Wheel of Fortune 〜運命の輪〜
3
軽く念じるだけで、身体から炎を生み出すことができる。
そんな特異体質を持って生まれてきて十六年の翼宿だが、狐狸妖怪、心霊現象の類は全くと言っていいほど信じていなかった。
妙な力は持っていても、妙な存在を目撃することはなかったからだ。
目に見えないものは信じない、信じることができない。知覚、認識できないなら、例え在るのだとしてもそんなものはいないのと同義だ。
だが翼宿は先日、妙な存在を見た。
忘れもしない、あれは一週間ほど前のこと――己と同じ字を持つ仲間と出会った日。
その仲間が退治していた、黒い物体。
――人の心の……悪いもんとかゆうてたな。
ちゅうかそんなもん、狐狸妖怪や幽霊なんかよりもよっぽど性質が悪いんとちゃうか――などと思いながら、翼宿は溜息を吐いた。
ここ最近、妙な出来事に日常が汚染されている気がする。
「どないしたんや」
平日の夜、夕食を終えて居間でくつろいでいた翼宿に向かって、同居人である攻児が話しかける。
今年の春に大阪から上京してきた二人は、魄狼の命令――もとい提案により、マンションの一室を借りルームシェアをしながら暮らしている。都心の駅前近くで2LDK、しかも日当たり良好という高校生二人が住むには贅沢すぎる部屋だが、マンション自体が魄狼の持ち物件であり資金面に関しては彼に一任している為、金銭的に問題はなかった。
翼宿は当初、家賃は自分で支払うつもりでいたのだが、魄狼に「出世払いでええ」と断られてしまった。なので家賃代として送金されてくる実家からの仕送りはとりあえず貯金し、アルバイトで稼いでいる生活費が足りなくなった時に限り失敬させてもらうことにした。
「なんか……最近、誰かに見られとる気がするんや。登校中とか、バイト帰りとか……変な視線を感じるっちゅうか、誰かにつけられとる感じがして」
「ストーカーやないか」
「んなアホな。……ちゅうか、まともに返事する気ないやろ」
アロエヨーグルトのカップを片手に、テーブルに広げた参考書を恐ろしい速さで読み進めていた同居人に向かってツッコミを入れる。
攻児は悪びれもなく「うん」と即答した。
「ちゅうかお前、ちゃんと勉強しとるんやな」
攻児は上京につき、通っていた大阪の進学校から都内の私立高校に編入した。まだ進路は確定していないようだが、三年生の今年は受験生でもある。
頭が良いのは以前から重々承知していたが、これほど真面目に勉学に取り組んでいたことを知ったのは一緒に暮らすようになってからだ。翼宿は素直に感心した。
「当たり前やろ。やらんで出来るほど天才やないし」
「いや、なんていうか家で勉強できること自体が凄いっちゅうか」
「そりゃあ……俺は社長に世話になっとる身やからな。通わせて貰ってるんやから、期待には答えへんと。ちゅうかお前、知っとるか? 子供の養育費って全部ひとつ残らず合わせたら2、3千万はかかるんやで。それを考えたら勉強を怠けるなんてでけへんやろ」
「うっ……!」
親や家族の存在の有り難味は、上京してきてから翼宿も深く感じている。
学費を払ってもらっている分際で学生の本分をまっとうしないのは、親不孝といえる――かもしれない。
「って、っちゅうかお前、ほんまに全部社長に世話になっとるのか? 衣食住全部?」
参考書から眼を離して顔を上げた攻児は答える代わりに、にへら、と笑った。
本当に衣食住の全てを魄狼の世話になっているらしい。
攻児と知り合ってほぼ三年、初めて知った事実に翼宿は愕然とした。
「えっ……お前、家族は?」
尋ねた瞬間、翼宿はしまったと思った。
東京に来る前に攻児が言っていたことを思い出したからだ。
家族はいない、と。
「あー。うーん。……小六まで、妹と親父と暮らしてたんやけど、みんな死んでな。施設行きになるところを、ふらふらしとったら社長に拾われたんや」
「あ……せやったんか、」
「うん。まあ、嘘やけど」
「嘘かい!!」
勢い良くツッコミを入れると、攻児はけらけらと笑った。
「親父は生きとるで。刑務所に入っとるけど、殺人未遂で」
「嘘やろ」
「うん」
「お前なあ……っ」
呆れながら「もうええわ」と返して、翼宿はそっぽを向いた。
後に、攻児から家族についてこう言われたけど嘘なんですよね、と魄狼に告げたら「いや、それ嘘やのうて本当はマジで全部ホンマやで」と言われて翼宿はぶったまげることになるのだが、それはまた別の話である。
翌日、いつも通り登校し、授業を終え、バイト先に直行し、仕事を終えて帰宅しようとした翼宿だったが――。
――またかいな……。
ここ最近、いつも感じる――誰かの視線。
否、何らかの気配と言い換えた方がいいだろうか。
一体自分に何の用があるのか。
「とっ捕まえて聞き出したろか……」
幾分据わった目つきで物騒なことを考える。
自分を執拗に追う何者かの気配――鬱陶しいと感じない方がおかしい。
――あ?
