赤い星の空―番外編―
記念日に疎い自分がその日に気づいたのは奇跡に近いと思う。
昔は家族や友人の誕生日が自分のことのように嬉しくて、みんなの笑顔が見たい一心で色んなサプライズやプレゼントを考えるのが楽しかった。だが何もかも失くしてしまってから、俺は自分の中から記念日というものを消し去ってしまった。誕生日も元旦もクリスマスもない。どうせ一人なのだから、祝っても仕方ないと思ったのだ。記念日とは誰かとその日の意味を分かち合う日だから。
沢山の友人を得た今でも六年間続いた孤独時代の影響は色濃く残っていて、誰かに祝福される、あるいは誰かを祝福するということに対して俺は非常に頓着がなかった。だからふと今月のカレンダーを眺めていて、その日のことに気づいた時は自分でも本当に驚いた。仲間内で誕生日ラッシュが続いているから気づきやすかったのかもしれないけれど、正確な日付までちゃんと記憶していたなんて思わなかった。
多分、彼が特別な存在だから――と脳内で出した答えを消去する。特別といえばここ一年で得た友人たちはみんな特別だし、対等に価値ある存在だと思っている。彼一人が特別だなんて、そんなわけは――。
――あるのか。
相手は恋人なのだから、友人たちとは少し違う。彼らには見せない顔を、俺も彼も多分お互いに見せている。そういう意味でやはり彼は特別なのだろう。
気づいてしまったからには何かプレゼントを用意しなければと思い、街に出かけた。今時の男子高校生というのは一体何を欲しがっているのだろうと考えながら、あてもなくぶらぶらと歩く。だが幾ら考えても本当に何も思いつかない。自分が高校生の時は何が欲しかっただろうと一瞬考えたが、すぐに止めた。過去の記憶を辿れば眩し過ぎる日々が鮮明に蘇る。その輝きは、今の俺にはまだ受け止めきれない。
ただ街を彷徨っていても仕方ないので、近くのデパートに足を向けた。ブティックショップやアクセサリーショップが並ぶフロアに入る。ガラス張りの展示スペースの中に立っているメンズ服を着たマネキンを見上げながら、服はどうだろうと思案したが、彼に似合うと断言できるものを選ぶ自信がまったくない。
すっかり困り果てていた時、不意に肩を叩かれたので振り向くと、人差し指が頬に突き刺さった。
視線を上げると、にやりと笑んだ顔と目が合った。
「簡単に引っかかってくれますねえ。あかんですよ、そんなあっさり隙見せたら」
「攻児……君?」
「そうです、幻狼の親友で同居人で一流大学生の攻児君です。お久しぶりです、井宿はん」
久しぶり、と返して微笑んだ。彼の陽気な喋り口調を聞くと、何故か少しホッとした。
攻児君は本人の申告通り、俺の恋人――自分で断言するのはとても恥ずかしいのだけれど――の親友で、彼とルームシェアをしながら生活している。彼が率いる不良グループのナンバーツーで、頭脳明晰でありながら喧嘩も強く、彼曰く「実はチーム内で一番怖がられとる奴」らしい。彼らの地元である大阪では、昔は不良界――俺にはよく解らないが――では攻児君の知名度が一番高く、どこの組織にも所属せず一匹狼としてその世界の頂点に君臨していたのだと以前本人が漏らしていたが、極めて明るく話していたのでどこまで本当かは解らない。ただ周りで聞いていたチームのメンバー達が恐ろしいものでも見るように顔を引き攣らせながら俯いていたから、もしかしたら全て事実なのかもしれない。今現在の攻児君を見ているととても信じられないが。
「買い物でもしにきたんですか?」
「ああ、うん。ちょっと……」
「もしかして、幻狼の誕生日プレゼント?」
俺はぽかんとした顔を向けた。
にやっと笑った攻児君が嬉しそうに小さくガッツポーズを決める。
「いやあ、良かったなあ幻狼〜。これでいつ死んでもええなあ、あいつ」
「いや死んだら困るよ……」
何気なく言い返した言葉に攻児君が顔を上げる。驚いている顔を見て、俺も驚いてしまった。
