月夜と戯言
満開に咲いた花は、もう散るしかない。
だが散った花弁は土に触れ、地に侵食されることで新たな植物を育てる栄養源になり、世の循環に貢献する。
満開に咲いた花は、もう散るしかない。
それでもまだ――咲かし足りない花がある。
月夜と戯言
「何だと?」
碁盤を挟み向かい合っている男を見やって、桓旺は眉を顰めた。
黒い碁石を弄りながら杯を仰いでいるこの山の主が、愉快気に相手を見返す。
「聞こえへんかったんならもう一度言うで。『幻狼と攻児が徒嬰山に行った』っちゅうたんや」
「何の為に」
「奪われた巻物を取り返す為に」
「巻物って……クソ昔に徒嬰の連中に奪われたやつか? あの――」
「せや。あの、肉まんの作り方が書いてあるやつ」
「……あいつら中身知ってんのか」
「いや」
頭の即答を耳に入れて桓旺は頭を抱えた。予想通りの返答ではあるが、これほど当たっても全く嬉しくない予想があるだろうか。
いや、それよりも――。
桓旺はじろりと男を――この山の主でありこの山を支配する山賊の頭である魄狼を睨み上げた。
「……つまりお前がけしかけたんだな?」
「そうとも言うかもしれんな」
「何考えてんだ。徒嬰の連中はともかく、あの山へ至る山道は険しい上に魔物が」
「それがどないしたんや」
ぱちん、と碁石が盤上に乗る。
一目見て一気に形勢逆転されたことに気づいたが、桓旺は動じずに話を続けた。
「……あいつらには荷が重いだろ」
攻児はこの山に入ってもう五年ほどになるが、幻狼に至ってはまだ数ヶ月しか経っていない。二人ともまだ十代だ。大の大人でも少人数、武器なしでは決して近寄らない山道に、子供二人だけで立ち向かわせるなんて無謀にも程がある――と桓旺は思うのだが、向かい側の男はそうではないらしい。
魄狼は桓旺を見やると、ハッ、と鼻で笑った。
――野郎……。
「せやからお前には言わんかったんや。言うてたら止めてたやろ」
「当たり前だ」
「何が当たり前や。それにあいつらやなくて攻児やろ。ええ加減にせえよ、いつまでも子供庇ってどないすんねん」
「どうって」
「強くなりたいと願って行動しとるんは、あいつの意志や。お前にそれを邪魔する権利があるとでも思うとんのか」
――それは……。
白い碁石を手にし、桓旺は沈黙した。
強くなろうとしているのは解る。実際、強くなってきている。だが桓旺に言わせればまだまだ子供だ。一対一なら本気を出さずとも軽く捻り潰せる。
――それに攻児は……。
昔からそうだ。攻児は好んで無茶をすることがある。体に傷を作って帰って来ても意に介さないところがある――それを見た人間がどう思うかなど意識もせずに。
だから攻児が危険な目に遭っていると、桓旺はつい手が出てしまうのだ。魄狼曰く『女子供に弱くて山賊とは思えんほど心の優しい』彼は、子供が血を流している姿など眼に入れたくなかったのである。
「カン。お前、自分が今の攻児くらいの時、自分を子供扱いする大人を見てどう思った?」
「……死ねって思った」
「せやろ。あいつやってきっと相当うざがってると思うで」
それはそうかもしれないが――。
もっと小さかった頃を知っているだけあって、攻児に鬱陶しがられるというのはなかなか衝撃的なことだ。まるで反抗期の息子に戸惑う父親の心境である。
ふ、と酒を飲んでいた魄狼が笑った。
「子供言うなら、幻狼の方がもっとガキやろうに。なして攻児に過剰反応するんやろうなお前は」
「過剰っていうな。あいつのことは今の幻狼りも餓鬼の頃から知ってんだぞ。仕方ねえだろ」
ぱちん、と白の碁石を盤上に置く。まだ敗北が確定したわけではない。
「それに……あいつは、お前や至t山の為なら死も厭わないだろ」
恐らく、そこが幻狼と徹底的に違う一点だ。
攻児は好んで無茶をする。それは――いつ死んでも構わないと、心の底で、しかも本気で思っているからだ。
魄狼が死ねと命じれば彼は喜んで死を選ぶだろうし、魄狼や至t山を守る為だったら同じく喜んでその身を捧げる筈だ。
彼はこの世の何よりも魄狼を信望しているから。
「今は、な。……やけどきっと、幻狼が変えてくれる」
――え?
