天狐の眼蝉様』というのは井宿が小さい頃に有名だった、僧侶の格好をしたとある旅人のことである。旅先で困っている人がいたら無償で救済するという、庶民の英雄みたいな存在だった。だがその姿を実際に見たと証言する者は少なく、噂はいつまでも噂の域を出なかった。そしてそんな噂も、井宿が大きくなっていくにつれて次第に人々に忘れ去られていった。
だが井宿は忘れなかった。彼は実際に会っているのだ、噂の『天狐の眼蝉様』に。
何度会ったかは覚えていない。恐らくニ、三度であったと思う。印象深いのは、確か二度目に会った時のことだ。
幼き日、井宿は一人で街を歩いていたところを何者かに連れ去られた。当時は恐怖と困惑で混乱し何が何だか解らなかったが、今思えばあれは営利誘拐だったのだろう。官吏の家の財産を狙われたのだ。
手足を縛られ猿轡をかまされて、鋭利な刃物を頬に突きつけられた時、井宿は死ぬと思った。恐怖で胸が押し潰されそうになった。誘拐犯たちが、どうも思うようにいかない、しかし失敗元々だ、また次を探そう、そいつは殺してしまえ――等と話しているのが聞こえてきて、井宿は涙の溜まった眼をぎゅっと瞑った。
すると、暗闇の中で鈍い音が何度か聞こえた。井宿は怖くて眼が開けられなかった。暫くして不意に誰かの手が頭に乗り、ぽんぽんと優しく叩かれて、井宿は反射的に眼を開けた。
――――あ。
以前、竹薮で迷子になった時に助けてくれた、僧侶の格好をした男が其処にいた。
よく思い出してみる。僧侶はその時、眼蝉と名乗った。だが彼は確かに袈裟を羽織り、笠を被って錫杖を手にしていたのだが、白髪は伸び放題で無精髭も生えていた。着ているもの全てが薄汚く汚れていて、僧侶というよりは物乞いのようであった。
笠を深く被っていた所為で顔はよく見えなかったが、怖いという印象はなかった。むしろよく見えないその顔に、優しさや暖かさを感じ取っていた。
井宿の話を一通り聞いた後、和尚は「ほうほう」と楽しそうな声をあげた。
「うん、それは本物の眼蝉じゃのう。ただの噂話やお伽話や民俗伝承と思っている輩が存外に多くてな、しかし実物に会うたことがあるなら話は早い。実を言うとな、眼蝉はこの寺院を開いた坊さんなんじゃ」
「えっ……」
「ま、今はおらんがのう。ここ十何年ほど行方知れずじゃ。まあしかしそんな訳で、ここは眼蝉と深い関わりのある寺院なんじゃよ。それで……そうそう、その袈裟じゃ。それはな、眼蝉の袈裟なんじゃ」
――ええっ?!
井宿は呆然と和尚を見やった。
「この寺院に伝わるものじゃよ。まあ、付加価値があるというだけじゃがな。見ての通り、唯の袈裟じゃ」
「し、しかし……子供の時に会った眼蝉様の袈裟は、確か無地だった筈……」
「ああ、そなたが見たのは恐らく三代目かそこら辺じゃのう。それは一代目の袈裟じゃよ。魔呪の炎でも燃えなかったという曰くつきじゃ。気味が悪くて手放したと言っておった」
豪快に笑う和尚を眺めながら、井宿は不思議な感慨に捉われていた。長年、恩人だと思って感謝し、憧憬に近い敬意を抱いていた人が身に着けていたものを今、自分が着ている。
――俺が。
本当に、身に着けてもいいものなのだろうか? 俺が――。
子供の頃と違って、憎悪に駆られ人の道を違えてしまった今の俺が。
「そう考え込むな」
和尚の声に顔を上げる。
「大したもんじゃない。誰がつけていようが、袈裟は袈裟じゃ。捉われていては見えるものも見えなくなるぞ」
「は……はい」
「さて次じゃ。次はのう、そうじゃなあ。ま、読経じゃな」
和尚がぱちんと指を鳴らすと、側にいた僧侶がすっと音もなく歩み出て井宿に何枚か重なった御札のようなものを差し出した。受け取って広げてみると、均整のとれた文字が連なっていた――恐らく、経文である。
「暗唱できるようになってみよ。先ずはそこからじゃ」
屈託なく微笑む和尚を、井宿はやはり呆然と眺めた。
080920