みずのなか
2
觀自在菩薩。
行深般若波羅蜜多時。
照見五蘊皆空。
度一切苦厄。
井宿は天井を見上げた。様々な文様が刻まれた壁。それらが何を意味しているのか、井宿には解らない。
劉蝉和尚に指示された経文の暗唱は、三日ほどで習得した。そう長い文章ではない。他にやることもないから、暗記し諳んじるだけなら簡単だった。
舍利子。
色不異空。
空不異色。
色即是空。
空即是色。
受想行識亦復如是。
口の中で復習する。
経文の内容を問うと、近くにいた僧侶が語句の説明をしてくれた。だが意味は解っても、それが何の役に立つのか、何の役目を果たすのか井宿には解らなかった。
自分にはこんなに信心がなかっただろうか。
――だから唯の音に聞こえる。
心がない。
ただ、諳んじているだけだ。
――そんなものなのだろうか。
そんな筈はないだろう。
舍利子。
是諸法空相。
不生不滅。
不垢不淨不摯s減。
お坊様は死者を送る時に経を唱える。死者の魂が無事に天界に辿り着けるよう道案内をしているのだと、昔、誰かから聞いた。
ふと背中に悪寒が走った。
あの時死んでいった人たちは、無事に天界に辿り着けたのだろうか。
――まさか。
今も、天を彷徨い続けて――。
「魂というものは、何じゃと思う」
耳元で声がして、井宿は思わず仰け反った。
横を向くと、劉蝉和尚が隣りにしゃがみ込んでいた。
「ま、勿論これといった答えはないんじゃ。魂の正体も神様の実態も宗教宗派によって異なるからのう。其々の人間に、其々の真実があるのじゃよ」
其々の人間に、其々の真実。
――其々の……?
「人は転生するというがな。こればっかりは死んでみんと解らん」
「え」
死んだら、生まれ変わる。
それは確かな理だと思っていた。それが『事実』なのであると。
和尚が片眉を上げてにやりと笑んだ。
「そなたの世界はまだまだ狭い」
――世界?
「仏の教義は、そなたの世界を広くする役に立つじゃろう。だがのう」
――広く?
「そんなもんは付け焼刃に過ぎんよ」
「…………」
和尚は笑っている。
だが井宿にはそうは見えなかった。
笑顔を一枚剥ぎ取れば、そこにはきっと真顔がある。何故かそう思う。
「さて。読経は習得したようじゃのう」
立ち上がると、和尚は遠くを見据えながら言った。
「次は……そうじゃなあ。滝にでも打たれるか?」
「あの、人は……死んだら、天界へ行くのではないのですか」
引っかかっていたことを尋ねた。
それは、この国でもそれ以外の国でも、常識とされていることだと井宿は思っていた。
唯一つ、それが断言できる世界の真理なのだと。
「天界というのは何処じゃ?」
――え?
「人は、死んでしまったら二度と生き返らない。死んだ人間の魂が何処へ行くのか、知っている人間はこの世にはおらん。この世界の全ての理、真理、真実を知っているのは、唯一人――それが太一君。つまり、神様じゃ」
神様――天帝。
世界の創造主。
井宿は眉を歪めた。
「仏は、天帝を崇める宗教なのですか」
今更な質問かもしれない。仏門を叩くと決心しながら、そんな事も知らなかった。
「言ったじゃろう。宗教宗派によって神様の実態は違うと」
「では――」
「まあ、この寺の本尊は天帝だがのう」
顔を顰める。解りません、と素直に告げた。
「うん。まあ簡単に言うとな、仏っちゅうのは、神様が沢山おるんじゃよ」
「天帝以外にも神がいるのですか?」
「実際は解らんがのう。仏の中には沢山居るんじゃよ。それでだな、その中でも此処は天帝を本尊――つまり信仰の対象としておるのじゃ。それで、仏の中で天帝が一番偉いかというと、そうでもない」
「え?」
「そりゃ、何事も創始者が一番偉いに決まっとる。天帝は仏っちゅう宗教を作ったわけじゃないからのう」
「そ――それでは、天帝は仏と関係が……。でも、ない、わけじゃないんですよね……?」
何しろ仏の寺院の本尊になっている。
「天帝っちゅうのはな、仏を作った人間が仏っちゅう宗教を作る前からおったんじゃ。仏はただ、元からあった神様を組み込んだだけじゃ。招き入れたとも言うかな。だから、仏の中と外では、天帝の扱いが違うのじゃよ。ただそれだけの話じゃ――が、」
混乱しとるかのう?
和尚は楽しそうに井宿の顔を覗き込んで、そう続けた。
井宿はこくりと頷く。正直に言ってよく解らない。今まで考えもしなかったことを考えている所為だろうか。
「だからな。仏っちゅうのは、人間が作ったものなのじゃよ。四神とは違う」
――四神。
思わず息が詰まった。急に現実に引き戻された気がした。
四神。神獣。二十八宿。七星士――。
「四神信仰なんてものもあるがのう。これは宮廷内で持て囃されておる信仰じゃ。国の守護神が鳥だろうが龍だろうが、庶民にはあまり関係のない話じゃからな。何しろ伝説扱いじゃからの、現実味が足らん」
「しかし四神は、天帝が……」
言葉を切る。
伝説によれば、四神と二十八宿は天帝が四正国に与えたと在った筈だ。
「……天帝は、存在するのですか」
先程の和尚の――天界の存在の有無は実際に死んでみなければ解らない、という論法に則せば、天帝だって会えなければいないことと同義である。
かのお方は本当に存在するのか。
「ん――まあ、名前が在れば実態がなくとも存在していることになる、ことはあるのじゃよ。しかしそういう話を抜きにして言うとな、天帝はおるよ」
とてもあっさりとした返答だった。
井宿は戸惑いの視線を投げる。
「いる――んですか」
「おる。実在しておる。会えるし触れる」
「か、神様なのに?」
「神様だから、じゃな。何でもありじゃろう。人間みたいに血が流れておったり、心臓が動いていたりするかどうかは解らんがな。でもまあ一応、人の形はしておるしな」
井宿はぽかんとした顔で和尚を眺めた。
まるで会ったことがあるような口振りだ。
――あ……会った?
「和尚様……お会いになったことがあるのですか?」
「さあのう。だが心配せんでもよい。そなたはきっと、いずれ会う」
「え? あ――……天帝にですか? 俺が?」
「どうして不思議がるんじゃ? そなた、七星士じゃろう。天帝は必ずそなたの前に現れる。そしてある程度の指針を与えてくださるじゃろう」
――指針?
「どういう――意味ですか」
「うん。そなたな、」
横を向いていた和尚が、井宿に向き直った。
顔には慈悲深い微笑が乗っている。だがその下は?
「……まあ、今は良い。さて、もう少し坊主らしいことをしようかのう。修行の予定でも立てるか」
ぽんぽんと肩を叩きつつ、和尚は部屋から出て行った。
その後姿を呆然と眺めた後、改めて座禅を組み直した井宿は、眼を瞑って経文の暗唱を繰り返した。
死者を天界へと送る文言が、己の中の迷いさえも打ち砕いてくれるような気がした。
觀自在菩薩。
行深般若波羅蜜多時。
照見五蘊皆空。
度一切苦厄。
舍利子。
色不異空。
空不異色。
色即是空。
空即是色。
受想行識亦復如是…………。
080928