3、許婚




「お前の許婚って、どないな女やったん?」
 無神経だとか、無遠慮だとか、唐突すぎるにも程があるとか――そんなことを思う前に、翼宿らしいと井宿は笑ってしまった。七つも年下のこの青年は、不躾であると自覚していても直球勝負を好む傾向にある。
 朱雀七星士の生き残りは久々の再会を祝して、都の宿屋で二人だけの宴席を開いていた。
 手にしていた杯を傾けて、井宿は短い沈黙を挟んだ。
「例えて言うなら……美朱ちゃんとは正反対なひと、だったのだ」
 一瞬呆気にとられた翼宿が、その後豪快に笑った。
「つまりあれか、美朱と違うて大人しゅうて、食い意地張っとらんで、ドジやないっちゅうことか」
「大人しいひとだったのだ。優しくて……いつも男二人に囲まれていたのに、女らしいひとだったのだ」
 酒が回っている所為だろうか、自分でも驚く程に井宿はすらすらと過去のひとのことを語った。
 傷は既に風化して、今更何度抉られ様と沸き立つのは懺悔の気持ちだけだが、それでも痛みを感じないといえば嘘になる。
 彼女も家族も、能力が在りながら救えなかった。あの大洪水から、一人たりとも。
 制御も出来ない能力なんて持っている内には入らないかもしれない。それでも井宿は悔いている。
 あの時、自分がもっとしっかりしていれば――憎悪に心を支配されていなければ、覚醒した能力で人々を救えたのではないか。彼女も家族も――親友も。
 そう思うからこそ、井宿は痛みを感じる。あの日を思い返す度に。
「お前が惚れてたくらいやから、ええ女やったんやろうな」
 そう言って酒を仰ぐ翼宿を、井宿は不思議そうに眺めた。
「どうしたのだ? 突然そんな事を聞いて」
「いや、なんちゅうか。お前、家庭持つ気ないんか?」
 これには流石に井宿も驚いて、正面に座っている翼宿に向かって飲んでいた酒を噴き出した。
 何やねん、と翼宿が憤る。それはこちらの台詞だと井宿は思った。
「さっきから一体なんなのだ、話の筋が見えないのだ」
「せやから……お前、一応過去にケリついたやんか。それでも今のままでおるんか?」
「……どういう意味なのだ?」
「だから、誰か親しい奴でも作らんのかっちゅう話や。お前ぶっちゃけ今、友達俺しかおらへんやろ」
 井宿はようやく、あまりにもあっさりと核心を突かれていたことに気づいた。
 流浪の旅人と自称して放浪を繰り返す生活を送っている井宿にとって、他人とは実はもっとも縁遠い存在であった。
 なるべく深く人と関わらない。それこそ風の様に流れる。それが旅を続ける上での心得だった。
「それは……オイラは、今の生活が好きなのだ。だから家庭を持つ気はないのだ。そういう翼宿こそどうなのだ?」
「そないな難儀なもんは作らん。ボウスが欲しいとも思わへんしな」
「そうなのだ? オイラは翼宿の子供が見てみたいのだ」
「はあ? なんでやねん」
「きっと君にソックリで、やんちゃで猪みたいに突っ走っては止まらない子になるのだ」
「褒めてへんやろお前……!」
 あはは、と笑って井宿は杯を仰いだ。
 翼宿の子供なら本当に見てみたい。きっと父親と同じく、正直で勇敢で気風の良い男になるだろうから。
「ちゅうか、お前なあ……ええ加減に許してやれよ」
「オイラは」
「お前やない。いや、お前もやけど。その許婚の女の方や」
 ――え?
 思ってもいなかった指摘を受けて、井宿は面を喰らった。
 ぐいっと杯を仰いだ翼宿が手の甲で口を拭き、じっと井宿を見据える。
「お前、まだ昔の女を忘れられへんっちゅうよりは……囚われとるんやろ。許せへんのや、拒んだ女が」
 ――――ごめんなさい。
 ――――もう貴方と一緒にはなれない。
 ――――ごめんなさい。ごめんなさい。