「井宿はん、それあいつに言うたってくださいよ。ごっつい喜びますよ」
「え? ああ……」
どうして、と思ったがとりあえず聞き流すことにして、俺は攻児君に一緒にプレゼントを選んでくれないかとお願いした。付き合いの長い攻児君なら彼の趣味も正確に解ると思ったのだ。
攻児君は笑顔で快諾してくれた。
「ええですよ。せやけど、アドバイスまでですからね、力貸すんは。品物は自分で選んでくださいよ。俺が選んだら幻狼にしばかれますから」
意味がよく解らなかったが俺は曖昧に頷いて、攻児君の案内でデパート内にある店に足を運んだ。メンズ専門のアクセサリーショップで、シルバーアクセサリーから民族調の装具まで、品揃えが幅広い。
「色々あるんで選びづらいかもしれへんけど、こういうのって案外直感ですから。井宿はんがええと思ったもんを選べばええんですよ」
そうは言われても、アクセサリーの類に興味のない俺には皆目検討がつかない。
ひとまず店内をぐるりと眺める。ネックレス(肩が凝りそうだ)、指輪(……何となく嫌だ)、ブレスレット(邪魔じゃないのか?)――どれもピンと来ない。
「……攻児君。さっぱり直感が働かないのだが。だいたい、俺の直感が働いたとしてもそれは自分に対してであって、翼宿の好みだとは」
「そんなことないですって。だって井宿はん、幻狼のこと考えて選んどるでしょ。その上で働く直感ですから、きっとあいつの目にも適いますがな。指輪とか気が重いんでしたら、ピアスはどうです?」
招かれるままにピアスのコーナーに向かった。彼がよくつけているシルバーのリングピアスが目に入る。似たようなものが沢山並んでいるが、思ったよりも種類が豊富で驚いた。
「これならけっこう気軽に渡せるんやないですか? ピンキリですけど、それほど高価なわけでもないし。俺も何か買ったろうかなあ」
「そういえば、攻児君はどうしてこのデパートに?」
「ああ、ここ最上階が映画館になっとるでしょう。さっきまで映画見てまして、エスカレーターで降りてきたところで井宿はんを発見したんですよ」
そうなんだ、と相槌を打ったとき、きらりとしたものが目に飛び込んできた。いや、周りにはきらりとしたものしかないのだけれど、それは他の何よりもきらきらと輝いているように俺には見えた。思わず手にとって眺める。
赤いカラーストーンが光る、スタッドピアス。
「……これとか、どうかな」
彼のオレンジに近い髪の色と褐色の肌には、赤い色が強烈に似合う――と思う。リング型のピアスも似合うが、彼には前々からこういうシンプルなデザインのスタッドピアスが似合うのではないかと思っていた。
「攻児君?」
さっぱり返事が返ってこないので、俺は顔を上げた。見ると攻児君は口元を押さえ、腹を抱えながらふるふると震えていた。急に具合でも悪くなったのだろうかと思い、顔を覗き込むと、一瞬目が合った攻児君はぶはっと吹き出してからげらげらと声をあげて笑った。
「っ……? 攻児君、」
「いや、すんません。でもっ……あはははっ! ほんま凄いわ井宿はん」
訳がわからずに呆然としていると、攻児君は「なんでもありませんから」といって手を振った。問い詰めることもできず、俺は訳がわからないまま手中に収めたピアスを眺めた。
綺麗な紅い色――まるで燃え盛る炎のように。まさに彼を象徴するような色だと思った。外側も内面も、彼が持っている能力も全て包括するような。
やはりこれしかないと思ってレジに向かった。プレゼント用にして欲しいと頼んだら、シンプルな黒い小箱に真っ赤な細いリボンをかけてくれた。
会計を済ませて攻児君のところに戻る。ふと、疑問が頭を過ぎった。
「……そういえば、ピアスって校則違反じゃ……」
「どこの世界に校則を守るヤンキーがおるんですか」
「それはそうだが……。でも君達、学校で騒ぎを起こすようなことはしないのだろう」
