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刻の断片(俊宇編6)




 ――ああ、せやった。
 本当はわかっていた。
 わかっていて、気づかないふりをしていた。
 そうしていれば認めずにいられる。
 現実を、事実を――自分を。


 
 炎が神社全体に燃え広がるのに、そう長い時間はかからなかった。
 燃え盛る柱や壁が室温を上昇させ、飛び散る火の粉が更に延焼範囲を広げていく。
 ――くそっ!
 止まれ止まれ止まれ止まれ!!
 俊宇は片手の手首を握り、両腕ごと床に叩き付けた。だが炎は、焦る少年を嘲笑うかのように絶えず溢れ出てくる。
 それはまるで渇きを知らぬ泉のように。
「っ……攻児!」
「おう」
「姉ちゃん連れて、逃げ! 早く!」
 一拍の間を置いて、攻児が「わかった」と頷いた。
 自分より二つばかり年上らしいこの少年は、こんな状況でも平静を保っている。もしかしたら本当に恐ろしい奴なのかもしれない、と頭の中の冷めた部分が暢気な感想を抱いた。
「俊宇!」
 愛瞳の叫び声が響いた。
「あんたも、あんたも早く、」
「さっさと逃げろや! 俺は大丈夫やから」
 俊宇は振り向かずに答えた。
 せやけど、と涙声を放った愛瞳の肩を、攻児が掴む。
「いこう。そろそろマジであかんわ、ここ」
「で、でも、俊宇が――大丈夫やなんて、嘘や、あの子」
「煙も出てきよったし、逃げた方がええ。今ここであんたに何かあったら、一生後悔するんはあいつなんやで」
「っ……そんな、」
「おい、俊宇!」
 愛瞳の声を遮って、攻児が怒鳴った。
 真っ直ぐな眼が俊宇を捕える。
「……お前を信じる」
 ――えっ……。
 思わず顔を上げる。だが、視線の先にもう二人はいなかった。
 ――信……じる……?
 何を。一体、俺の何を?
 『大丈夫』なんて嘘だ。確信なんて何一つ持ち合わせていない。絶え間なく沸き出でる炎を止める術など、俊宇には欠片も思いつかなかった。
 ――……それでも。
 犠牲が――自分だけで、済むのなら。
 俊宇は唇を噛んだ。
 腕をまくり、皮膚に浮き出た『字』を睨む。
 翼。
 ――何がっ……!
 猛烈な怒りが体の底から湧き上がった。
 翼がなんだ、字がなんだ、力がなんだ――?!
 どれも俊宇の心を乱すだけで、何の役にも立ちはしなかった。コントロールの効かない力は度々暴れだし、嬉々として彼の周囲にあるものを燃やした。
 あれは確か、小学二年生くらいの頃――気づいた時には、家が燃えていた。家族の問いに対し何の答えも口に出せなかった俊宇を、愛瞳が庇った。あたしがやったんやと言って、母に頬を打たれていた。俊宇はその光景をまるで他人事のように眺めた。
 ――姉ちゃん。
 今でもあの時の火事は、愛瞳の火遊びによる出火ということになっている。
 姉は俊宇の能力を知っても怖がらなかった。いつだって――危ない時や困っている時は、助けてくれたり庇ってくれたりした。
 ぎりっと歯を食い縛る。
「っ……おれ……は……」
 ああ、そうだ。
