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刻の断片(俊宇編3)

 


「しゅーんーうーくーん」
 間延びした呼びかけを無視して、俊宇は歩く速度を速めた。
 本日六回目、今週トータルで――いちいち数えていないから正確な数は把握していないが――百回以上声をかけられている。
「こっち向ーいてーなー」
 誰が向くかボケ茄子と心内で返し、再び足を速めようとした時――俊宇の後を追いながら声をかけていた人物が、急に泣きべそをかきはじめた。
「酷ッ! 俊宇君、俺というものがありながら他の女の所へ逃げるつもりやね!」
「なんじゃそれは!! 人聞き悪い上に気色悪いことぬかすなああああ!!」
 つい耐え切れなくなり、俊宇は振り返って絶叫してしまった。
 顔を両手で覆い、さめざめと泣いているふりをしていた男がにやりと笑んで顔を上げる。
「わー、俊宇君が振り向いてくれたー」
「…………よし。解った。殴らせろ」
「酷ッ! 俊宇君、よくこんな男前を殴るとか言えぶほっ!!」
 ここ一週間ほど自分につきまとっている少年の顎にアッパーカットを決めて、俊宇は小さく溜息を吐いた。
「なんやねん、一体」
「何って……見て解らん?」
 顎を押さえながら、少年が――攻児がとぼけた顔をして言い放った。
「解らん」
「俊宇君とお友達になりたいねん」
「嫌や。気色い。帰れ」
「嫌やないし気色ないし帰りません。ええ加減に諦めやって」
「なんで俺が諦めなあかんねん! 諦めるんはお前やろ」
「俺は諦められんもん。何せ、俺の恩師がお前に興味持ってしもうたからなあ」
 俊宇は眉を顰めて攻児を見上げた。
 ――恩師? 興味?
「なんやそれ……」
「おっ、興味持った?」
「ちゃうわ。ちょっと気になっただけじゃボケ」 
「ちょっとでもええがな。俺の恩師はなー、まだ若いんやけどやーさんに顔が利く人でな」
 俊宇は呆れ顔で顔を背けた。
 ヤクザに関わりがあるなんてろくな話ではない。俊宇は不良というものに多少の憧れはあるが、実際に暴走族だのに足を突っ込む気は更々なかった。そんなことをした日には家族にどんな仕打ちをされるか解ったものではない。彼の中では暴走族やヤクザよりも、母と姉達の方が強いのである。
「こらこら、別に悪いことしてるわけやないで。法律はちゃんと守ってるって。でな、その人が言うには、」
「俊宇!」
 攻児の声は悲鳴に掻き消された。
 何事かと振り返ると、姉の愛瞳が制服姿のまま必死の形相で走っていた。その様子を見てピンときた俊宇は姉の下へ駆け寄る。
「今日は何や」
「知らん、知らんおっちゃん」
「撒いてきたんか」
「うん……多分」
 姉にしては珍しく、幾分かか弱い声音で頷いた。
 肩で息をしている愛瞳の背中を擦ってやりながら、俊宇は辺りを見回した。怪しい人影は見当たらないが、直ぐに離れた方が良さそうだ。見つかると面倒なことになる。
「帰るで」
「あ、待って。あたし今日ご飯当番やから買い物いかんと」
「あー、ならついてくわ。今日の飯なに?」
「まだ決めてへんけど。俊宇、何食べたい?」
「肉」
「あのー! すみませんちょっとええですかっていうか聞いてくださいお願いします」
 完全に蚊帳の外に置かれていた攻児から懇願の声が漏れた。
 俊宇は鬱陶しげな視線を投げる。
「うっさいわ、ええ加減にせえって」
「いやいやいやいや。待ちなはれ。こちらの御婦人は?」
 尋ねられた愛瞳は瞬いたあと、弟を一瞥してから攻児に頭を下げた。
「これはどうも、うちの愚弟がお世話になっております」
「なんでやねん!!」
「ああ、お姉はんでっか。これはご丁寧にどうも、僕の方こそお世話になって」
「へんわ!! めっちゃ何気なく嘘吐くな!」
 素晴らしい反射神経で裏拳を入れつつ、俊宇は項垂れた。
 愛瞳がきょとんとした顔を向けて「お友達やないの?」と聞くので、深い溜息を盛大に吐いて告げた。
「こんな得体の知れんダチなんぞおらんわ。あえていうならストーカーや」
「酷ッ! こんな男前つかまえてストーカー言いはりますのん?!」
「違った。あえていうなら頭の可哀想なアホや。とにかく、ダチでもなんでもあらへんから気にすんな」
「酷ッ! お姉さんどういうことですか弟さんノリ悪すぎですよ関西人のくせに!」