見た目こそ派手で喧嘩っ早い男だが、学校では平穏な高校生活を送っていると本人が言っていた。サボりはするが文化祭などの行事ごとにも参加するし、定期考査もちゃんと受けている。どうやら彼は俺のイメージする不良とは少し違うらしい。
「ま、確かに売られた喧嘩は金払ってでも買いますが、例えどんなに鬱憤が溜まっとっても喧嘩は売らんっちゅうのが一応、チームの方針でしてね。俺ら元々学校を飛び越えた組織ですし、東京きてからは突っかかってくるような敵もおらんので、ヤンキーいうても暴れようがないんですよ。そもそも暴れるのが目的っちゅうわけでもないですしねえ。帰宅部の連中がほんまに帰宅部っていう部を作って集まっとるような感じですかね」
解るような解らないような話だった。
何にしてもヤンキーとか不良とか自分には縁がなさ過ぎて、往年の学園ドラマに出てくるようなステレオタイプなものしか想像できなかった。だが実際に彼らと話してみると、その想像とのギャップに戸惑うこともしばしばある。
「ちゅうか、幻狼は誰に何言われようと自分のスタイルだけは崩さん奴ですから、服装その他に関して注意しても無駄ですよ。押さえつけても反発するだけですから、野放しにしとった方がええんです」
その口調が、彼の親友というよりは兄のそれのようだったので、俺は思わず笑ってしまった。それに気づいた攻児君が「なんですか?」と尋ねる。
「いや、随分甘やかしているのだね」
「あいつ、長男やけど末っ子ですからね。甘えたがりオーラ放たれたら、俺は正真正銘の長男ですからつい甘やかしたくなるんですわ」
ああ、それは解るかもしれないと思った。かくいう俺も長男――だった、からだ。
それに彼は末っ子というだけあって、甘え方が上手な気がする。そう告げると攻児君は笑いながら同意した。
「それ言うと、あいつ怒るんですけどね。甘えられるような姉貴どもやなかったゆうて。でもあいつ、姉さん方にごっつ愛されとりますから。自然に愛され方や甘え方を身につけたんでしょうねえ」
ふ、と攻児君は口元を歪ませて笑んだ。それはまるで自嘲のようだった。
「俺はどっちかっちゅうと、そういうの不得手でしてね。たまに羨ましいと思ったりしますよ。井宿はんはどうでっか?」
俺は「え?」と聞き返した。そこで振られるとは思ってもみなかった。
短い沈黙を挟んでから、俺は思ったことを素直に告げた。
「ああ……そうだな。でも……」
「でも?」
「相手がいないから」
甘えられるような。いや、甘えたいと思う相手が、いないから。
世話になっている寺の住職には会う度に甘えているような気がするが、それは無意識の産物であって、決してあの人に甘えたいと思っているわけではない。それよりも早く自立して、寺に迷惑がかからないようにしなければと常々思っている。歳が近い住職を兄のように慕ってはいるが、親しいからといって自分の何もかもを許すように甘やかして欲しいと思っているわけでは断じてない。
ふと隣りを見やると、攻児君が片手で額を押さえ、苦しいような呆れたような表情で頭を抱えていた。それを眼にしてぎょっとし、どうしたのかと尋ねる。
「どうもこうも……。あの……、井宿はん、幻狼のことどう思ってます?」
いきなり何を聞くのだろう。
俺は驚いて固まってしまった。そんなこと、こんな人通りの激しいデパートの店の一角で言いたくないのだけれど。
「ど、どうって」
「つきおうとるんですよね。つまり恋人ですよね。あ、否定せんでください、流石にあいつ可哀想やから。でもね、だったら胸張ってあいつにいうたったらええんですよ。甘やかせって」
「え? いや、でも」
「でもやないんですって。そりゃあいつは井宿はんより七つも年下で、まだ高校生のガキですけどね。肝は人一倍据わっとるんですよ。あんたの痛みや悲しみを受け止められん男やない」
不意に攻児君が真顔になる。
俺は予期せぬ展開に心の底から焦った。自分の、一番触れられたくない部分に手を突っ込まれて、握り締められそうだったから。
