右膝(3)
右膝(3)
その日は年に一度あるかないかの大雨だった。
戸の隙間から外の景色を見やる。木々はその身を曲げ、今にも根元から折れて吹っ飛んでいってしまいそうだ。人の影はなく、真昼だというのに天は暗黒色に染まっている。魔物の大群でも襲来してきそうな空だ。
何にしても夜までには止んでくれないと困る。明日まで雨が降り続けば再びあの川が――昇龍江が氾濫しかけない。役人の対応が遅れている所為で、未だ堤防すら修復できていないのに――また洪水になれば、あの辺りの土地は壊滅状態になってしまうだろう。
とは言うものの、天候ばかりは人間の力ではどうにもならない。この世界の中心に在るという大極山に住むと言われる太一君、つまり天帝にでも祈るしかないだろう。その当の天帝様が天候を自由に操作できるかどうかまでは知らないが。
俺は暗い天を見上げ、嘆息した。
何を荒れ狂っているんだか。人間を困らせて楽しいかい。いや、この場合勝手に困ってる俺たちが愚昧なのか。
超然としていれば困ることなんざないんだろうが――そんな退屈な人生は御免だ。
戸を締め切って、部屋に戻った。仲間達は唐突に与えられた休暇を思い思いに過ごしている。博打を打つ奴もいれば只管寝て過ごす奴、黙々と身体を鍛えている奴もいた。
しかし、刑の姿が見えない。
「おい、刑はどうした」
「ああ、何か知らねえけど、寝台の隅っこで蹲ってるぜ」
二日酔いじゃねえの、と違う仲間が口を出した。昨日の酒盛りで無理やり飲ませて潰したから、確かに具合は悪いだろう。昨夜見た限りでは、酒は弱くはないが強くもないといった感じだった。
俺は刑が使っている寝台に向かった。
「――刑」
寝台の隅で身体を折り曲げ、蹲って座っていた刑が僅かに身体を揺らす。ゆっくりと上がった顔は蒼白で、唇が若干震えていた。
只ならぬものを感じて、側に寄る。手を伸ばして思わず頭を撫でた。まるっきり餓鬼扱いだ。色々と厄介だという点においては、俺の中でこいつは餓鬼だが。
「どうした?」
二日酔いで具合が悪い、といった様子ではない。まるで何かに怯えているようだ。
俺はふと気づいた。
もしかして、思い出しているのか――前の洪水を。
「……怖いのか」
刑の顔が歪む。右目の紅い瞳が澱んだ暗さを放った。
置きっぱなしの手で頭を撫で回す。
「大丈夫だ。もう洪水なんか起きねえよ」
根拠なんか何もない。だが慰めずにはいられなかった。
小さな子供をあやすように、俺は続けた。
「雨だって、もう少ししたら止むさ。それまでの辛抱だ。……ああ、もしかして傷が痛むのか」
雨の日には古傷が疼くという。
刑は泣きそうな顔をして、小さく首を横に振った。こんなことで意地を張ってどうなるんだと思いながら俺は話を進める。
「傷の疼きに効く特効薬なんてあったかなあ……炎症を抑えるやつならあるんだが」
「親分」
呼ばれて顔を上げると、扉の後ろにずぶ濡れの仲間が立っていた。
「なんだ、どうした」
「悪い、邪魔したか」
「阿呆、くだらねえこと言ってんじゃねえよ」
「ああ。いや、それがな、今ちょいと外を回ってきたんだが――近所の建物が何件か倒壊してやがる」
「何だと?」
眉を顰めて睨むと、仲間は肩を竦めた。
「思ったよりも風が酷ぇ。ここも木造だし、何か手を打った方がいいんじゃねえか」
そうは言っても、自然の猛威に対抗し得る策などない。
何処かに避難するか。何処に? 街の中にも外にも、暴風を防げそうな場所はない。
「あと一刻くらいで止んでくれねえかな」
「さあなあ、そればっかりは……お天道様は気紛れだからよう」
「ちっ、寺の坊主に天候聞いときゃ良かったぜ」
「ああ、あの占いの坊さんか。当たるのかい」
「十中八九な」
ここひと月、刑がいたから街の外には出なかった。占星術が得意の生臭坊主がいる寺院は、街の外にある山の麓にある。
「親分、今からでも行って来ようか?」
「いや、止めておけ。足場が泥濘るんでいるから遠出は危険だ。それより、危ねえかもしれねえって皆に伝えてこい」
「合点承知」
「親分!」
了承の返事と共に、野郎の悲鳴が耳に飛び込んでくる。喧しい、との意味を込めて「なんだこの野郎」と俺は低音で凄んだ。
「あ、や、も、燃えて」
「あ?! はっきり言え」
「燃えてる! 隣り、火事だ!」
――ばっ……!
