14.離別れ(わかれ)




 魔に堕ちて――正直なところ、すっきりした。
 憎悪を認めることで己の立ち位置が明瞭となったからだ。
 負の感情に身を委ねるのは実に楽な事だ。何も考えずに済む。大切なもの、守るべきもの、愛しきもの。それらを守る術を悩まずに済む。
 ただ憎めばいい。憎しみを注げばいい。実に単純で明快だ。

 あの時のお前もきっとそうだったのだろう。
 
 憎しみをぶつけることで悲しみから逃れたかった。
 相変わらずな男だ。本気で他人に怒り狂った経験などなかったから、怒り方も解らなかったのだろう。刃物を振り回して怒鳴っていれば格好がつくとでも思ったに違いない。
 少しでも気を緩めたら泣いてしまう。奴はそんな顔をしていた。宝石の様に綺麗だった紅い眼が不規則に揺れては、時折恐怖の色を浮かべた。
 そう、奴は怖かったのだ。俺はそれを察していた。察していたのに――何も言えなかった。

 俺はあの優しい男を本気で怒らせた自分が情けなかった。

 奴は何度もその紅い眼で俺に言った。「止めてくれ」と。
 怖かったのだ、奴は。憎しみに駆られている己が、怒鳴っている己が、刃物を俺に向けている己が。
 怖くて堪らなかったのだ。
 親友に助けを求められているのに、俺は何も言えなかった。何もできなかった。ただ黙って奴の紅い眼を見つめるしかなかった。奴を怒らせた自分が情けなくて、こうなる予測はできた筈なのに軽率な行動を取った自分が恥ずかしくて。
 親友だなんて言えないと思った。もう俺はお前の親友だなんて宣言できない。だから何も言えなかった。言い訳することすら図々しいと思った。

 足場が崩れて川の中に落ちた時、死ぬと思った。

 だけどそう簡単に死ななかった。何故なら、奴が俺の手を握っていたからだ。
 驚いた。驚いた後――心内で笑ってしまった。一体お前はどこまでお人好しなんだ、と。
 そして俺はそこで一縷の望みを抱いてしまった。もしかしたら、まだ手遅れではないのかもしれない。また以前のように、親友として奴の隣りで生きていけるかもしれない。

 そう思った時に、手が離れた。

 離れた瞬間、水に飲み込まれながら何の冗談かと思った。
 手を伸ばした後に、その手を離す。成る程、単に突き飛ばされるよりその方が衝撃が大きい。
 意識が薄れていく中で俺は納得した。
 そうか。お前は本当に俺が憎かったんだな。そうか、そうだよな。解ったよ。
 
 じゃあ俺もお前を恨んでいいよな?

 どこでどう解釈が捻じ曲がったのか、今の俺には解らない。
 ただその時は単純にそう思った。死にたくないという想いが凶悪な感情を生み出したのかもしれない。
 奴が憎い、恨めしい、だからどんな手を使っても再び奴に会いたい。
 そして俺は魔に堕ちた。奴の敵として奴の眼前に再び現れた。
 久々に奴に会って――俺は高揚した。そして憎しみが増した。何としてでも倒したいと思った。例えどんな手を使ったとしても。
 だが七星士の力を意のままに操る奴は、強かった。その強さは俺の想像を遥かに超えていた。焦る反面、俺は感心した。人を傷つけることを何よりも恐れていたお前が――仲間の為に、こんなに強くなったなんて。
 だから心の隙は、俺の方にあったのだろう。
 奴と奴の仲間に倒された時、俺はやっぱり――情けないと思った。二度も俺を奴に殺させてしまった自分が。作らなくても良かった筈の傷を、再び作ってしまったことが。そして――真相を知らずに暴走してしまった自分が。
 死ぬまでは誰よりも近くにいた。俺以上に奴のことを知っている人間はいない。だから解る。あの時――手が離れてしまった後、奴がどれだけ悲しかったか。どれだけ後悔したか、どれだけ己を憎んだか。優しくて優しすぎて、いつも自分の優しさで自分の首を絞めているような奴だったから。
 


