みずのなか
3
――――泳げぬわけではないのに。
纏わりつく水が身体の自由を奪う。
暗い暗い水底へと、静かに、静かに沈んでいく。
みしみしと骨が軋む音がする。水圧が筋肉を押し潰している。
――――砕ける。
身体が砕ける。
――――死ぬ。
身体が砕けると死ぬ。そんなことは解っている。
ならば精神は? 魂は?
身体が死ねば心も死ぬのか。
――――嗚呼。
水面に映る太陽の光りが眩しい。
触れたいと思う。その輝かしい光りに。
だが幾ら手を伸ばしても、水面には届かない。
もう、この水の中から這い出て、陸に上がることは出来ないだろう。
泳げぬわけではない。けれども泳ぎ方を忘れてしまった。
水が身体の中に入る。息が出来ない。もう溺れる。もう駄目だ。
もう――。
眼が覚めると床の中に居た。
窓から入る黄昏の明かりが眩しい。
紅の空、それは己の眼の色。
鬱陶しい、と井宿は思った。その後少し可笑しくなった。まだ悪態ぐらいは吐けるらしい。
ゆっくりと上体を起こす。手を額に当てながら、何故こんな時間から床に入っているのだろうと考えた。昨日まで黄昏時は掃除と瞑想の時間だった筈だ。
――ああ……そうか。
思い出した。午前中は山の奥へ入り、滝行をしていたのだ。無心でニ刻ばかりの間、ずっと打たれていた。それからの記憶がないということは、滝の中で失神してしまったのだろう。付き添ってくれた僧侶達が寺院まで運んでくれたに違いない。
何しろ――滝行中に失神したのは、これが初めてではないのだ。此度で三度目になる。井宿はここ二週間ほど、午前中は滝に打たれ、午後は瞑想と読経に耽る生活を送っていた。
井宿は寝台から出ると袈裟を羽織って部屋を出た。廊下を歩み、大広間に入って奥の扉――広大な庭へと繋がっている――から外に出る。短く刈り込んだ雑草の上を歩いて、石製の長椅子に腰を下ろした。
視線の先には畑が見える。ここの生活は殆ど僧侶達の自給自足で賄われていた。更にその先には山があり、その上には大きな夕陽が浮かんでいた。
綺麗な景色だと思う。何処か、現実離れしていると思う程に。
「今日も暮れるのう」
――え?
声に振り向くと、思わず飛び上がりそうになった。いつの間にか劉蝉和尚が隣りに座り、茶を啜っていたのだ。
和尚はほほほと笑った。
「絶景じゃろう。わしも好きなんじゃ、黄昏時はのう」
「はあ、」
「うん。それでお前さん――何か解ったかのう?」
――何か。
唐突な質問だとは思ったが、井宿は頭を巡らせた。
何か、解ったこと。
修行を通して、ということだろうか。そうだとしたら。
「……いいえ」
井宿は膝の上で拳を握った。
いくら読経を繰り返しても、瞑想しても、滝に打たれても――井宿は何も得なかった。姿勢も心の在り方も、何も変わらない。ただ以前より考えなくなっただけだ。だがそれはやはり、逃避なのだと思う。
過去を振り返ることがないから、心は穏やかだ。時間が経過するにつれ傷は確かに浅くなっていく――いや、傷が在ることを忘れていく。逃避しようとする自分を戒める自分が居たことさえ、忘れていってしまう。
ある意味、悪化していると井宿は思った。
また沈んだのだ。また近付いたのだ――暗い暗い水底へと。
「まあ、そうじゃろうな」
和尚は怒りも驚きもせず、あっさりとそう切り替えして茶を啜った。
「悟るということはそう簡単なことじゃない。しかしな、そこがミソじゃ」
意味が汲み取れず眉を顰めると、和尚はふっと笑んだ。
「仏は死んだ者の為に在るものではない。そなたが経を読もうが贖罪に励もうが、天界には届かん。それは総じてそなたの心を満たすだけの行為じゃ」
「お、」