「そうやなかったら告りませんて。あいつは多分、無意識でも自信があるんですよ。あんたを丸ごと受け止めるっていう……。なんせ、この俺まで腹の器に収めた男ですからね、あいつは」
攻児君は幾分楽しそうに語った。その横顔を見て、俺も少し安堵する。
余計なところには触れてこない、そう確信しそうになったその時――攻児君の両眼が俺を捕らえた。それまでの柔らかさも暖かさも、優しさも何も感じさせない、冷たい眼だった。その眼が彼の本質なのだと瞬時に理解して、何か攻撃される前に口を開こうとした矢先、言葉は降ってきた。
「せやからね、井宿はん。ちゃんとあいつのこと見たってくださいよ」
口元は相変わらず笑みを湛えている。顔全体を見れば笑顔に見える。でも眼が笑っていない。冷ややかな視線の奥に底知れぬ深い暗闇を感じ取って、俺は驚くよりも親近感を覚えた。
似ているのかもしれない。何がまでは、その短い間では解らなかったけれど。
「思いきり甘えたってええやないですか。あいつは喜ぶと思いますよ」
「……甘やかす方が好きなんだ」
顔を逸らしてから告げる。攻児君の本質を覗き見て驚きはしたが、衝撃までは受けなかった。悪いがこちらも年季が入っている。その程度の視線なら、いくらでもかわせる。
もし攻児君が本気で怒ったらそれは怖いだろうと思ったが、同時に自分相手に本気で怒ることは絶対にないだろうと思った。怒りたくても怒れない筈だ、俺は攻児君が敬愛する彼の恋人なのだから。
そう考えて自嘲する。彼にも攻児君にも失礼な話だと思った。いっそ怒ってくれたら、怒鳴ってくれたら、ショックを受けて立ち去ることができるのに。
――卑怯だな。
なんて醜いのだろう。相手は子供だというのに、そんなやり方しか思い浮かばないのか。相手に罪を着せるようなやり方しか。
そう思い至って、俺は深海の底に沈んだような気持ちになった。激しい自己嫌悪に苦痛が伴う。独りで生きてきたこの六年間、まったく成長していない己を呪いたいと思った。
そもそも彼の想いを受け入れてしまったこと自体が間違いだったのではないかと思う。未だに昔の傷を癒せない、暗闇から抜け出せない自分が、恋なんて気持ちを受け入れるべきではなかったのだ。昇華なんてしてやれるわけでもないのに。
けれどそんな後悔はあまりにも今更すぎる。関係を断ったところで元の状態には戻れない。
「ほんまにそうですかね」
真顔になった攻児君がぽつりと告げた。
俺はドキッとして顔を上げた。頭の中で同じような疑問に、唐突にぶち当たったからだ。
「ほんまに、あいつには微塵も甘えてへんと?」
その時初めて、攻児君の声が怖いと思った。そして先程その眼に親近感を覚えた理由がわかったような気がした。きっと攻児君も過去に、程度は解らないが、世界が崩壊するような絶望を経験したに違いない。
だから、同じなんだ。きっと、俺と。
「俺にはあいつの恋心の上に胡坐かいて座っとるようにしか見えまへんけどねえ」
だから解るのだろう、真実が。
自覚していることでも、他人から指摘されると胸が痛む。
しかしそれでも――俺は動揺しなかった。
他人とのこういう掛け合いに、俺はまったく動揺できなくなっている。六年前から、ずっと。
「……そうだね」
馬鹿みたいにあっさりと肯定する。それしか言葉が出なかった。
関係を持たなければ良かったとか、そんな後悔はただの言い訳だ。彼が側にいることに慣れてしまった今の俺は、彼の好意に甘えている。乱暴な言動とは裏腹に優しい彼の心に。
「……難しいな」
俺の横顔をじっと見詰めていた攻児君がそう呟いた。俺にはどういう意味かわからなかった。
「随分面倒臭い人間に惚れたもんや、あいつも」
「……ああ、本当に」
「うわー認めますかそこで。腹の底からむかつくんでやめてください。自覚してへん方がまだ可愛いでっせ」
「そうは言われても、元から可愛くなんかないから」
「っ……面倒臭っ! 忍耐力あるなあ、あいつ。俺あかんわ」
「……実は、君の方が喧嘩っ早いのかな。翼宿より」