「井宿――いや、芳准のことを考えておるのか」
 老婆の声に耳を傾ける。俺は黙って視線を上げた。
「お前にその気があるのなら、奴に会わせてやっても良いぞ」
「いえ」
 小さく首を横に振る。再び視線を空中に投げた。
 奴は仲間と共にあの天コウを倒したらしい。大極山と繋がる天界で、俺は再び人としての自分を取り戻していた。
「死んだ人間は……本来、二度と会えぬものでしょう」
「井宿に言い残したことはないのか」
 俺は老婆の、太一君の問いを聞いて笑ってしまった。
 言い訳なんぞ今更過ぎるだろう。彼女だってもう、死んで転生してしまっている。
「貴方は――随分あいつに目をかけているようですね」
「ふん、彼奴は稀に見る出来損ないの七星士じゃったからな。廃人から人間に戻すのに苦労したわ」
 ――廃人、か。
 その姿は容易に想像できる。優しすぎるあいつは、誰よりも己を許せなかった筈だ。
「あいつが死ななかったのは……七星士だったからですか」
「……そうじゃ。七星士の力が、井宿を守った。じゃから、何度死のうとしても叶わなかったんじゃ」
 なんて残酷な話なのだろう。
 死ねもせず、狂えもせずに、お前は苦しんでいたのか。
 ――馬鹿だな……。
 憎んでしまえば良かったのに。俺のことを嫌いになってしまえば良かったのに。そうやって昔の記憶にケリをつけて前を見なければ、人は生きていけないのだから。
「太一君。あいつを導いてやってください。これからも」
 俺は立ち上がって、老婆と向かい合った。
 そろそろ出立すべきだ。いつまでも此処に留まるつもりはない。
「……本当に良いのか? 井宿に会わずとも」  
「ええ。言いたいことがないわけじゃないが……」
 ――芳准。
 お前にとっては酷なことかもしれない。
 だけど、仲間を得たお前なら――大丈夫だろう?
 だから長生きしろよ。
 そして誰かを愛して、誰かに愛されて――幸せになれ。
 いつまでも死んだ人間のことを想うな。それは確かに誠実で美しい姿勢かもしれないけれど、そういう問題じゃないって、今のお前は解っているだろう。
 もう一度誰かを愛してみろよ。彼女だって怒りはしないさ。元はといえば俺が悪いんだから。
 そうして幸せになってくれ。
 お前は今も生きているのだから。
 生きているのだから。
「……会ったら、離別れが辛くなる」
 俺は良い、逝くだけだから。――でもお前は。
 お前はまだ、この先の未来を生きていかなければならないから。
 辛い思い出など残したくない。
「そうか。……では、逝くがよい」
 俺は無言で天を仰いだ。何処からともなく射す光りが眩しい。暖かいその光りに包まれて、ゆっくりと眼を閉じる。
 もう、何も怖くない。
「芳准」
 遠のく意識の彼方で俺は奴の――親友の名を呼んだ。俺のことを「今までもこれからもずっと親友だ」と言ってくれた男の名を。
 ――ああ……。
 俺とお前は、親友だ。今ならそう言える、確信を持って。
 芳准――。
「ありがとう……」
 口端を上げて、俺は永遠の眠りについた。
 


 ***



 にゃあ、と鳴いたたまが、不思議そうな顔をして首を傾げた。視線の先には、不意にお面を外して呆然としている井宿がいる。
「にゃあ……?」
 心配そうに声をあげるたまの頭を撫でて、井宿は片手で顔を覆った。
 揺さぶられる心。
 胸の底から悲しみに似た何かがこみ上げてきて――気がつくと泣いていた。
 拭っても拭っても零れる涙。治まらない胸の痛み。
 訳も解らず、井宿は泣いた。
「にゃー」
 ぐいと背筋を伸ばしたたまが、井宿の頬を舐める。
 微かに嗚咽を漏らしながら、井宿はたまを抱き締めた。
「すまないのだ。……何故か、止まらなくて」
 どうしてだろう。いきなり、こんな。
 井宿は涙を手の甲で拭いながら、天を仰いだ。
 高く蒼い空、漂う白い雲――快晴。
 眼を細めて遠くにある太陽を見据える。
 雲の合い間から差し込む光りを見て、井宿は何故か安堵した。すうっと感情の波が引いて、胸が楽になる。
 おろおろしているたまの頭を何回か撫でて、井宿は微笑みかけた。
「もう大丈夫なのだ」
 胸の痛みの原因は解らない。
 けれど、きっとこの痛みにも意味がある。
 切なくて狂おしい感情を心の奥に仕舞い込んで、井宿はお面を装着した。抱いていたたまを肩に乗せて、笠を被る。
「さあ、行くのだ」
 道はまだ続いている。オイラは――俺は、生きているのだから。
 新たな出逢いを信じて、井宿は歩き出す。一時の離別れを確かに察しながら、それでも――。
 前に進むのだと、芳准は決心した。
 









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