馬鹿野郎、早く言えと怒鳴り返す前に身体が動いた。締め切っている部屋の窓を開けて外を眺める。直ぐ近くに燃え盛る炎の赤を見つけて、俺は心内で舌を打った。
「隣りの連中は?」
「外に、」
「生きているならいい。とりあえずこっちに入れてやれ」
「だけど親分、ここもやばいだろ」
「解ってる」
炎の勢いは増している。雨による鎮火は期待できない、風の影響が強すぎる――煽られた炎が、その身を一層激しく燃やしていた。
――消火っつったって、雨水溜めてぶっかけるしかねえし……。
せめて風が治まってくれればまだしも――。
火の粉が宙に舞う。猛々しい炎が迫ってくる。
考えている時間はない。
「おい。誰か一人、刑と一緒に貴重品を持って屋敷の隅にいろ。後の連中は隣りの消火だ。こっちに火が移ってやばくなったら、誰か伝令を寄越して知らせる。その時は外に出ろ、いいな」
不安げに見上げる刑の眼を見ながら喋り、腕を取って立たせる。そのまま近くにいた奴に任せて、俺は消火の指揮を取ることにした。
「桶に雨水を溜め込んで隣りに――いや、井戸だ。並んで手渡しで水を運べ。余った奴は雨水溜めてろ」
こうなれば人海戦術しかない。ここで凌がなければ、もっと被害が拡大してしまう。職業柄、目立ちすぎると困るということもあるが、犠牲者が出るのは後味が悪い。
外は暴風雨だ。横殴りの雨が全身を襲う。
「親分よう、風邪っぴきで死人が出そうだなあ、こりゃ」
「阿呆、お前らがそんな上等なタマかよ」
「ハハッ、違ぇねえ」
軽口を叩く程度の余裕ならまだあるらしい。
消火活動を続けながら空を見上げる。雨雲は散る気配を見せない。いや、この際雨はどうでもいい。問題は風だ、風さえ止んでくれたら炎の勢いも雨に押されて弱まる筈だ。
――祈って止んでくれたら世話ねえか。
人間の思惟など歯牙にもかけない。天候、天災――正しく天と名のつくだけのことはある。
その下で足掻けるだけの自由を得ているのだから、それに関しては素直に有り難いと思うが――どうやら、早々に限界がきたようだ。
あと少しで炎が屋敷にまで到達してしまう。
「ちっ……! おい、中にいる奴を全員外に出せ! 燃え移っちまう」
おう、と仲間が返事を返した。
俺は黙って燃え盛る隣家を見上げた。
――油に火ぃつけたみてえだな。
過失の火事に見せかけた放火かもしれない。だったら狙いは――屋敷か。犯人は同業者か取引先か、宛てが在り過ぎて見当もつかない。
「親分! 駄目だこりゃあ、かけてもかけても消えやしねえ」
「そろそろ本気でやばいな。どうすんだ? このままじゃ本当に死人が出るぜ。そんな糞面白くもねえ展開は御免なんだが」
俺だって御免だ。心中でそう返し、雨に濡れた前髪を掻き上げた。
冷静に思案するが良案が浮かばない。最悪の場合、ここを見捨てて街の外の寺院に厄介になるか――。
そう考え始めた時、悲鳴が耳を劈いた。
「逃げろ! 崩れるぞっ!」
見上げると、炎に包まれた隣家が不気味な軋みを立て、斜めに崩れかけていた。反射的に身体を翻し、隣家に背を向けて走る。
「おい、早く来い!」
