ときの断片(芳准編)




 事の発端は、親友に恋人を奪われたこと。
 それが巡り巡って、なぜこんなことになってしまったのか。
 昔の俺には解らないし、今の俺にも解らない。



「どうして何も言わないんだ」
 いくら冷静であろうとしても、どうしても声が震えた。
 物心つく前から陰陽師としての教育を受け、人並み外れた強大な力を持つ自分が、我を忘れるとどうなるか。
 想像などできなかった。そんなことを考える前に、彼は自分を見失っていた。
 相手は沈黙を貫いたまま真摯に見返してきた。その落ち着き払った態度が彼を更に煽った。
 だが許せないと思う度に増すのは怒りではなく、悲しみであった。頭が熱くなるより、胸が痛む。体中に満たされた悲しみで心が壊れてしまいそうだ。
 それから逃れる為、彼は怒ることに、憎しみを相手にぶつけることに集中した。
「何故裏切った」
 信じていたのに、この世の誰よりも信じていたのに。
 どうしてこんなことになるのだろう。誰か嘘だと言ってくれ。
 そうだ、嘘だと言えよ。言ってくれよ、お前の口から。頼むから言い訳してくれ、何でもなかったんだって、お前の見間違いだって言ってくれよ、嘘でも信じるから、お前の言うことだったら、信じるから……!
 全てが壊れてしまう前に戻ろう――三人に。
 それが一番いいだろう? お前はそうは思わないのか? それとも――。
 もう、とっくに全て壊れてしまっているのか?
「飛皋」
 ――なんとか言えよ!
 心内で激昂する。
 それまで決して崩れなかった親友の顔が僅かに歪んだ。その表情に若干の恐怖が滲み出ていることに、彼は気づいていなかった。
 体の暴走を心は止めてくれなかった。
 相手の顔がうっすら滲んで見えるのは、雨が降っている所為だと思った。
「彼女を」
 震えた手で親友の胸倉を掴む。
 相手はぐっと口元を引き締めた。何かを決意し、覚悟した顔。
 どうしてそんな顔ができるのだろうと思った。
 ――俺は、俺は……っ。
 こんなに、揺れているのに。
 どうしてお前は。
「彼女を返せ……!」
 どうしてお前はいつだってそんなに真摯なのだろう。
 酷い羨望と嫉妬を覚える。
 その時、暗い空が光って――――。

 気づいたら、血塗れの親友が足元に横たわっていた。



 ***



 地獄絵図――だった。
 自分が生まれた寺にもあったから、罪人を焼き尽くす地獄の業火やら、血の溜池やらの絵は見慣れていた。
 だが本物のそれは、迫力が違った。
 漂う血の匂い、赤く染まった床、倒れている人々、四散した肉片。
 全員、死んだのか。いや違うと首を振る。
 あいつ、、、だけはきっと生きている。生きていなければおかしい、何故ならあれは朱雀七星士の一人だ――『朱雀の巫女』が降臨する前に死ぬことは決してない。それが運命であり、星の宿命なのだ。
 あれはどこにいる。彼は込み上げてくる嘔吐感をぐっと堪えて、神社中を探し回った。だが建物の中に生きている人間は誰もいなかった。
 死体の群れの中に幾人か知っている顔を発見する。
 あれの家族と、そして――。
 思わず息が詰まった。
 これが星のさだめか。なんと酷で、激しいさだめなのだ。
 ――井が宿る星の下に生まれたというだけで……!
 流れるときや、運命と呼ばれるものが時にどれ程非情なものであるかを、彼は知っている。
 宿命は、あれから全てを奪うつもりだ。
 そう察した彼は神社を飛び出した。あれがいそうなところを重点的に捜索する。外は土砂降りの雨で、人通りは皆無に近かった。
 あれが通う高校の側まできた。近くに川が流れている。暴風に荒れ狂い、今にも溢れそうだ。向かい側の橋を渡ろうと足を向けた時、河川敷に何かの塊を見つけた。
 眼を凝らす。座ったまま動かない男と、その近くで倒れている男。
 遅かった。そう理解して、彼はゆっくりと河川敷に降りた。
 近くに歩み寄ってもあれは表情一つ変えず、茫然と倒れている男を眺めていた。
 既に壊れかけている。そんな人間に向かって、これから更に悲惨な事実を伝えなければならないのか。
 それが自分の星の宿命かと、彼は自嘲したくなった。
「芳准」
 呼んでも、宿命を背負う井の星の下に生まれた男は――芳准は顔を上げなかった。
 彼は芳准と向かい合い、しゃがみ込んで両肩を掴んだ。小さく何度か揺さぶり、意識をこちらに集中させる。
「芳准。聞け」
 虚ろな紅い眼が彼を捉える。左の瞳の色がやけに暗い。怪我をしたのか。
「おれ、」
 不意に芳准が口を開いた。
「おれ、おれ……が……。殺し……」
「違う」
 見てもいないのに断言をする。だが彼には確信があった。
 芳准の暗い色の瞳から、倒れている親友の体から、僅かではあるが邪気を感じる。芳准が手を下していない証拠だった。
「何者かの襲撃を受けただけだ」
「ちがう、」
「違わない」
「ちがう! 同じだ、どっちでも」
 怒鳴った芳准の眼に涙が滲む。
 結局は自分が殺してしまったのだと言いたいのだろう。力があるにも関わらず、守れなかったのだから。
 芳准の様子を見て、彼は事実を伝えることを躊躇した。
 言ってしまったら完全に壊れてしまうかもしれない。心の病にとりつかれて、廃人と化してしまうかもしれない。
 だがここで隠しても、家に帰れば全てが露見する。
 芳准はあの神社の子供なのだから。
「芳准……落ち着いて、落ち着いて聞くんだ。……お前の家が、何者かによって襲撃された」
 紅い眼が見開かれる。その先は聞きたくないと訴えるように。
 彼は芳准の肩に添えた手に力を込めた。己の無力さを、この僧侶も充分に味わっていた。
「家の人は」
「しんだの?」
 それは存外に無垢な声音だった。
 咄嗟に言い返せず、彼は黙って芳准を見やった。
「父さんは? 母さんは? ……睡蓮すいれん? ……」
 抑揚無く喋る芳准の声を聞く。口を挟める様子ではなかった。
 そして芳准はある可能性に気づいた。
「……香蘭?」
 即座に頷けるほど、彼は残忍ではなかった。かといって遠まわしに事実を述べる術も持ち合わせていなかった。
 黙って芳准の身体を引き寄せる。
 降り注ぐ雨が、正気を保てと訴えるように彼らの頬を叩いた。

 その日から、地獄での生活が始まった。














090106