8.傷跡
※注意※
・オリジナルキャラ出没の上、その人の一人称で進む話です。
・全編、井宿(芳准)が暗い・重い・辛い・酷い目に遭う…?の四重苦です。
以上二点、苦手な方はお引き返し下さい。
8.傷跡
俺がその面白い光景を目にしたのは、三日ほど前のことだ。
誰も近寄らない寂れた路地裏に、一人の男が座り込んでいた。見たところ歳は若く、恐らく二十には達していない。身に着けている服は上等だがぼろぼろで、盗賊の強襲にでも遭ったかのような格好をしている――というより、既に何度か襲われた後だろう。
特徴的なのは眼だ。左目に大きな傷を負っていて、右目は――死んでいた。昏黒よりも黒い暗闇のような色で、何も写さない。そんな眼をしていた。
俺がその男を発見した時、男は数人のゴロツキに囲まれていた。どう見ても金目のものを持っているようには見えない、浮浪者か物乞いが精々といった男を見下して、ゴロツキ共は卑俗な笑みを浮かべていた。ここら辺では見ない顔たから、挨拶がてら弄ぼうといったところか。
特に珍しい話ではない。ここら一帯は昔から治安の悪い地域だし、隣接する市街が大洪水によって多数の死者と行方不明者、孤児を輩出した結果、この街に流れてくる者が増え、それによって逃げてきた者達を標的に悪さをする連中も増えた。災害の後にはこうした、賊よりも性質の悪い輩が現れるものだ。
だからその光景も、日常茶飯事といえばそれまでだった。
ゴロツキ共の下衆な笑い声を聴きながら、俺は座り込んで沈黙している男の顔を凝視した。血の気を失った、白磁の様に真っ白な肌に大きな傷が目立つ。だが顔の作りはなかなか良い。
あの傷さえなければと思った時――それは起きた。
男の周りでゴロツキ共が呆気にとられている。俺も茫然としてその光景を眺めた。
ゴロツキ共が襲い掛かった瞬間、傷を負った男の身体を守るように朱い光りが男を包みこんだのだ。ゴロツキ共は手を伸ばすが、光りの壁に遮られ、男に触れることすら叶わなかった。
そして朱い光りの中で男は、泣いていた。
嗚咽一つ漏らさず、死人のように暗い瞳からただ一筋の涙を頬に濡らして、淡々と。
何故か思い至って、俺はその男を拾うことにした。
「何考えてんだい、親分よう」
男を家に連れて帰ってきてから半日、早速仲間から苦情がきて、俺は思わず苦笑した。うちの事情を考えれば、無理もないことだった。
「こんな奴を養う余裕はないんだぜ。洪水の影響はこっちにだってあんだからよ」
「解ってらあ。売れねえか、これじゃ」
「売れるわきゃねえだろ、こんな傷モン。何か拾ってくるにしてももう少しマシなの拾ってこいよ」
そう言って仲間は溜息を吐いた。
正論過ぎて抗弁を放つ気にもなれない。代わりに、寝台に横になっている男を見やった。衰弱しきっていて口がきけないから、名前も解らない。恐らく先日起きた大洪水の被害者なんだろうが――。
「傷さえなけりゃ上玉なんだがな」
「……親分、まさかとは思うが」
「なんだよ」
「惚れちまったのかい」
俺は噴き出して笑った。
「おい、たった今までこいつの身売りの話してたんだぜ、俺は」
「でもよ。売れねえって解ってて連れて来ただろ、あんた」
「まあな」
素直に認めると、仲間は眉を顰めた。俺はまた苦笑を返してそれに答えた。
何故連れて来たのだと問われても、答えようがない。ただ気がついたら足を向けていた。そして手が伸びていた。
側に寄ると既に朱い光りは消え失せていて、男は気を失っていた。身体を抱き抱えて、そのまま仲間の元へ帰った。
「ただ、こいつは只者じゃねえ気がしてよ」
「はあ? なんだそりゃ」
「さあな。売れねえなら、遊ぶなり何なりしろよ」
「あ? いいのか」
「飯食わせて、回復させてからにしろよ。ここで死なれちゃ後味悪い」
俺は卓上に放って置いた煙管を咥えて部屋を出た。
世間様の眼、から見れば――悪い商売だろう。俺は数人の仲間たちと、この街を拠点にして人身売買をして暮らしている。
