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明くる日の記念日
彼の場合、それが珍しいことではないから、困る。
携帯電話が繋がらない。家にもいない。そして当たり前のように誰も、彼の居所を知らない。
不意に連絡が取れなくなるのは決して珍しいことではなかった。けれど何故か、今回に限って――何か感触が違う、そんな気がした。幾ら手繰っても手繰り寄らない、絶対に追いつけない。見えない壁のような拒絶の意思を、翼宿は本能で嗅ぎ取っていた。
ついに振られるのか俺は、と笑いかけたがすぐに洒落にならないと気づき、思わず嘆息する。
彼の生誕記念日が近いというのに、その当人が捕まらないなんて。
拝み屋の仕事でどこか遠いところに行っているのだろうか。もし手間取っているようなら応援に向かおうと決めて、翼宿は彼の居場所を唯一、正確に把握しているだろう人物の元へ向かった。
あまり頼りにしたくなかったが、こうも連絡が取れないのならば仕方ない。目的を果たしたら素早く退散すればいいだけの話だ――と、そのような安易な気持ちで少年は目的地に足を踏み入れた。
「あ?」
翼宿と顔を合わせた途端、その男は眉を寄せて少年を睨み上げた。
来客にする反応ではないと激しく思う。翼宿は思ったことをそのまま告げた。
「あんた、ほんまに坊さんかいな」
「残念ながら」
男は悪びれもなく肩を竦めてみせた。
ここは彼が世話になっている寺で、この男は住職である。坊主といっても剃髪しているわけでもなければ数珠を携えているわけでもない。かろうじて袈裟は着ているが――それも汚く着崩しているので、印象としてはだらしない――とても僧侶には見えない。
「生臭もええところやな」
「何の用だ、糞餓鬼」
酷い言い様である。そういえばこの男は口も悪いのだった。
翼宿は大人しく本題に入った。
「井宿どこにおるか知らんか」
横柄に尋ねる。
住職はちらりと翼宿を見やり、わざとらしく溜息を吐いた。
「尋ね方を知らん奴だな」
「あんたには何も言われたないわ」
「うるせえよ。ていうか何だお前、あいつにシカトされてんのか?」
案外根性ねえな、と住職は続けた。
翼宿はむっとして相手をぎらりと眼で射る。住職は涼しい顔を向けた。
「餓鬼は餓鬼らしく、無鉄砲に突進してりゃいいんだよ」
「せやからどこにおるか聞いとるんやろうが」
「馬鹿。今連絡手段を断たれている時点でお前の負けだ」
住職はいかにも馬鹿にした口調で言い放った。
「どういう意味やねん」
「なんで俺が教えてやらなきゃならないんだよ」
「っ……あんたなあ、」
「あいつとお前の問題だろうが」
「そうやなくて……! あんた、井宿が……」
好きやから、俺の邪魔してんのとちゃうか――。
それは以前から感じていた疑問だった。墓穴を掘りそうだったので今まで問い質せずにいたのだ。
若い住職は井宿と歳が近く、付き合いも翼宿に比べればずっと長い。何より井宿が全面的に信頼を寄せているという稀少な人物である。翼宿は少なからず二人の関係に入り込めない壁のようなものを感じていた。
だが住職は翼宿の懸念をよそに、呆れた顔を見せた。
「阿呆。その気があるならとっくに手ぇ出してら。あとお前みたいな餓鬼には死んでも譲らん」
「……ほんまか?」
「だから。俺は後見人なんだよ。それ以上でもそれ以下でもないし、今後もそれは変わらない。……それに俺は、地味にお前を応援していたんだが」
「嘘やろ」
「嘘じゃねえよ。いつまでもああだと鬱陶しくてな。お前ならあいつをどうにか出来るかもしれんと思ったんだが」
無理だったか、と住職は呟いた。
翼宿はなんやと、と怒鳴りたいところをぐっと我慢した。生臭坊主の言動にいちいち煽られていては話が進まない。
「せやからあいつはどこにおるんや」
「家だ」
「は?」
家? 家なら、午前中に寄ったが――。
「あいつ、この時期になると引き込もるんだよ。電話にも出ないしインターホン鳴らしても出てこない」
「は……? なんでや」
「だから。俺が教えてやる義理はないし、義務もない」
本人に聞け、と住職は突き放した。
翼宿は前髪をぐしゃりとかきあげて呻く。
「素直に吐くと思うんか?」
「思わない」
「おいコラ」
「というのは冗談だ。……実際はお前の聞き方次第だろ」
「自信あらへん」
彼を刺激せずに何かを聞き出す自信などない。
初めの頃は――そう、住職の言う通り突進していればなんとかなると思っていた。だが井宿という人間は翼宿が思っていたよりもずっと難しい人間だった。硬く閉ざされた心の扉は滅多に開かない。扉を開けるための鍵を持っていない翼宿は、いつも彼の扉の前でウロウロするしかなかった。
「素直だな」
ふと笑んだあと、住職は真顔に戻って尋ねた。
「お前、なんであいつがいいんだ?」
「わからん」
理由なんて、理屈なんて解らない。もしかするとそんなものは存在しないのかもしれない。
「せやけど欲しくて堪らん。あいつには幸せになって欲しい。……いや、俺が幸せにしたい」
その権利が欲しい。誰にも奪われたくない。
それが激しい独占欲の現れであることに、少年はまだ気づいていない。
「幸せ、か。……大きく出たもんだな。というか……お前の眼から見てもあいつは不幸か」
「不幸っちゅうか……苦しんどるのは確かやろ」
「あれは好きでやってんだよ。自分のことを罪人だと思っているから」
罪人――?
