11.釣り
裁きとは、己が下せるものではない。己が己を裁いたとしても、他者から自己満足に過ぎぬと指摘されたらそれまでだからだ。
眼に見えぬ裁きは、眼に見える裁きよりも、罪を償うという点において確証性を欠く。だから裁きの場には常に、裁く側と裁かれる側の二者が必要不可欠なのである。
それ故に彼は嘆く。誰も自分を裁いてはくれないから。
それでも悲観に暮れて過ごすのは流石にもう飽きた。あの日から半年近くが過ぎ去った今、心は哀しいまでに平穏を取り戻している。腹を抱えて呵呵大笑とすることはないが、自虐の念に苛まれて死を望むこともなくなった。それはきっと周りにいる人たちのお陰なのだと井宿は――刑は、思う。
本名を伝えることに怯え、七星士名で呼ばれることも耐え難かった彼は、己の正体を明かし声を取り戻した後も『刑』という偽名を使っていた。
不審丸出しであるのに誰も何も詮索して来なかった。皆、其々に事情があるのだと仲間の上に立つ影喘という男――刑にとっては命の恩人でもある――が教えてくれた。
刑は死にたくても死にきれず路上に転がっていたところを影喘に拾われ、様々な経過を経て、炊事係として彼の屋敷に居候している。屋敷には影喘の他に仲間が七、八人暮らしていて、毎日賑やかだ。事情持ちという話だが、皆明るく活気がある。嫌悪を感じることは一度もなかった。
自分でも不思議だと思う。どうしてこんなに感覚が変わってしまったのか。以前の自分だったら、眉を顰めて彼らを糾弾していたに違いない。影喘たちは人を売り買いして生計を立てている、言わば悪い連中なのだ。役人の家の出身で幼い頃から父に道徳を叩き込まれてきた自分には、耐えられない筈だった。
それなのに人身売買という言葉に何も感じない自分がいる。そういう世界もある、そういう人間もいるだろう、と一言で片付けてしまう。まるで他人事のように。
考え方が百八十度変わった原因は何か。考えなくても解る――今の自分は、彼らの同類だからだ。
何も知らずに「あれは悪だ」と罵れる時代は終わった。自分が罵られるべき対象であると、そういう人間だったのだと気づいてしまったからだ。
だから今の刑には何も言えない。感じることすらできない。
深い沼に浸かっているようだ。黒雲が支配する空、微々たる速度ながらも確かに沈んでいく底なし沼、そして身動きできない自分、何も映さない己が眼――。
身体を包む泥が、外界から何かを感知することを阻んでいる。お前はこのまま沈めと嘲笑いながら身体を下へ下へと押し進めていく。
底のない底なし沼。頭まで浸かりきったら、何処へ沈む?
全身が浸かっても更に沈むのだろうか。
底のない底を求めて。
「まあ、あるんだろうな。底のない沼ってのも」
思っていたことを口に出していたらしい。この頃、無意識にそういう真似をするから自分でも少し困っている。
隣りで竿を握っていた影喘は、揺れ動かない水面を見つめていた。
近頃、暇を見つけては街の外にある川――例の、昇龍江の支流――で釣りをしながら、二人は他愛もない話をしていた。
「沈むのは簡単なのに浮き上がるのは難しい。……そんなもん、何処の世界も変わらねえけどよ」
「……貴方も?」
「俺は……甘んじているだけだな」
刑は目前に流れる川に視線を投げた。穏やかな流れだ。荒れ狂う姿など、想像できない程に。
――同じだ。
人間も一緒だ。どんな善人でも、一歩間違えれば魔物のような悪人に変貌する。
川の水がどんなに透明で綺麗だろうと関係ない。ものの変質に、特性は影響を与えない。
「何も……感じなくなってきているんです」
発する声も抑揚がない。言葉に感情が乗らないのだ。
刑は眼を細めた。
「気が狂う前兆でしょうか」
「そう思う時点で違うだろ。狂いかけた奴ぁそんなもん自覚しねえよ」
「なら、俺はこのままどうなるんでしょう」
「お前の読み通りじゃないか。ずっと沈み続ける……底のない沼の、底を目指して」
狂えもせず、魔に堕ちることもできず――延々に続く地獄の街道を歩いていく。
自分にはお似合いの生き様だと思う。どう足掻いても生きるしかないのなら、なるべく無様に生きていたい。死んでしまった人たちが納得できるような、無様な生き方を。
「だけど『朱雀の巫女』が降臨してきたら、また話は別だろうけどな」
――朱雀の。
刑は伝説の、この国を救う『朱雀の巫女』を護る宿命を背負った朱雀七星士の一人だ。
だから彼は今、朱雀の宿命によって生かされている状態に在る。己の意思は完全に無視されたまま。
「逆に言えば、お前は『朱雀の巫女』が現れるまではこのままでいるしかないだろうが『朱雀の巫女』が現れて用を足した後は、お前は全てから解放されるってことだ。お前の身体も心も、お前の自由になる」
それは大層、魅力的なことだった。