暴戻なことをしている自覚はある。だからといって言い訳をするつもりは更々ない。需要があるから供給が生まれる、ただそれだけのことだ。平穏なこの国でもこの商売は成り立つ。
どこの国にも特権・支配階級や素封家には馬鹿がいるものだ。無論、俺達に連中を非難する権利はないし、する気もない。取引が成立している以上、俺も奴らも同じ穴の狢だ。
煙管をひと吸いして、白煙を吐き出す。
ふと、あの男は何者なのだろうと思った。
男の身を守ったあの朱い光りは一体何だ。
光りに守られながら、男は何故泣いた。
俺が気になっていたのはそこだった。奴はどうして泣いたんだ。酷いことをされて泣いたというのならまだ話も解るが。
直接聴いた方が早いかと思い、俺は男の回復を待った。
それから三日後――即ち今日だ。
俺は三日ぶりにその部屋に入った。男の世話は全て仲間に任せていた。ここ暫く収入が悪かったから、謝礼のつもりだった。
男は寝台に横たわっていた。上着を羽織っているだけで、前は肌蹴ている。男は緩慢とした動作で俺を見上げた。無表情だ。開いている右目は相変わらず死んでいる。
「よう。生きてるか」
俺は寝台の近くにあった椅子を引き寄せて座った。
男から返事はない。
「無理させて悪かったな。まあ、養い料だ。物々交換と同じ原理さ。世の中タダってもんはねえんだ」
男は黙ったまま、ゆっくりと上体を起こした。羽織っていただけの上着が肩からずれ落ちる。白い肌には幾つかの鬱血した痕が見えた。
「俺はここらで、まあ、自慢にもならねえ商売やってるモンだ。ここ数日お前の相手をしていたのは俺の仲間で、俺は連中を束ねている――頭みてえなもんだ」
男は緩やかに俺を見返した。未だ、言葉を発する気にはなれないらしい。
「お前を拾ったのは俺だ。感謝しろとは言わねえよ。憎んでくれて構わねえぜ。俺ァ、単に興味本位でお前を拾っただけだ」
言いながら、男の肩からずれ落ちた上着を拾い、着せ直した。この時期に裸は寒い。
「お前よ、……一つ聞きたいんだが」
落ちていた帯を拾って男の腰に巻きながら尋ねた。
「お前を護ったあの朱い光りはなんだ」
びく、と一瞬男の身体が震えた。
それと同時に死んでいた右目が刹那、蘇った――ような気がした。
「気になって仕方ねえんだよ」
白い頬に手を添えた。
暗く澱んだ眼が俺を捕らえる。その深淵の深さに、絶望の深さを見た。
――こいつ……。
地獄でも見てきたっていうのか。
「あの光りに護られながら、お前は何故泣いた?」
無表情を貫いてきた男の顔が僅かに歪んだ。顔を背けて手から逃れようとするのを、俺は無理矢理引き戻した。
「話せねえのか? あ?」
睨み付けると男は弱った顔をして、口をぱくぱくと動かした。
――声が出ねえのか。
俺は男の顔から手を離した。
「早く喋れるようになれよ。いつまでもこのままってわけにはいかねえだろ。……あの様子じゃお前、どう足掻いたって死ねないんだろ?」
男の顔色が変わる。正しく、絶望の色に。
俺は立ち上がり、男を見下して言った。
「死ねないなら生きるしかねえなあ。……腐ってもよ」
男は震えながら俯いて泣きそうな顔をした。青い顔をして、唇を噛み締めて。
俺は一つ息を吐いて、再び男の側に寄った。両手で男の頬を包み、引き寄せる。
男は驚いた顔をした。俺はその顔を見ながら、なんだこんな顔も出来るのかと思った。
「……そう思い詰めんなよ。何も考えるな、少しは自分の心を休ませてやれ」
男は若干眉を顰めた後、小さく首を横に振った。意外と頑固な奴だ。
お前なあ、と言いかけたところで男が小さく口を開いた。僅かに動く唇の形を読み取る。
れ、は、ゆ、さ、れ……ない。
お、れ、は。
ゆるさ、れ、て、いけ、な……。
俺は許されない。
俺は。
許されてはいけない。
そう告げて、男は項垂れた。
俺は心中で悪態を吐いた。
――馬鹿野郎。
許されない人間などいるものか。
人は、人というのは――。
そう言いかけて口を噤む。人身売買を生業にしている人間の言う台詞ではないと思った。
かける言葉を見失い、俺はそっと男を抱き締めた。
白い肌は冷え切っていて、冬の風の様に冷たかった。
080716