5.右膝(2)
5.右膝(2)
冷めている。それが子供の頃からずっと変わらない、自分に対する人の評価だった。
何ものにも執着することができない己の性は、二十何年も生きてきたから流石に自覚している。
誰も心の底から憎むことができない代わりに、誰も心の底から愛すことができない。
可もなく不可もない、平穏過ぎる心の有り様。そんな状態でいるのが嫌で、俺はこんな商売をしているのだろうか。
まどろみながら考える。答えは否だ。いや、違っていて欲しいと願っているだけなのかもしれない。退屈で糞つまらない本当の自分を、認めたくないだけなのかもしれない。
二十何年も生きてきて随分と青臭いことだ。思春期の餓鬼でもあるまいに、俺は自分が存在することの意義を考えている。
何の為に生まれ、何の為に生き続けているのか。
答えは解りきっている。親父が行きずりの女と寝たから俺が生まれて、死ぬのがなんとなく嫌だから生き続けている、ただそれだけの話だ。
――なんとなく、か。
歳を重ねる度に、死に対する嫌悪感が薄れてくる。俺は現世にさえ執着がないらしい。今、生きている理由を述べろと誰かに言われたら「親父より先に死ぬのが癪だから」としか答えられない。それしか理由がないのだ。
「……それも言い訳か」
ぽつりと呟くと、隣りで寝ていた女が身を捩った。漆黒の長い髪を掻きあげて、「何?」と小首を傾げる。
「いや。……いつまで経っても餓鬼だと思ってな」
「貴方が? 当然でしょう」
女はくすくすと笑って俺の顔を覗き込んだ。胸に落ちた女の髪のひと房を手に取って、唇を寄せる。
「当然?」
「ええ。男の人はみんな、幾つになっても子供だもの」
その答えは、俺にとっては免罪符だ。
女の髪を指で梳く。よく手入れされた黒髪が滑らかに揺れ動いた。
この女は、元は皇族に仕えた名家の御令嬢らしい。だが今は都を出て街を転々とし、身を売って生計を立てている。それ以上の事情は知らない。
「……家庭でも作れば変わるか」
「作る気なんてないくせに」
「もしもの話だ。でも子供は欲しいな、親父の気持ちになってみたい」
「貴方、本当にお父様が好きね」
「好きというか、唯一興味がある人間なんでね」
「それを好きと言うのよ」
そういうものだろうかと思いながら、胸に縋り付いてくる女の肩を抱いた。
唯一の肉親である親父に対しては恨みもある。あの男は昔、幼児だった俺を捨てて出奔した。お陰で中途半端に擦れた俺は、この澱塗れの世界で未だに愚図っている。
「いや、唯一じゃないな。今はもう一人いる」
身体を反転させて女を組み敷く。俺の首に両腕を回した女が、ああと頷いて笑った。
「あの子でしょう、目に傷のある子」
「目敏いな。もしかして狙っているのか?」
「私は調教するよりされる方が好きだから、あの手の子は御免だわ。でも綺麗よね、あの子。観賞用としてなら持って来いよ」
元御令嬢の美的感覚は理解するのが難しいなと苦笑しながら、女の首筋に顔を埋めた。観賞用、だなんて俺には想像もつかない。大した発想力だ。
「あの傷が、あんたの琴線に触れた?」
「外観なんてどうでもいいの」
「は?」
「心がね。綺麗でしょう。何度汚されても、汚れきれないような……。例え本人が望んでも穢れに染まりきれないような、純潔さを感じるわ。根から綺麗な人っているのよ。根から汚れている人がいるように――どちらも生き辛いでしょうけれどね」
女の年齢は俺と大して変わらない筈だ。だがいつも圧倒的な違いを見せ付けられる。……女だからか。
「貴方はあの子の何に魅せられたの?」
――何に。
女の白くて柔らかい肌に触れながら考える。
何に魅せられた。あの男の何に。
――眼。
あの暗い、紅い眼。
絶望色に染まった眼。
その奥に深い悲しみを湛えた眼、自分自身を責める眼――。
「眼が……見たい。あんな眼ではなくて」
肢体に手を這わせる。女の喘ぎが耳元に届く。
「もっと、澄んだ……眼が」
呟きながら、何を勝手なことをほざいているのだろうと思った。
自分の思い通りにしようとしている。あの男の都合など考えもせずに。
――解んねえな。
あの男は何を望んでいるのだろう。
俺はあの男をどうしたいのだろう――。
左目に傷のある男を――本人が刑と呼べと言ったから刑と呼ぶが――刑を拾ってから、ひと月ほどが経った。
未だに声を発することはないが、仲間とはそれなりに上手くやっている。炊事にしても洗濯にしても初めは梃子摺っていたが、飲み込みが早く、今では一人で全て賄えるようになった。