ぱちんと黒の碁石が盤上に乗る。これでまた追い詰められた――頭の片隅でそう思いながら、桓旺は魄狼を見やった。
「同年代の人間を認めたんは初めてやろ、あいつ。これから二人で切磋琢磨したら……相当化けるで、あいつら」
愉快気に――そう、とても楽しそうに。
魄狼は優しい眼差しで碁盤を見つめていた。
「夢も希望も可能性も――あらゆるもんを仰山持っとる幻狼が、攻児を導いてくれる筈や。幻狼が死ぬほど持っとる選択肢が攻児を救ってくれる」
幻狼という少年が持つ輝きが、人間性が、未来が。
恐らく攻児を助け、守ってくれる筈だ。
攻児にないものを沢山持っている幻狼が、彼を――。
「しかしまあ、そう考えると――駄目な大人達やなあ、俺らは」
苦笑しながら魄狼は自分の杯に酒を注いだ。
窓から入る月明かりが男の顔を照らす。
桓旺はその顔をじっと眺めた。
――……また……。
一段と、青白くなっている。
「拾ったはええものの、育て方わからんからろくなことしてやれんかったしな」
「……でも、一番初めにあいつの世界を変えたのはお前だろう」
あの時、魄狼が手を差し伸べていなければ――きっと。
きっとあの子供は、今頃。
ああ、と魄狼が頷く。
「せやけど、本当の意味であいつの世界を変えるのは俺やない。でも……今となっては、ほんまにそれで良かったと思うで」
「……なんでだよ」
碁盤を見つめながら問う。勝利への道筋が見えない。
「俺は最後まで面倒見てやれんからな」
桓旺は黙って腕を組んだ。
この山のどれくらいの人間が今の魄狼の状態を認識出来ているだろうか。
医者に診て貰っても魄狼は何も言わないから、正確なところは幹部でさえも把握していない。ただ、既に楽観できる段階とは程遠い状態にある、ということぐらいは感じ取っていた。
「せやから――幻狼にはほんまに感謝しとるんや。最後の最後でもう一つ、夢を見ることができる」
「……ふざけんな」
桓旺は散々迷った挙句、懐に突き込む一手を繰り出した。白い碁石がぱちんと響いて碁盤に居座る。
「残された連中はどうすんだよ」
「そんなん知らんわ」
ははっと魄狼は笑って碁石を弾いた。
「代が変わるゆうことは、組織自体が別モンになるゆうことや。新体制を受け入れんのも拒むのも皆の勝手や、山に残るか降りるかは其々が決めることやろ。好きにしたらええねん。お前やってそうや」
魄狼の眼が鋭く桓旺を射る。
病に侵されていてもこの男の眼光は揺ぎ無い。
「俺は『至t山の頭』としての心構えを全てあいつに託すつもりや。それでもあいつの統治に納得がいかんかったら――いつでも出て行け。この山は人を縛り付けるようなところやない。それに……気にしとるんやろ。故郷のこと」
「……してはいるが」
「せやったら」
「俺はお前以外の人間に跪こうとは思わない」
例え魄狼が死んで、頭が代替わりしても――その代替わりした頭が攻児であろうと幻狼であろうと、仕える気は桓旺にはなかった。
己の君主は魄狼ただ一人であり、それ以外の人間に頭を垂れるつもりなど更々ない。
支配されてもいいと、思った人間はこの男だけだったから。
「……だが、果てるなら至t山がいい」
例えそこにお前がいなくても。
ふ、と魄狼が笑う。
「奇特な奴やな、お前も」
ぱちん――鮮やかな一手に急所を突かれる。
完全敗北を悟って、桓旺は煙管に手を伸ばした。煙草盆の炭火に雁首を近づけて火を点ける。
――まだまだ衰えちゃいねえじゃねえか。
だが人はいとも簡単に逝ってしまうものなのだということを桓旺は知っている。
病を患っている魄狼よりも先に自分が逝く可能性だってあるのだ。
死の可能性は万人に対して平等である。天災であれ人災であれ、それは変わらない。
「……魄狼」
「なんや」
「死ぬなよ」
まだ寝込むほどの病状じゃない。だからこそ言える――そんな身勝手な台詞を。
至t山の頭は気風良く杯の酒を飲み干すと、静かに言った。
「努力する」
その一言だけで、馬鹿みたいに哀しいほど安心できる。
やはりこの男はあらゆる意味でこの山の頂点なのだと、桓旺は思い知った。
091127