身体も心も自由になる。果てることを選んで、実行することもできる。どうしてもしたくて、だけどどうしても出来なかったことを。
「問題は、それからじゃなくて、それまでだろ。巫女が降臨するまでどうするんだ」
巫女の降臨時期は不明だ。明日かもしれないし、十年後かもしれない。
それまでどうしたらいいのか。どうすべきなのか。何をしたいのか、何をしてはいけないのか。
――考えたくない。
何もしたくない。何も考えずにいたい。考え始めたらまた、壊れてしまう。自分を、殺したくて堪らなくなる。
「何も思い浮かばねえならよ、お前、自分の能力なんとかしたらどうだ」
刑は瞠った目を影喘に向けた。
能力――朱雀七星士としての力。その実態は、刑自身も未だ把握していない。
「自分の思い通りに使えた方が何かと都合がいいだろう。それに今のままじゃ危険だ。お前は大丈夫だろうが、周りに被害が出るぜ」
制御できない力は、力とは言えない。過去の少ない経験の中で、自分の力がいかに大きくて危険なものかは刑も自覚していた。暴走でもしたら取り返しがつかないことになるのは目に見えている。
――力、か。
……もう、どうでもいいのだけれど。
何も感じないから、何に対しても無気力になる。光りの届かない深海の中で身を丸めながら、息が絶えるのを静かに待つように。
「気が進まないか? ……でもよ。お前の能力は、何かを護れる力でもあるんだぜ」
ぴしゃん、と水面が跳ねる。
刑は釣り糸の動きを眼で追いながら、尋ねた。
「まもる?」
「護ったじゃねえか。俺の仲間を。あれはお前、護りたくて護ったんだろう」
わからない、と刑は思った。
何ヶ月か前、刑は影喘の仲間を助けた。炎に包まれ崩壊した隣家の下敷きになりかけたところを、無理やり力を発動させて――自分が危ない目に遭えば、自分を護る為に勝手に力が発動するだろうと無意識に思っての行動だった――仲間を護り、救ったのだ。
だがあれは意識的にやったことではない。気がついたら炎と対峙していて、気がついたら叫んで力を発動していた。
そして助けた直後に感じたのは、激しい怒りと、虚無感だった。
この力が在りながら、あの時、誰も護れなかった。大切な人たちを、誰も。
深い悔しみと悲しみが、刑を号泣させた。
「人命救助なんてのは特にな、理屈じゃねえんだよ」
竿をぐいと引き揚げると、釣られた川魚がびちびちと跳ねた。影喘は何でも人並み以上にこなせる男で、釣りも上手い。彼は手馴れた手つきで針から魚を外し、隣りの桶に放り込んだ。
「例え無意識でも身体が動いたのなら、それがお前の意思ってことだ」
「俺は……」
「今更、人格なんて変わりゃしねえ。お前はお前だ、どう足掻いてもな。変わりたくても変われない、性っつうもんがあるんだよ、人間には。ガキの頃から染み付いて剥がれねえ、人其々の核みたいなもんがさ。どんなに表面を取り繕ったって、その根っこだけは変わらねえんだ。絶対に」
今の刑にはよく解らない話だった。
自分は疑念と憎悪に駆られて、劣悪な人間になってしまった筈だ。それなのに変わらない性とは、核とは、どういうことだろう。
俺は醜く変わり果ててしまった筈なのに。
「……ま、その内解るさ」
刑の表情を読み取って、影喘が笑んだ。
この人には敵わない。嘘も隠し事も見破られてしまう。
――当たり前か。
生きている年数も、人間としての成熟の度合いも、彼の方が上なのだから。
自分がまだまだ未熟であることを思い知らされる。だがもうそれに甘んじて良い年齢でもなければ、立場でもない。
立派な人間にはなれなくても、それを目指して努力するのが人の義務なのだと、そう言っていたのは――……父だった。立派な人間になれなくても胸を張れる人間になれと父は続けた。
――ごめんなさい。
何も守りきれなかった。父の教えを、何一つ叶えられなかった。
後悔の念は尽きない。どんなに月日が流れたとしても。
「外に寺院があるだろ。あそこの坊さん、そっちの知識も少しあるんだ。邪教とか、呪術とかよ。役に立つかどうかは解らねえが……会ってみねえか?」
街の外にある山の麓に寺院があることは知っている。その寺院に住まう和尚の話は――曰く、生臭坊主の破戒僧らしいが――影喘から何度も聞いた。
仏門を叩くという選択肢は、刑の中にも在った。それで自分が犯した罪を償えるとは思わない。だけど少しでも、何かが変わるかもしれないという期待があった。
仏様はこの腐った人間を裁いてくださるだろうか。
眼に見える裁きを俺に与えてくださるだろうか。
「……はい」
気づいたら返答していた。無意識の言動に理屈はないのだとしたら、これも自分の意思なのだろうか。
影喘が「そうか」と呟き、手にしていた竿を引き揚げた。
水面に上がった何匹目かの川魚がびちびちと飛び跳ねて、飛沫と共に踊った。
080825