「えらいすみませんねえ、そこは長年の課題なんですわ」
「姉ちゃん!」
 案外ノリのいい愛瞳に色んな意味で危険を感じた俊宇は、慌てて二人の間に入った。このまま意気投合されても困る。
 ――ちゅうか。
 攻児こいつが俺の能力ちからのこと知っとるって姉ちゃんに知られたら、殺される……。
「買い物行くんやろ、日が沈むまでに済ますで」
「うん。じゃあ、これで。こんなノリの悪い弟ですけど、よろしくしたってくださいね」
「勿論です、任せてください」
「誰が任されるか!」
 愛瞳を攻児から引き離しながらツッコミを入れる。
 和やかに会話する二人を意外に思いつつ、俊宇は攻児から逃れることに成功した。
 迷惑極まりないストーカーの姿が見えなくなったところで、ぽつりと姉に尋ねる。
「……大丈夫やったんか」
「うん。足踏んで逃げてきた」
「タマ蹴り飛ばしてやればええねん」
「そんな余裕ない」
 真顔で返されて俊宇は口篭った。
 よくあること、、、、、、とはいえ、やはり慣れることはないらしい。
 経験のない俊宇には姉の心境は想像もつかず、ただ押し黙るしかなかった。
 俊宇は女が苦手だ。五人も姉がいるのだから苦手であるわけがないだろうといつも言われるのだが、よく知っているからこそ苦手なのである。
 女は感情の起伏が激しい。いろんなものに感化されやすく、繊細で傷つき易いくせに芯は強くて、男よりもずっと賢い――と俊宇は思う。
 自分が姉達に敵わないからそう思うのかもしれない。けれど世の女性がみんな姉達と同じ『女』なのだと思うと、俊宇はとてもじゃないが対等に渡り合っていける自信などなかった。
 中学一年生の分際でそんな境地に陥ってどうするのだと自分でも思う。女は苦手であるが、もちろん興味がないわけではなかった。主に、内側ではなく外側への即物的な興味ではあったが。
 ――……最低。
 姉達の前で口に出したら殺される。そしてそんな姉達に囲まれて育った所為で、俊宇は女性に対する即物的な衝動や欲望というものを感じる度に、軽い自己嫌悪に陥る羽目になっていた。
 親戚の男連中は女性に対し欲情しない方が男としておかしいと言うし、本当のところをいうと俊宇だってそう思っているのだが、何故かそう思う度に申し訳ないとも思うのだ。
 実際に触れなくても頭の中で汚している。
 それは、誰だってしていることなのかもしれない。頭の中で留まっているのならそれは正常の範疇内に違いないのだ。
 解ってはいる。それでも生理的な嫌悪が付き纏う。
 何故そうなのか、、、、、も解っている。
 正常の範疇から逸脱した男たちが、姉を困らせているからだ。
「俊宇」
「あ?」
「晩御飯、何がええ? ハンバーグ?」
「んー……中華がええ。豚バラ煮込み」
「なら、塊買わんとね。夕方セールで安いかも」
「……姉ちゃん」
「んー?」
「ほんまに大丈夫か」
 愛瞳は答えなかった。
 黙って姉の手を引き、歩く速度を速める。
 握り締めた愛瞳の指先が、微かに震えていた。



 ***



「あ、あたしが」
 あたしがやったん――。
 そう続けた姉を俊宇は茫然と見つめた。
 顔面蒼白になった母親が姉の元に歩み寄り、容赦なく平手を放つ。
「なんてことしたの、あんたは……!」
 姉は歯を食い縛り、目尻に溜めた涙を必死に堪えて、への字に歪んだ口から声を出した。
「ごめんなさい」
 そう続けた姉を俊宇は茫然と見つめた。
 見つめることしか出来なかった。
 ごめんなさい、と繰り返す姉の背中は大きくて、握り締めていた拳は力強くて。
 それでも姉は――愛瞳は、泣きそうで――。 
 俊宇は燃え盛る自宅の前に座り込んだ。何も考えられなくて、只管に地面を見つめた。
 アスファルトからよじ登ってきた蟻が膝に居座る。俊宇は蟻が動き回る様をじっと眺めた。
 再びパンと乾いた音が辺りに響いて、俊宇は眼を瞑った。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 悲痛な声が耳を貫いてゆく。
 渇ききった口は何の音も漏らしてくれず、結局事が収まるまで俊宇は沈黙していた。
 
 悔恨の気持ちだけで死ねると思ったのは、それから何年か経ったあとのことだった。
 






















090308