5.右膝(1)
※注意事項は8「傷跡」にて。
5.右膝(1)
被害?
甚大だよう。
何もかも水浸しでさ。
木は腐るし、畑は死ぬ。
街一つ飲み込まれて消えちまったからな。
その辺、死体だらけだよ。
救助も儘ならねえ。
付近の村の連中が善意で動いちゃいるが、まあ限界があるわな。
役人?
来ないって。
来れる状況じゃねえんだもの。
道が塞がってるしよ。
何が大変って、飯だよ、飯。
商人来ねえんだもの。
まあ来るわけねえんだけどよ。
来たってみんな金ねえからな、買えないしな。
だけど米も麦も豆も何もねえからな。
みんな水に流されちまったし、あの川はもう、死んだも同然だしよ。
死者?
さあ……想像もつかねえなあ。
千は超えてるだろう。
あの街は都の外にしちゃ、でかい方だったからな。
付近の村も巻き込んでいるし、これからもっと増えるぜ。
餓死者がなあ……。
ああ、役人が何とかしてくれりゃいいんだけどな。
どうなんだい、そこら辺。
え?
ああ、そうか。
都も大騒ぎか。
いや、解ってるよ。
跡目問題だろ、この大洪水じゃなくて。
まったく、今すぐ決めなきゃならんことでもあるまいに。
所詮はあれよ、都の人間にとって都以外の人間なんかいていないようなもんさ。
連中、外には出ないしな。
ああ?
うん、それがな、都も商人も困らないんだよ。
だって昇龍江付近の村を通らなくても、都には行けるからさ。
流通は止まらないわけだ。
もうなんだ、今あの川の付近は陸の孤島ってやつよ。
どうすんだろうな。
川ん中にある死体は流れりゃ海に出るからいいけどよ、陸にあるのは誰かが処分しなきゃならんだろ、埋めるなり焼くなりよ。
え、俺?
いやあ、行ってはみたけどよ。
なかなかの惨状でなあ。
死人から物盗む気にもなれんかったよ。
ありゃ地獄だ。
もう駄目だろ、あの辺の土地は。
死んじまってら。
で、どうすんの今日は。
買うのかい、買わないのかい。
爺の濁声を聞きながら、今日はいいと断った。
お前これだけ喋らせといてそれかよ、と爺が豪快に笑う。俺は懐に手を突っ込んで何文か取り出し、爺に向かって放り投げた。
「そういやお前、男を拾ったんだってな」
そっちの気があるとは知らなかったぜ、と爺が軽口を叩いた。
うるせえよと言い返して空を仰ぐ。連日、鬱陶しい曇天の空が続いていた。
「それよりどこから仕入れたんだ、その話は」
「目立つんだよ、お前は」
答えになっていない。
また敵が増えたか、と心内で嘆息する。
「向いてねえのかなあ、俺」
「おいおい、冗談ならもっとマシな冗談を吐けよ。いや、お前の話はいいんだよ。その男の話だよ」
「なんだよ」
「そいつさあ、朱雀七星士じゃねえのかい」
突飛なことを妄想する爺だ。
だが話のネタとしては面白い。俺は口端に笑みを湛えて聞き返した。
「なんでそう思う」
「そいつ、朱い光りに護られていたんだろ? 常人にそんなこと出来るわけないだろうが」
「なんだよ、根拠はそれだけか」
「確かめる方法ならあるぜ」
人差し指を立て、にやりと爺が笑んだ。
「お前、彩賁帝が七星士だって話、知ってるだろ。七星士にはその証として体のどこかに七星名の字が浮かぶらしい。彩賁帝は首筋んところに『星』の字が浮かぶんだと。だからお前が拾った男の体を調べてみりゃいい。字があったらそいつは七星士だ」
――字、か。
南方朱雀七星士――異世界から降臨する巫女を護る為に在る、宿命の星を背負う七人の人間。
この国でその存在が単なる伝説じゃなくなったのは、次期帝候補である彩賁帝が七星士の一人だと知れてからだ。どれほどの民がこの事実を把握しているかは知らないが、宮廷内では有名な話である。俺は仕事で使っている情報網――客の中に宮仕えの人間がいるのだ――からその情報を得ていた。
この国を救う巫女を護る役目を担う七星士の一人だからこそ、彩賁帝が帝になるべきであると、彼を皇帝に推す宮中の人間が言い触らしている。実際、宮廷内は彩賁帝を次期帝に、という方向に傾いてきているようだ。
――片や次期皇帝、片や身売りに飼われている男。
その二人が同じ宿命を背負っているのだとしたら、それは面白い話だなと思った。
「何笑ってんだ」
「いや。宿命ほど残酷なもんはねえと思ってな」
「宿命、ねえ」
天に支配される生き様なんて、ぞっとしねえな。
そう唸った爺から眼を逸らす。空を覆う灰色の雲達を見上げながら、俺は「まったくだ」と頷いた。