不意に、気配が大きくなった。
背後に何者かが立っている。
そう感じた翼宿は後ろを振り向き、ぎらりと眼を光らせて対象物を睨み上げた。
「おい、お前一体どういう了見で俺につきまとって……っ?!」
背後に何者かが立っている――そう思って振り返った先には、確かに何者かがいた。
だがそれは人ではなく、黒い大きな塊だった。
――これは……っ。
この間に見た、黒い物体――?
だが以前に見たものよりも遥かに大きい。まるで壁のように道路に立ち塞がっている。
物体の縁はエイや平目の鰭のようにうねうねと忙しく動いていて、翼宿は眉を顰めた。
「気色悪っ……! なんやこれ」
前に見たものの仲間だろうか――そう考えた時、突然、黒い物体の中から黒い手のようなものがにゅっと翼宿に向かって伸びてきた。
やばい、と本能で察した翼宿は素早い身のこなしで、黒い手から逃れる。
「くそっ」
――人間やないんやったら……容赦せんで!
考えるよりも先に身体が動く。
翼宿は右手で拳を作ると、炎が生まれるよう念じた。
「いけぇ!」
握った拳を黒い物体に向かって突き出す。
全身から溢れ出た炎が黒い物体を包み込んだ。
「……やったか……?」
――ちゅうか……これって……。
夜、路上でこんなに炎が舞い上がっていたら、確実に人が寄って来るのでは――というか。
――確実に俺、放火犯決定やん?!
実際その通りなのだが、好きで放火したわけではないので捕まるのは御免だ。
「あかん……どないしよ」
これだから、能力なんてものは――。
何度悪態をついても足りるということはない。
強くなる、受け入れる。
そう誓ったけれど。
――いつまでも、このままやったら……。
いつまでも操れぬまま、このまま暴れられてしまったら――。
そう考えると苦しくて堪らない。
――俺は……。
ばちん――と不意に、何かが大きく弾ける音がした。
顔を上げて見やると、いつの間にか炎は消え、黒い物体に何枚かのお札のようなものが星の形――五芒星の形を模り、張り付いていた。
――あれは……。
「こんばんは」
「うわっ」
気づくと、視界の端に人間が立っていて驚いた。
ゆったりとしたパーカーに濃い色のジーンズ――長い前髪により顔の半分が隠れている男。
「お前、井宿?! な、なしてここに」
それは先日に初めて会った仲間の一人だった。
井宿は小さく会釈すると、「すまない」と告げた。
「ここ数日、君をつけていたんだ」
「はあ?!」
「出来うる限りの範囲で、だけど。君があれに狙われている可能性があったから」
言いながら黒い物体に視線を向ける。
札を貼られた彼は、動きたくても動けないといった様子で僅かに揺れていた。
「えっ……俺が? っちゅうか、なんやねんあいつ」
「なんて言ったらいいのか……。前にも言ったけど、膿としか言いようがない」
「うみ? ……うみは広いな大きいな」
「それは『海』。あれは、人が産み出した悪意の塊のようなものだ。意志はないが、放っておくと絶えず増殖し続ける。増える為に人にとり憑くこともある。ここ数日、君も気配を感じていたかもしれないけれど、多分君を狙っていたんだ。力のある術者にとり憑けば増殖も容易い、……!」
ばりん、とガラスが割れるような音が夜道に響く。
黒い物体に張られていた札が粉々になって消え去った。
再び、嫌な気配が身体を通り過ぎていく。
「縛を破ったか……」
独り言を呟いた井宿が、胸の前で印を組んだ。口から呪文が漏れだした時――翼宿は「待て」と叫んだ。
「待て、待てや。俺にやらせろ」
「え?」
「俺に倒させろゆうてんのや! 俺に売られた喧嘩や、俺が片つけたる」
「え、いや……そ、そういう問題では、」
「せやけど、コントロールが効かへんからさっきみたいになってしまうかもしれへん。そん時はよろしゅう頼むわ」
井宿は短い沈黙を挟み、「解った」と返した。
「でもその前に、一つアドバイスさせてもらってもいいかな」
「へ?」
「力を放出する時は、対象物を頭に思い描いて集中すること。それと能力に対して、主人は自分なんだと解らせることが重要だ。せめて対等にまで持っていかないと、この先も能力に振り回され続けると思う」
――能力に対して……?