黙って呆けているよりは動いている方が刑も楽なようで、前よりは表情も明るくなってきたように見える。ただ、笑顔は見せない。仲間連中がどんなに面白いことを言って笑わせようとしても――後で知ったが「刑を笑わせた奴は五十文」なんて賭けをしていたらしい――申し訳なさそうに眼を伏せ、立ち去ってしまうだけだった。
「意外に頑固だよなあ、あいつ」
くっくと笑う仲間の横で、俺は煙管を咥えた。同意するでもなく、黙って目を逸らす。
雨戸ががたがた鳴って煩い音を立てた。昨日から激しい嵐が続いている。
「あんたが拾いたくなった気持ちが解るぜ、親分」
「そうそう。何だか放っておけねえんだよなあ。なんでだろうな」
「しかもありゃ、相当学がある。うちの勘定方に置いたらどうだ」
「ああ、ここいらじゃ親分が一番だと思ってたけどな。あいつどこの生まれなんだ? 親分、知ってるかい」
酒を仰ぎながら「さあな」と返した。
先月に起きた大洪水の被害者だというなら、大体の見当はつくが。
「ただ、俺ァ正式に学んで知識を得たわけじゃねえから、あいつには勝てねえよ」
「ってことは……奴ぁ、役人の家の出か」
「多分な」
それで尚且つ大洪水によって飲み込まれた街の出身だとしたら、かなり絞り込まれる。といってもあの街はもう消えてしまったのだから、特定したところで意味があるとは思えないが。
「あの洪水がなきゃ、俺たちとは一生関わることなんかなかったのにな」
「いや、会っていたかもしれねえぜ。取り締まりか何かで」
笑えねえよ、と言いつつ大笑いする一同に向かい、俺も嗤って「馬鹿言え」と返した。
「俺ァ、あいつが役人として地位を築くまで、こんな商売やってるつもりなんざねえよ」
仲間の動きが止まる。
俺がこの世界から足を洗うということは、こいつら全員の食い扶持がなくなるということだ。長い間苦楽を共にした仲だ、今更見捨てるつもりなんざ毛頭ないが――この仕事を長く続けるつもりがないというのも本心だった。こいつらに割り振れるだけの金を貯めたら、店を畳もうと思っている。
この商売は荒稼ぎできるがその分危険も多い。客も同業者も、時には商品すら敵に成り得る。そして役人に見つかれば一巻の終わりだ。良くて拷問、悪くて打ち首だろう。
「……そうかい。ま、あんたがそう言うならしゃあねえな。俺はあんたの判断に従うよ」
「俺もだ。でも、次に何かやる時は呼んでくれよな。力になるぜ」
「馬鹿、次なんざねえさ。なあ、親分」
杯を掲げて、古参の一人が笑う。
「あんたに小悪党の親玉は似合わねえよ。あんたは――もっとでけえ男だ」
「へえ、親分でかいのか」
「マジで? 見せて見せて」
「うるせえな酔っ払い、良い話が台無しだろうが!」
どっ、と一同が沸いた。
まったく騒がしい連中だ。
――まあ、嫌いじゃないんだが。
「お、刑! 起きてたのか、こっち来いよ」
振り返ると、開いていた扉の外に刑が立っていた。仲間の一人が、眉を寄せて立ち尽くす男の腕を掴んで、部屋の中へ引っ張ってくる。
「まあ、飲め飲め。お前の作る飯は美味いからな、日頃の礼だ」
持たされた杯に酒を注がれて、刑はぶんぶんと首を横に振った。
「なんだお前、飲めないのか」
「お前よう、八つか九つの餓鬼でもあるまいに、酒の一杯や二杯や三杯や四杯や五杯くらい飲めねえと男とは言えねえぞ」
刑はおろおろして視線を彷徨わせた挙句、俺を見た。
俺はくっと笑って、奴に言った。
「ま、何事も経験だ。飲んじまえよ」
刑の顔がさっと青くなると同時に、仲間達がにやりと笑んだ。
「ほら、親分に言われちゃ逆らえねえよなあ」
「一気、一気」
逡巡した結果、諦めたのか何かが切れたのか、刑はぐいっと杯を仰ぐと本当に一気に中に入っていた酒を飲み干してしまった。潔く勇ましい飲みっぷりに、仲間達から拍手喝采が送られる。
どうやら飲めないわけではないらしい。酔うのが嫌だっただけかもしれない。
どうせなら酔い潰れてしまえばいいと思った。そうして、嫌なことも何もかも一度忘れてしまえばいい。誰も責めやしないのだから。
俺は立ち上がって、窓に寄った。雨戸を少しだけ開けて外を見やる。
天を支配する雲は、黒雲――を通り越して、妖雲と化している。嵐の峠は明日ではないかと誰かが言っていた。これでは身動きが取れない、明日も家に篭ることになるだろう。
横殴りの雨が入り込んできて、ぴしゃりと頬を叩く。あの洪水から断続的に続いている雨――よりも、今は風の方が気になった。暴風になることなく、烈風で留まってくれれば良いが――天候とは人心よりも気紛れだ。憂慮してもしなくても、来る時は来る。
いっそ近くに雷でも落ちたら、あいつが驚いて声が出るようになるかもしれない。
軽く笑って、俺は暗雲が立ち込める空から眼を離した。
080723