 いつだって、守っているつもりでいた。
 だがそうじゃない。
 いつだって、守られていたのだ。
 年長者としての責任感がそうさせたのか。それとも、姉の眼には弟が余程情けない姿で映っていたから、なのか。
 理由はどうあれ――俊宇はいつだって守られていた。
「くそッ! ……畜生っ」
 どうして、どうして俺はいつも。
 どうして、この力は――……!
 ――何かを傷つけるだけなんや!?
 俊宇は膝を落とし、再び両腕を床に叩き付けた。
「なんでや……! なんで止まらんのや!」
「それはな」
 不意に真上から、体に響き渡る低い声が聞こえた。
 俯いた眼がいつの間にか現れた黒い革靴を捉える。
 声は言った。
「弱いからや」
 俊宇は俯いたまま、黒い革靴をじっと見つめた。何故か顔を上げることができなかった。
 派手な音を立てて側に設置されていた祭壇が崩れ落ちる。
 声は続けて言った。
「もう一度言おうか」
 震える手を握り締める。
 喉が痛い。
「お前が弱いからや」
 ――俺が。
 弱い。
「力を抑えられんのも、その所為で誰かを傷つけてしまうのも、更にその所為で自分が傷つく羽目に陥るんも――全部お前が弱いからや。こんなことに巻き込まれるのも、お前の姉貴が泣いとるのも、みんなお前が弱い所為や。解るか?」
 頭が真っ白になる。
 何も考えられない。
 ただ――体の中に蔓延っている熱が緩々と引いていくのを感じていた。
 ――おれは。
「お前は弱い」
「おれは」
 反射的に返した。
 声は構わずに続けた。
「お前の力は、確かにまともなもんやないかもしれん。世間の理解を得辛いことかもしれん。せやけど、それがお前に一体何の関係があるんや」
 ――え?
「お前はお前やろ。他人は他人や。なして他人様の価値観の中でお前が生きなあかんねん。お前の価値観も、人生も、命も、みんなお前のもんや。他の誰かにくれてやるもんやない」
 俊宇は静かに顔を上げた。
 目尻から雫が零れて、ようやく自分が泣いていたことに気づいた。
「お前はお前のもんや。お前を創るのは、お前なんや。せやから――好きにしたらええねん」
 俊宇は茫然と、眼前に立ち尽くして自分を見下ろす男を眺めた。
 上下白のスーツにダークグレイのシャツと、肩にかかった光沢のあるストール。
 後ろで一つに纏めた長髪と、精悍とした顔つき。睨みつけるだけで人を射殺せそうな、鋭い眼。
 眼が合った瞬間、男は口端を上げた。
「どうや? ガキ。もしお前が自分を強く創りたいと思っとるんやったら――俺が手を貸してもええで」
 ――強く。
 弱い俺が、強く。
 俊宇は拳を握った。
 ――何を。
 何を迷うことがあるんや。
 俺を『創る』のが俺やったら、今の俺を変えることができるんやったら。
 瞳に炎が蘇る。
 それは欲求の炎。どこまでも求め続けようとする、強者の印。
 俊宇は男の眼を見て、言った。
「お願いします……!」
 何秒か沈黙が続いたあとに、男が笑った。
 俊宇はその様子を呆然と眺めた。
 神社を纏っていた炎は、いつの間にか消えていた。