「あ、バレました?」
素直に認めてからからと笑う。至t山チームきっての頭脳派は、同時にチーム内でもトップレベルを誇る短気らしい。あいつはへらへら笑っとっても内心むちゃくちゃ怒っとることがある、と彼も言っていた。
「井宿はん。ええ子でしょ、幻狼は」
発言の意図が読めなくて、黙って攻児君を見上げる。
攻児君はにやりと笑んで俺の視線を受け止めた。
「不良やってのに、そんな擦れてへんし。あいつ基本的に家族に愛されて育ったんでね。愛情が欠乏しとるわけやないんですよ。周りに愛されとる自覚もあるし。でも、人を傷つける痛みも、傷つけられる痛みも知っとる。あいつは井宿はんが思うほどガキやないんですよ。……正直に言うて、あんたと幻狼がどうなろうが知ったことやないし、俺は別にどうでもええですけど、それでもあいつが凹んどる姿は見たないですから。遊びなら構いもしまへんけどね、あいつごっつマジやから」
「……心配なのだね」
「純情やから、あいつは」
攻児君は少し淋しそうに笑った。俺には何故かその気持ちがよく解った。
それは今の自分には決してないもの。どんなに欲しいと願っても、もう二度と手に入らないもの。
だから時々、彼がとても眩しく見えるときがある。攻児君もそうなのかもしれない。
俺は無意識に口を開いて、言葉を紡いだ。
「解らないんだ。……何故、俺なのか」
世間には可愛い女の子なんて沢山いるのに、何故彼は俺を選んだのだろう。しかも彼はもてるのに。姉が五人もいる所為か、彼はまだ高校生であるにも関わらず女性に対してまったく幻想を抱いていない上に、その性質を熟知している所為かどうかは知らないが女嫌いを公言している。だがそれでも彼は、所謂童貞ではないらしい。彼女がいた時期はないのだが、それはデートを重ねるとか、ちゃんと付き合うとかいうのが面倒だったから避けてきただけであって、女性が切れた時期というのは中学生の頃からほとんどないようだ。
だから彼は意外とスキンシップに慣れていたし、何と言うか俺なんかよりもずっと経験豊富だった。
「君の言う通り、俺はとても面倒で……そんな自分を諦観してしまうような、駄目な人間なのに」
改善しようなんて前向きな気持ちはない。むしろ改善なんてしてはならないと心のどこかで思っている。
積極的に生きようとするなんて傲慢にも程がある。
醜い自分を醜いと認めて、残りの人生を懺悔と贖罪に費やす。俺は本気でそう思っている。そう思わなければ生きていけない。今すぐにでも死にたくなる。
でも俺は死ねない。今はもう、死ねなくなってしまった。自分を知る人が、大切な仲間が増えてしまったから。そしてその人たちは自分のことを大切だと言ってくれるから。
そんな存在を振り切ってまで、自分を満たす為だけに死を選ぶことは、俺にはできなかった。
だがそれは言い訳だろうと、自分を罵る自分がいる。
本当は死にたくないのだろう。死ぬのが怖いのだろう。六年前に死んでしまった大切な人たちの元へ逝きたいだなんて、そんなのは嘘だ。お前はただ死にたくないだけなんだ。それなのに開き直れもしない。醜くて愚かだ、救いようもない。
そんな自分の声を聞くたび、また死んで詫びたいという気持ちが強くなる。この六年間、ずっとそんな気持ちの間で右往左往してきた。進化も退化もない現状維持。過去を忘れることも忘れたふりをすることもできなくて、昔の自分に戻ることも悪人街道を突き進むこともできなかった。
どうにもできずに苦しんでいた。だが苦しいと誰かに伝えることすらできなかった。自分は罪を犯したのだから、苦しんで当然だと思った。だからこのままでいいと思う時もある。このままずっと死ぬまで苦しみ続け、懺悔し続ければそれは贖罪に成り得るかもしれないと思ったから。
だがそんな考えを不毛で愚かだと罵る自分もいるのだ。正しさを貫き通したい自分と、醜い自分と、諦めている自分が鬩ぎ合っている。そんな自分達を見下ろして、もういいじゃないかと俺は言い出せずにいる。いくら解放を求めても自分の一部分が決してそれを許さない。