純粋に天や神の存在、伝説や伝承などを信じる人間の方が、この国には多いのだろう。だがその中でも、俺が身を置いている世界ではむしろそういったことを信じない輩の方が多い。この世には神も仏もなく、伝説や伝承は全て妄言に過ぎない。
ただ、意固地になって否定する輩も少ない。多くの人間の答えはこうだ――『そんなことは、どうだっていい』――。
神がいようがいなかろうが、そんなことはどうでもいい。問題は明日の飯だ。これからの蓄えだ。そしてそれらの生きていく為に絶対に必要なものたちは、神に祈れば手に入るといった類のものでは決してない――そう知っているからこそ、どうでもいいのだ。
いてもいなくても、俺の人生には関係がない。
だから――。
――どうにかしねえとな。
あの男が本当に朱雀七星士だとしたら、ここにいるべきではない。職に貴賎はないことは百も承知しているし、何者であれ七星士は七星士なのだから、この街で生活していても何の問題もないかもしれないが――己の中の何かがそれを嫌がった。
良心、だろうか。まったく、都合の良い腐った良心だな。それともこの国に生まれた者としての義務感、か? 七星士様に尽くし、胸を張って立派に立ち上がれるまで支えてやらなければ落ち着かないとでも? 馬鹿を言え、俺はそこまで慈愛に溢れた人間じゃない。そんな無償労働ができるか。
――気に喰わねえ。
俺は男の眼を思い出していた。
暗い右目と傷を負った左目。恐らくは先の大洪水の被害者――そして賊にも襲われている。同情されるべき人間だ。それなのに当の本人がそれを拒んでいる。同情も救済も全て拒否して、底に沈み壊れることだけを願っている。
一体何があったらあの様になるのか。仕事柄、絶望に浸っている人間なら何度も見たが、あの男が一番酷い。人間というものはあそこまで沈めるものなのか。
許されてはいけないのだと、男は言った。
――それなのに死ねないのか。
そして狂気の世界へ飛び立つことも許されてはいないのか。何故そんな生き地獄を味わっているんだ。
――七星士だから。
俺はハッと鼻で笑った。
糞喰らえな宿命に対してではなく、あの男を人に戻そうと本気になって考えている自分に対して。
塒に帰ると、男はいつものように寝台の上で腑抜けていた。これ以上の廃人になると面倒だからもう手をつけるなと仲間には言ってある。
男は何をするでもなく、ただ一日中寝台の上にいた。呼吸をすることすら億劫そうに、焦点の合わない虚ろな眼から放たれる視線をどこかに投げている。
正直に言って俺は殺してやった方がこいつの為なのではないかと何度も思った。だが実行に移したところで例の朱い光りに阻まれるだけだと思うと、剣を握る気さえ起きなかった。
護られたらきっとまた泣くのだろう、こいつは。
「……俺の知り合いにな。仏のほの字も知らねえ生臭坊主がいるんだけどよ」
七星士が気になるとしたら、その所為だと思った。
俺は過去に暗示を受けていたのだ。
「その坊主、占星術が得意でな。星を見て吉凶占うあれだ。そいつが頼みもしないのに俺の未来を読んでな。……奴は言った、『お前は七つの星の一つに会う』と」
男の体が僅かに震えた。虚ろな眼には若干の怯えが読み取れる。怖がっているように見えた。
「お前がそうなのか?」
壁に寄りかかり、寝台の上に座り込んでいる男に手を伸ばす。避けるかじっとしているか、迷っている男が決断を下す前に、腕を掴んだ。
「だから死ねないのか」
苦痛に顔が歪む。青白い顔は更に血の気を無くし、今すぐにでも倒れてしまいそうだった。
本当にこの男が宿命を背負う朱雀の星の一つなのか。
「七星士なら、身体のどこかに字が出る筈だな」
震えながら男が力なく首を横に振った。
服を剥ぎ取って身体を調べても良かったが、そんなことをしても楽しくはないので止めた。俺は男色の気はないし、弱いもの苛めが好きなわけでもない。
「あの朱い光りは……お前自身の力か」
男は再び首を横に振った。まるでそんな筈はない、とでも言いたげに。
そんな筈はない、そんなことはあってはならない、そんな力は――要らない。
男の左眼に刻み込まれた傷跡を見やる。酷い、酷い痕だ。刃物で切られたようには見えない。何かで擦られた……? 何にしても、このツラじゃ復活して外を出歩けるようになったって、目立ってしょうがないだろう。
一生背負うんだな、となんとなく思った。少なくとも、この国に伝説の巫女が降臨するまでは。
――宿命、か。
何だか笑いたくなった。