 ***



 街中にある公園のベンチに座っていた少年たちは、冷たい冬風を浴びながら過去の記憶に浸っていた。
「懐かしい話やねえ」
 煙草を咥えながらしみじみと攻児が唸る。
 本当に懐かしい話だと、俊宇は――否、『幻狼』は思った。二年前の『あの時』に出会った男につけて貰った名前だ。
 男は小さい会社の代表取締役で――ヤのつく職業のように見えるが、その筋の人間ではないらしい(攻児の言葉を借りれば『ヤーさんに限りなく近いパンピー』)――名を魄狼といった。趣味で不良や訳ありの子供などの面倒を見ているらしく、攻児から『炎を生み出せるガキがいる』と報告を受けて幻狼に興味を持ったのだという。
 魄狼は幻狼を拾ったものの何をするでもなく、また幻狼に向かって何をしろとも言わなかった。ただそこに在ることを許してくれる――それだけで幻狼の心は幾分か軽くなった。
 力のコントロールは相変わらず効かないが、それでも感情に任せて暴走するようなことはなくなった。
 焦りが消えたからだと、幻狼は思う。この力に対する焦燥が――。
「それでお前、家族に許可貰ろうたんか?」
「おう。家賃以外の仕送りなしって条件でな」
 中学三年生になった春、魄狼に呼び出されて唐突に言われた。
『幻狼。東京の高校に行け』
 命令されたのは初めてだった。
 なんでですかと尋ねると、魄狼はにやりと微笑んでこう言った。
『その方がおもろいからに決まっとるやないか』
 返す言葉もなかった。
「まさかお前と東京で暮らすことになるとはなあ」
「それは俺の台詞や」
 けらけら笑う攻児に向かって、幻狼はケッと悪態を吐いた。
 魄狼の提案により、二人は上京先で同居することになったのだ。
 幻狼はちらりと攻児を見やった。
「ちゅうかお前はどうやったんや? 家族の許可」
「俺は家族おらんから」
 ――え?
 初めて聞いた、そんなこと。
 怪訝な顔つきで見つめると、攻児は軽く肩を竦めた。
「ま、追々な。……あ、愛瞳ちゃーん」
 人影に気づいた攻児が手を振る。
 後方から制服姿の愛瞳が姿を現した。
「ああ、攻児君。こんにちは」
「ども。幻狼、寒なってきたからなんか飲みもんでも買うてくるわ。愛瞳ちゃん、ココアでええ?」
「うん。おおきに」
 じゃ、と攻児が道を渡り人込みに紛れていく。
 空いた幻狼の横に愛瞳が座った。
「今日は平気やったんか」
 いつもの問いを口にする。
 愛瞳は白い手に息を吹きかけながら「うん」と頷いた。
「平気やよ」
「さよか」
 愛瞳の絶望的なまでの男運の悪さは、二年前と変わらない。
 春から上京したら――。
 ――守ってやれへん。
 それだけが心残りだった。
「今日は何なん? どっか遊び行くん?」
「あー……、おう」
 呼び出したのは、この時期を逃せばもうまともに愛瞳と会話をする機会がないと思ったからだ。
 東京に出る前に、離れてしまう前に――幻狼にはどうしても姉に聞きたいことがあった。
「姉ちゃん」
「んー?」
「……なして庇ったん」
「え?」
「あの時……小学生の時、俺が……家に火ぃつけてしもうた時。姉ちゃん、俺のこと庇ったやろ。なして?」
 今までずっと心に引っ掛かっていた。
 母に怒られてまで弟を庇う理由なんて、姉にはなかったはずなのに。
「それは……」
 それは――?
「あんたがチビりそうな顔してたからや」
「っ……」
 なんやねんそれは、との言葉を呑み込んだ。
 何だって真実というものは、その程度のものなのかもしれない。
 誰かが誰かを守る理由なんて、そんな――。
「それより、俊宇」
「あ?」
「……ほんまに、行くの」
 顔を上げた愛瞳と眼が合う。
 不規則に揺れた瞳が姉の心中を如実に表していた。
 時折見せる彼女の弱さが――幻狼は、嫌いじゃない。
「あんたおらんかったら、……あたし……は」
 ――姉ちゃん。
 守ってやりたい。守ってやりたい、けど。
 だけど、だけど……。
「……なーんてね」
 ――へ?
 幻狼はぽかんとした顔を晒して、顔を背けた姉を見やった。
「冗談や、冗談。あんたみたいな出来の悪い弟は東京でもどこでも勝手に行ったらええねん。せやから、すぐ帰ってくるんやないで。絶対やからな!」
 姉ちゃん――。
 頭が何か考え始めるより先に、体が動き出す。
「っ! 俊――」
 幻狼は愛瞳の頭を抱えて、引き寄せた。
「……すまん」
「……何が」
「これから、守ってやれんから」
「……アホ。姉離れのええ機会やろ、シスコン」
「な、何抜かしとんねん、アホ」
 くすっと愛瞳が笑った。
「……あたしの方こそごめん、俊宇」
「あ?」
「ちゃんと……これからは、自分の身は、自分で守るようにするから。あんたなんかおらんくても、大丈夫になるから……だから、だから……っ」
 あんたも、背負い込むんやないよ――。
 そう続けて、愛瞳は幻狼の肩に顔を押し付けた。
 僅かに震えた姉の肩を、大事に、大事に抱く。
「姉ちゃん、ごめん。……おおきに」
 今まで、ほんまに。
 ほんまに、おおきに――。
 身を切り裂くような冬風が身体に染みる。吐く息が白い。
 愛瞳の手が背中に回った。
「……弟やなかったら、良かったのに」
 聞き取れないくらいの小さな声で姉が呟く。
 幻狼は言ってやった。
「ドアホ。姉貴やなかったら助けてへんわ」
「……っ」
 あはははは!――と、腕の中にいる愛瞳が声をあげて笑った。目尻に溜まった涙を拭って、弟に笑顔を向ける。
 それは、とても華やかで、晴れやかな笑顔だった。
「うん。せやね」
 釣られて幻狼も笑う。
 姉と弟は互いの頭を撫で合い、そして大いに笑い合った。
 長く続いた、霧がようやく晴れた――。
 そんな気がした。










 

 END


 
 090725