仲間の切羽詰った声を聞いて、後ろを振り返った。仲間の一人が建物の前に座り込んでいる。身体を震わせながら、迫り来る隣家を見上げていた。腰が抜けて動けないのだと咄嗟に理解した俺は――後先考えずに走り出していた。
「ばっ……親分! 止せ、間に合わねえ!」
解っている。足を動かした瞬間に感じた、この距離では到底間に合わない。けれど身体は止まってはくれなかった。
崩壊しそうな隣家の屋根が眼に入った――次の刹那、けたたましい破壊音と共に、炎に包まれた屋根の塊が仲間を目掛けて崩れ落ちてきた。
――当たる。
足を止め、思わず両眼を伏せる。
屋根が地面に落ちる衝撃音と共に、仲間の悲鳴が周囲に響き渡る――筈だった。
騒然と化していても不思議ではない現場は、その時、異様な静けさに満ちていた。
俺はゆっくりと、伏せていた眼を開けた。
柔らかいものが眼に飛び込んでくる。これは、光り? 暖かい。紅い、朱い――。
――朱い……。
これは、以前に見た、あの朱。
俺は隣家を凝視した。燃え盛っていた炎が、崩れ落ちた屋根が、朱い光りに遮られている。そして尻餅をついていた仲間の前には、一人の男が立っていた。
朱い光りに包み込まれるように護られていたその男の、風に煽られた衣服の隙間から覗いて見えたのは、朱い字。
『井』――。
白い陶磁器のような肌をした右膝に、刻々とその字は刻まれていた。
――朱雀……七星士……。
南方朱雀七星宿――!
俺は茫然と男を、刑を見つめた。
刑は苦しそうな顔をして、燃え盛る隣家と対峙していた。朱い光りが徐々に炎に押される。刑は炎を拒むように両腕を突き出すと、言葉にならない気を吐いた。
苦痛に顔を歪めながら。
「っ……ああああっ!!」
朱い光りが明るさを増し、膨らんでいく。そして隣家や屋敷、周りにいた人間全てを包み込んで――弾けた。
瞬間、鈍器で殴られたかのような衝撃を受ける。光りにやられて眼は開かない。
何がどうなっているのか。早く確認したい。認識できるのは、焦げ臭い匂いと土を叩く雨の匂いだけだった。焦燥に駆られつつ、己が復活するのを待つ。
時間にして、どれくらいが経過したのだろうか。
ようやく痛みが引いた眼を開き辺りを見回すと、全焼して崩れた隣家と、無傷な屋敷が見えた。あれ程猛々しく燃えていた炎の姿はどこにも確認できず、それを煽っていた風すらも止んでいた。ただ、桶から水を引っくり返したような、土砂降りの雨が呆然と立ち尽くす人間たちの身体を叩いていた。
煩い雨音とは裏腹に静寂と化した空気の中で――小さな嗚咽が聞こえてきた。
全焼した隣家の前で、男が崩れ落ちていた。両手両膝を地面につけ、震えている。汚れた土に埋めている白い手は黒く汚れていた。だがそれでも足りないのか、男は何度も土を握り締めていた。
悔しそうに。
「うっ……う……く……っ」
激しい雨の中、嗚咽は徐々に慟哭へと変わっていった。
悲鳴にも似た声で、男は泣いた。
「う……っああああああ――!!」
俺はただ、黙ってそれを見ていた。
……見ていることしか、できなかった。
080726