本当に糞な話だ、ぞっとしねえ。いつやって来るかも解らない巫女の為にこいつはあとどれだけ苦しめばいいんだ。巫女の降臨がこいつの晩年だったら最悪だな、こいつの一生は正しく宿命に奪われ壊されたようなものじゃないか。
――俺は。
なんでこいつに同情しているんだ。
「……まあいい、今は……どうでもいいぜ。お前が何者であろうと関係ない。身分も容姿も中身も問わねえってのがこの街の長所でな。要は無法地帯ってことなんだが……」
男がゆっくりと視線を上げて、俺を捕らえる。
虚ろな右目に広がる紅い暗闇。赤黒い、乾いた血の色を連想させる瞳がそこにあった。
「お前には働いてもらう。とりあえずの目標は、炊事と洗濯を一人でこなすこと」
白い顔がぽかんと固まる。
俺は愉快気にそれを眺めた。こいつ、徐々に表情の種類が増えてきてやがる。
「ここにいる連中の分、な。最初は当番の奴について、色々学べ。俺もできるだけ協力してやる」
俺は掴んでいた腕を放した。
男が何故という顔をして見上げてくる。律儀にも、その問いに答えてやった。
「俺がそうしたいからだ。理由なんてお前は考えなくていい。それよりお前、読み書きはできるか?」
男は迷ったように眼を揺るがせたが、直ぐに偽ることを諦めたのか、大人しく首肯した。
俺は立ち上がると、室内に置いてある拾い物の箪笥に手を伸ばした。盗難防止用に取り付けた仕掛け扉を外し、執筆用具一式を取り出す。
「じゃあ、何でもいいから呼び名を記せ。名無しだと不便だからな」
筆と紙代わりの布を持った男が固まる。己の名を決めかねているようだ。
俺はふざけて「迷っているなら『犬』って呼ぶぞ」と軽口を叩いた。
僅かに首を傾げ、男は布に筆を落とした。綺麗な形をした文字がしたためられる――『犬』、と。
――おいおい。
「いや……冗談だって。別にそう呼びたいわけじゃないから。自分で決めろ」
言われて男は、犬の字の横にさらさらと小さい文字で文を書き付けた。
『犬でいいです』――。
俺は思わず顔を引き攣らせた。本気なのか自棄なのか解らない。
男は不思議そうな顔をして俺の様子を伺った。こいつ天然か。
「解った、俺が悪かった。というかお前がよくても俺がよくない」
流石に仲間の前でこいつを『犬』と呼びつけるわけにはいかない。笑える噂が立っちまう――どころか、既成事実として流布しかねない。何かに利用できるわけでもないのに、ありもしない事実を撒き散らされても困る。風評というのは、一旦流れると見知らぬところで真実として定着してしまう恐れがある、危険なものなのだ。人が流す噂ほど怖いものはない。使い方次第では凶器にもなる。
「犬以外で何か考えろ」
迷った手が何度か宙で動いて、そのあと布の上に乗った。またさらさらと文字が記されていく。馴れた手つきが男の学の高さを物語っていた。恐らく農村の生まれではない。
『貴方のお名前は何とおっしゃるのですか』――。
馬鹿丁寧な文字に馬鹿丁寧な語調で問われて、俺は思わず笑った。
「俺は影喘だ。影に喘ぐ」
『ご名字は?』――。
何を探っているのか――いや、俺のことを知ったところでこいつには何の意味もない。やはりただの天然なのだろう。
――名字か。
先祖から続く家の名など、とっくの昔に捨てたが。
「……刑だ。刑場の刑」
俺は仲間にさえ告げたことのない名字を口にした。家があり、それなりに学がある、そんな人間はここいらでは珍しい。故に狙われ易い、だから姓名は明かさない。
本来なら名も偽るべきところなのだが、影喘は本名だ。俺はこの、健やかな人間に育つことなどまるで期待していない妙な名前が気に入っているし、素性がばれたところで困ることは一切ないから、本名で通している。困ることがないというのは、俺の素性を知る人間などいないに等しいから名を知られても無意味だということだ。
男の持つ筆が力なく動く。
『では、刑とお呼びください』――。
こちらは意地でも本名を明かしたくないらしい。天涯孤独の身であるなら、知られて困ることなどないだろうに。
――あるのか。
男の左眼の傷にちらりと視線を投げ、直ぐに逸らす。興味がないわけではないが、この男は死んだって口を割らなさそうだ。
意外に頑固で、天然気味。男の特色を整理しながら、これからのことを考える。
とりあえず口を利けるようにしなければ――。
「刑、か。とりあえずその馬鹿丁寧な口調は止せ、笑っちまうから」
戸惑いの色を瞳に湛えながら、男は小さく頷いた。
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