 何故一緒になれないのか、彼女は理由を述べなかった。何を尋ねても「ごめんなさい」と返された。おかげで大きな誤解をした。彼女は親友を――飛皋を、愛しているのだと。
 貞淑な娘だった。清楚でおしとやかな、優しい女性だった。
 ――だとしても。
 たった一度、違う男に唇を奪われたぐらいで――離れても良いと思える程度の相手だったのか、俺は。
 それとも「お前でなければ駄目だ」と言って抱き寄せられなかった俺が悪いのか。
 二人の仲を疑った俺が――結局は、愛情を憎しみにしか変えられなかったあの時の俺が……。
「確かに、あの時は……何故だと責めた。でもそれは、オイラが未熟者だっただけなのだ。許せないなんて、そんなことはないのだ」
「せやったら、そろそろ前見ぃや」
「……けっこう前向きなつもりなのだが」
「つもりなだけやないか。お前なあ、いつまでも放浪なんぞしとらんでちびっとは幸せになる努力せえや」
「……なんか、君に説教されるのは納得いかないのだが。翼宿だって誰かと一緒になるつもりはないのだろう」
「俺はええねん、愉快な仲間に囲まれとるがな。身内も必要以上に元気やしな。お前はほんまに一人やろ。心配してんねん、俺は」
 だから君に心配される覚えは――。
 そう言いかけて口を噤む。途端、何と言い返したら良いか解らなくなった。
 本心を曝け出してしまえば、弱音を吐いてしまえば楽なのだろうけれど――年長者として、そんな醜態は晒せないと頑なにそれを拒む自分がいる。
 それに一度晒してしまったら、何度も彼の好意に甘えてしまいそうで、怖い。
 自分を律せなくなったら、また同じことを繰り返してしまいそうで。
 ――怖い。
 俗世に還るのが――人と深く関わるのが。
 場に短い沈黙が流れる。舌を打ってそれを破ったのは翼宿だった。
「情けへんわ、ほんまに」
「……すまない」
「ちゃう。お前やない。俺が情けへん」
「え?」
「まだお前が頼れる男になれてへんのやな、俺は」
 あーくそっと嘆きながら、不貞腐れながら――翼宿は空になった杯に酒を注いだ。
 井宿は呆然とその姿を見つめる。
 ――そんな……。
 君は悪くないのに。
「そんなことはないのだ。君の事は頼りにしているのだ」
「お前、俺の前で泣けるか?」
 ――えっ……?
 できへんやろ、と翼宿が続けた。
「ええねん、別に。今は無理でも、いつかお前が頼れるような男になったるわ。絶対や。絶対なったる」
 最後は独り言のようだった。またぐいっと杯を仰ぐ翼宿を見やってから、井宿は目を伏せた。
 彼は眩しいくらいに強くて、明るい。そこに好感を持てる。だけど――同時に、自分がいかに弱い人間なのか思い知らされて、いつも反省させられる。
 結局は気を使わせているのだ。七つも年下の青年に。
「すまない」
「謝んな。お前は悪うない」
「君だって悪くない。……すまない、翼宿」
「せやから謝んなって、」
「謝りたいのだ。なんだか、とても……」
 君の好意を、無にしている。
 手を差し伸べてくれているのに、拒んでいる。同じく生き残った朱雀七星士――井宿にとってはこの地上で、この世界で、唯一『仲間』と言える存在。
 ――解っている。
 生き延びて、人の間で幸せになることが――結局は、亡くなった者達への供養に繋がるのだと。
「言うたやんか、お前。美朱と魏に……お前らの幸せが俺らの幸せやって。……お前やってそうなんやで」
 お前の幸せやって、俺らの幸せなんやから。
 そう続ける翼宿から眼を逸らす。片手で顔を覆い、井宿は俯いた。
 杯を手にした翼宿が体ごとそっぽを向く。
 七つ下の仲間の心遣いに密かに感謝しながら――。
 一筋の、泪を零した。
 
 











071213