「例えば葬儀を出すのは、表向きは死者を送るということになっとるが、あれは生者の悲しみを癒す為に行う儀式なんじゃよ。宗教とは総じて生者の為に在る――仏もまた然り」
「和尚様」
呼び止める。だが和尚は止まらない。
「井宿。そなたは弱い」
――ああ。
これは説法なのか。
井宿は呆然と和尚を見返した。
「だがな、人間というのは大抵弱い。それが悪いというわけではないんじゃ。わしかて弱い。だが、それを自覚しているかいないかでは大きく違う」
自覚――。
「そなたの世界はまだ狭い。世界とは視野のこと。視野を広げなければ恐らく七星士の能力は使いこなせまい。術というのはそういうものじゃ。世界を知れば知るほどその身に染み付く。経験が、知識がそのまま力の源になる。例え何年山に篭って修行した気になろうが、それは単なる付け焼刃。人生是全て修行なり――。井宿」
呼ばれて顔を上げる。
和尚はやはり、にっこりと笑って言った。
「そなたは坊主に向いとらんよ」
井宿は顔を歪めた。
意識は混乱の絶頂にある。和尚の言葉を認める自分と認めたくない自分が鬩ぎ合って、自身をいっそう困惑させた。
――それなら、俺は。
そうだ。
ならば俺は、どうしたらいいんだ。
「井宿。大陸は広いぞ。だが一度歩んだ大陸は狭い。世界を放浪してみよ。そして己の世界を広げろ。その先に見えたものを糧にしろ。お前はそこから始めろ」
よいな――と和尚は続けた。
緩々と落ちていく夕日がとうとう山に隠れた。辺りは急に暗くなり、黄昏を通り越して闇夜に近付く。
頭上に輝いた一番星を見上げ、井宿は改めて己の矮小さを認めた。
今の己では能力も満足に使えない。
――俺は。
何かの、誰かの役に立てる人間に成れるのだろうか――成れるのなら、その可能性があるのだとしたら、俺は――。
眼を伏せる。隣りに和尚の気配はない。いつの間にか消えたのだろう。もう井宿は驚かない。
彼の世界が少し、広がる。
――ああ。
また、呼吸が出来るようになった。
井宿はそんなことを思った。
***
まだ駄目だと言っている。
過去の自分か未来の自分か、はたまた天に御座す神の意向か。
まだ駄目だと言っている。
溺れ死ぬには、まだ早い。
行かれるのですか、との問いに井宿は会釈を返した。
「お世話になりました。何の御礼も出来ずに、申し訳ありません」
「なんの。お気になさらず、信じた道をお歩みください」
僧侶は愛想の良い笑みを浮かべた。
劉蝉和尚とのやり取りの後――その日の内に、井宿は寺院を出ることを決意した。報告をすると和尚はやはり微笑んで、ただ一言「そなたの望むままに」と告げた。
型通りの修行など、今の自分には何の意味も成さない。大切なのは自分以外の世界を知ること、己の視野を広げること――全てはそこから始まる。
まだ己への、過去への答えは出ていない。それでも――。
そっと左目の傷に触れる。ざらりとした感触が、根底で燻り続ける嫌悪感を煽った。
――まだ。
まだ、水の中からは出られない。
「劉蝉和尚がおっしゃっていました。貴方のその傷は、在るだけで制約になると」
井宿の様子を眺めていた僧侶が呟いた。
「ここから出るということは、人の目に晒されるということです。目的のない旅というのはどんな荒行よりも辛い」
「覚悟は――しています」
「そう深刻にならなくても良いのですよ」
僧侶は笑って答えた。
「貴方が消えてしまえば、貴方は終わる。貴方が消えなければ、貴方は終わらない。ただ、それだけの話なのですから」
――それだけ。
井宿は小さく苦笑を返して、「……難しいです」と言った。
僧侶は爽快な顔つきで「そうですか」と返した。
「でも……一つ、解ったことがあります」
「さて。何でしょう」
「僧侶も――人間なのですね」
――――理解できたかの?