「つまり……今の俺は、この能力にめちゃくちゃ見下されとるゆうことか?」
「……そうとも言えるかもしれない」
――なんやとお?
くそっ!、と心中で吐き捨てる。
強くなると決めた。自分の為に、そして俺が強くなると信じてくれた人の為に。
蠢く黒い物体を見据える。
――頭ん中に、思い描いて集中する。
拳を胸の前に置き、翼宿は眼を瞑った。
――ええか、このアホ力。
お前の主は俺や。誰が何と言おうと、この俺や。
せやから――。
「っ……言うこときかんかい!」
言葉と共に、拳に炎が纏わりつく。
黒い手を伸ばしてきた物体に向かい、翼宿は拳を繰り出した。
「でやあああっ!」
拳から勢い良く放たれた炎は、黒い物体のど真ん中を貫いた。瞬時に炎が全体に行き渡り、物体は悲壮な音を立てて燃えていく。
うおおおうおおおうおおおうううう。
漏れた断末魔は消えゆく炎と共に途切れ、黒い物体共々無くなった。
異物が去った夜の路地に静寂が蘇る。
翼宿は呆然と宙を見つめた。
「……初めて……コントロールできた……」
信じられない。今まであんなに苦心してきたのに。
「凄いな。とても筋がいいよ、気をつけるだけでこれだけ出来るんだから。後は数をこなせば思い通りに力を扱えるようになると思うよ」
「っほんまか?! よっしゃあーっ!!」
会心のガッツポーズを決め、翼宿は喜んだ。
生まれてきてから今まで、長い間苦しんできた。この能力のことを憎み、恨んだ時もあった。
受け入れる覚悟をし、その為に強くなると決意して――今日やっと、初めて大きな壁を乗り越えることができたように思う。
翼宿は振り返って井宿を見やった。
「おおきに! あんたのお陰や、ほんまおおきに」
「えっ……いや、」
「あ!」
「え?」
突如叫んだ翼宿は、手を合わせて井宿に近寄った。
――ええこと思いついた……!
「なあ、あんた、いつもあないなのと闘っとるのか?」
「ああ、そういう仕事をしているから……副業だけど」
「それ、俺にも手伝わせてくれへんか?」
「えっ?」
「報酬とかそないなものはええから! 俺、早うこの力に慣れたいんや。あんたに教わるのが一番早そうやし。なあ、頼む、この通り!」
手を合わせて頭を下げる。
『伝説』に関する仲間との、早すぎる出会い。
それに意味があるのなら――せめて、有効に使ってやろうじゃないか。
井宿は小さく笑った。
「……なるほど」
「え?」
「いや。……構わないよ、俺で良ければ」
「ほんまか?! よっしゃ、おおきに!」
翼宿は明るく笑った。
一気に道が拓けた――そんな気がする。
身体も心も幾分か軽い。
何より未来に対して、明るい展望を抱ける――そのこと自体が、翼宿にとっては奇跡に近かった。
人は人との出会いによって変わるというけれど、正にその通りだ。
攻児、魄狼、そして井宿。
彼らとの出会いは翼宿にとってプラスに働きつつある。
その事実が心底嬉しいと翼宿は思った。
「井宿、改めてよろしゅうな!」
笑顔で告げると、井宿は数瞬の間の後にぷっと笑った。
「こちらこそ、よろしく」
返されたのは、柔らかい笑顔。
前にも見た、暖かいけれど暗い重さを抱えた空気。
ああ、こいつも何かに苦しんでいるのかもしれない――。
翼宿がそう気づくのは、まだ先のことである。
回りだした運命の輪。
絡み合う糸の行方は、誰も知らない。
END
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