だから俺は身動きが取れずにいるのだ、と――彼が知ったら、何と言うだろうか。想像はつく。きっと呆れて、馬鹿じゃないのかと言うに違いない。そしてもっと前向きに生きろと言うだろう。生きている限り、積極的に幸せを求めろと。
でも俺にはできない。そんなことは、できないんだ。
君の声だけでは何も変わらない。何も変われないんだ。
「駄目かどうかは置いといてですね。なんちゅうか、あいつは井宿はんの面倒臭いとことか優しいとことか意外に頑固なとことか笑顔がかわええとことか微妙に天然なとことか――そういうの全部ひっくるめて、好きなんやないんですかねえ」
「そんな、」
「存在自体がドツボっちゅうことですよ。でなけりゃあいつが男に告るわけあらへんし」
そんなことがあるのだろうか。たとえあったとしても、そんな理由はやっぱり――。
――否定する権利もないか。
特別なものなんて、特別な人なんて、もう二度と作ることはないと思っていた。いや、そう誓った筈だった。それなのに安易に受け入れて、深く入り込んで――この様だ。
何を言っても聞きそうにない子供だと思ったから、諦めて許してしまった。けれど現実はどうだ、実際は彼の好意に、優しさに付け込んで甘えているだけじゃないか。子供だと見下して、いいように振り回しているだけだ。俺は彼に何も返していないのに。何も返せないのに。
醜い自分を叱責する自分を見つけて、そんな己を嘲笑いたくなった。いつまでも消えない正義感が鬱陶しい。もっと醜い自分を認められたら、開き直れたら、こんなに苦しむことはないだろう。もっと悪人になれたら――いっそ心根も何もかも腐ってしまえばいい、そうしたら楽になれる、きっと誰も近寄らない、誰に同情されることなく死ぬまで一人でいられる――。
解っているのに思い切れない。
――怖い。
嫌われるのが怖い、お前はなんて醜い人間なんだと非難されるのが怖いのだ。
彼を失くすこと自体は怖くないのに。
「……井宿はん?」
黙って首を振る。俯いたまま身体を翻して、俺は逃げるように立ち去った。
自分がここまで醜悪な人間だとは思わなかった。
底辺にはとっくに辿り着いていると思っていたのに、まだまだ下があるらしい。
人間というのは一体どこまで醜くなれるのだろう。一体、どこに底があるというのだろう。
俺はあとどれくらい沈めば変われるのだろう。
苦しい、苦しみたくない、でも苦しまなければならない。
解放されたい、でも解放されてはいけない。
沈みたくない、これ以上劣悪な自分に気づきたくない、それでも心は落ちる、腐る、身体は素直にそれに追従する。浮き上がりたいのに浮き上がれない、もう何もかも元には戻らない、戻りたくても戻れない。壊れたもの直す方法を、俺は知らない。壊れた自分を治す方法を、俺は。
存在すること自体が辛い。
あの時、誰よりも死ぬべきなのは俺だった。それなのに俺だけ生き残ってしまった。
――何故。
何故、何故――何故……!
「っ……」
息が苦しい。呼吸の仕方を忘れそうになる。吸って吐く、ただそれだけのことが上手くできない。
己の不甲斐無さも無力さも嫌という程味わった。今でも腸が煮え繰り返る程悔しい。だけど俺は自分を生かすことも殺すこともできずにいる。
どうにも変われない、この苦しみから逃れることはできない。
大きく一つ息を吐いて、口元を引き上げた。
それは本望じゃないか。死ぬまで苦しみ続ける――俺が今生きている意味はそこにしかないのだから。
夕暮れに染まる空を見上げて、眼を細めた。その空の色は彼の色に似ていた。力強い生命力と漲るパワーを兼ね備えている彼が、俺の本性を見破って呆れ返り、罵倒する日も近いだろう。
そんな予感に駆られながら、俺は知り合いのいない街を独りで徘徊し続けた。
このまま何もかも朽ち果ててしまえばいいと思いながら。
080421