――――これが僧侶というものじゃ。
今なら解る。あの時の、和尚の言葉の意味が。
僧侶は微笑を浮かべたまま、腰に手を当てて嘆息した。
「まったく、和尚は困ったお方です。我々が信仰している仏の教義は『仏』自身になることを目指すものであるというのに――人間で在り続けることを良しとしてしまうのですから」
「そう……なのですか?」
「ええ。まあ、『目指している』なんて言っている内は、追いつかないのでしょうけれどね。だから人生是全て修行なり――となってしまうのでしょうねえ」
結局は、人間は人間でしかないのだということだろうか。
井宿は貰った笠を被り直した。
「ああ、申し訳ありません。引き留めてしまって」
「いいえ。本当に、今まで有難うございました。皆様の御多幸をお祈りしています――……お坊様相手に、変でしょうか?」
「とんでもない。嬉しいですよ。我々も貴方の道が拓かれることを、切に願っています。……どうか、お気をつけて」
深くお辞儀をして、井宿は寺院を後にした。
しゃんと鳴らした錫杖の音が、寺院の隅々まで響き渡った。
「なァよ」
「おお?」
「あいつ、どうしたんだよ」
「お? ああ。追い出したぞ」
指先で絵札を弾いた劉蝉和尚は、またわしの勝ちじゃと言って笑った。
正面に座っていた男が口を開けたまま、固まる。
「……なん、なんだって?」
「だから、追い出したと言うとるじゃろう。破門じゃ、破門。で、次は幾ら賭ける?」
な、な、とどもりながら、男が――影喘が、目の前で賭博に興じる破戒僧を呆然と見据えた。
僧は微塵の動揺も見せずに淡々と絵札を配り、影喘が狼狽しているのをいいことにさっさと次の遊戯を進めている。
「ちょ……と、待てこの糞爺。一体どういう、」
「影喘よ。世の中にはな、楽して通れる道もある。また、苦しい道を苦しまずに通れる人間もおる。だが星の下に生まれた人間というのは、どうやら嫌でも苦難の道を味わう他にないらしい」
「あ? ああ……、あ?」
影喘は眼前にいる破戒僧を睨みつけた。
何の説明にもなっていない。結局あいつは、刑は、井宿は――どうしたというのだ。
彼に寺院行きを勧めたのは影喘である。自分にも責任は在ると思うからこそ、こうして様子を聞きに尋ねてきたのに――追い出しただと? 何故そうなるのだ。
影喘は嘆息して前髪を掻き上げた。
不意に、最悪の事態が脳裏に浮かんだ。
「おい、爺。……あいつ死んだらどうするんだ」
「死なんよ。巫女が降臨するまでは死ねんのだろう」
「それはそうだが……」
「心配するな。大丈夫じゃよ、次はきっとあの方が手を差し伸べて下さるじゃろう」
慈悲深い方だからな――誠に奇特なことじゃが、と破戒僧は続けた。
影喘は眉を顰めた。
「……あの方ってのは、誰だよ」
「天帝」
ぱしん、と僧の指が再び絵札を弾いた。
影喘はしかめっ面でその札を弾き返す。
「……ついていけねえ。ていうかいるのかよ、神様なんてよ」
「いない方がいいか?」
「……どっちでもいい」
「わしは居らんと思っておったよ」
ほほほ、と笑って僧は手札を明かし、遊戯に勝利した証を見せた。
舌を打って持っていた手札を乱暴に机に叩きつけると、影喘は茶碗に注いでいた酒を仰いだ。ふう、と一息吐く。
「結局よう。あんた、あいつに何したんだよ」
「わしは単に、足掻き方を教えただけじゃよ」
足掻き方?、と尋ねると僧は足掻き方、と繰り返して唱えた。
「水の中での足掻き方をな。上手くいけば水面に顔を出すことくらいは出来るじゃろう。だがそこから這い出るには、あの男自身の力が必要じゃ。――水の中から陸に上がるかどうか、決めるのはあの男自身だからな」
影喘から茶碗を奪い、破戒僧は中の酒を飲み干した。
坊主の飲み方ではないと思う。いや、飲み方以前の問題だ。
――坊主のくせに。
そんな罵詈雑言が効く相手ではないと、腹の立つことではあるが影喘は重々承知していた。
俺の世界は、この男の広さには及ばないのだ。
「……嫌だな」
はて、と破戒僧が視線を寄越す。
影喘はその眼を見返して言った。
「水の中とやらから這い出たあいつが、あんたみたいになったらさ」
僧は、腹を抱えて呵呵大笑した。
終
081001