翼宿にとっては意外な単語だった。過去に何かあったとしても、彼はきっと被害者だろうと勝手に思い込んでいたから。
「……あいつ何かしたんか」
「してたらどうする?」
井宿が罪人――犯罪者だったら。
一瞬考えて、考えるまでもないことだと気づいた少年は、素直に心境を吐露した。
「関係あらへん。ちゅうか、悔いとるから苦しんどるんやろ。改心しとるっちゅうことやないか」
「そんなに簡単じゃねえんだよ、人間ってのは。いくら改心してもあいつはあいつ以外の人間にはなれない。だからあいつは生涯、自分を許せないだろう」
「なあ、そういうのってあんたの守備範囲とちゃうんか? あんたは――あいつを救ったれへんのか」
「神道相手に仏教の論法で説いても効かんさ。それに仏は人を救わない。罪を許してくれるのはキリストだ。全く俺の守備範囲じゃない」
まるで屁理屈のようだと翼宿は思った。
「あんた坊主やろ」
「坊主と言っても色々いる。日本的大乗仏教だけでも、大雑把に分けて浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗に臨済宗、真言宗」
「もうええわ。つまり坊主は役に立たんっちゅうわけやな」
「仏教徒には有効だ。だがそれ以外にはダメだ。宗教ってのはそういうもんなんだよ」
やはり詭弁にしか聞こえない。
この男はいつだって遠くから井宿を眺めているだけだ。核心に触れないでいる優しさというのは理解できるが、認めたくはなかった。
「とにかく俺じゃ無理だ。動いた瞬間に全てが終わる」
住職は立ち上がって棚の扉を開けた。薄暗い中に手を突っ込み、何かを取り出して翼宿に向かって投げた。
受け取って見る。銀色の、よく見知ったフォルム――それは何かの鍵だった。
「だから俺は、お前に賭ける」
不本意だがな、と続けて住職はソファに腰を下ろし、テーブルに置いてあった煙草を手に取った。
「なん……やねん、それ。ちゅうかこれ何処の鍵や」
「あいつの家の合鍵だ」
「は?!」
「だからな、」
餓鬼は餓鬼らしく突進してろって。
そういいながら僧侶は火をつけた巻紙をひと吸いした。
緩慢とした動作で天井に昇ってゆく白煙を見据えながら、翼宿は手の中にある鍵を握り締めた。
――突進。
それで何かが変わるというのなら。
「……解った」
刹那、少年は覚悟を決めた。
去っていく少年の背中を見やり、僧侶は三口ほど吸った煙草を灰皿に押し付けた。
餓鬼の癖に度量がある。意外と物分かりもいい――そして子供にしては幾分、優しすぎる。
だからあれも戸惑っているのだろう。突っ走ることしか知らない馬鹿な餓鬼ではなく、腫れ物に触れようとしない思慮深い大人でもないから。
さて、吉と出るか凶と出るか。吉なら御の字、凶であっても――現状は何も変わらないだろう。あれは自分を生かせない代わりに、殺せもしないのだ。あの少年との関係が悲劇に終わったとしても、その延長で自分自身に深く絶望したとしても、自ら命を断つことはありえない。
――筈だがな。
井宿はあの少年と出会って、少しずつではあるが変化してきている。どんな不測の事態も起こって然るべきとみる方が無難だろうか。
僧侶とて勿論、井宿には幸せになって貰いたいと思っているのだ。だが後見人は後見人でしかない。その領域を越えてはならないのだ。この寺は、井宿が帰る場所だから。だからいつでも彼が安心して帰ってこれるような、泣きつくことができるような場所でなければならない。そうでないとあの陰陽師はこの世界で本当に独りになってしまうから。
彼を救いたくないわけではないのだ。ただ、自分の立場では出来ない――だがそれでいいのだと思う。
――俺が動いても何も変わらない。
それは恐らく誰でもそうだ。井宿自身が変わろうと思わなければ、何も変わりはしないのだ。
果たしてあの少年は井宿の心を動かしてくれるだろうか。
先のことなら少々読める。だがわざわざ彼らの未来を読もうとは思わない。それは僧侶のエゴでしかないのだが、それでも彼は証明してみせたかった。
未来は天に定められたものではなく、個人個人が作りあげていくものなのだと。
***
白い無機質な扉を眺める。表札はかかっていない。
本当にこの中に彼がいるのか。何故あらゆる連絡手段を断って、独りでいるのだろう。
月を見たら狼になってしまって、元に戻るまで時間がかかるとか。
そんな阿呆みたいな話を考える。だが今のところ、そんな阿呆みたいな話さえ否定する材料がない。彼は人並み外れた能力を持つ人間だ、何が起こってもおかしくない。
だが、少年は既に覚悟を決めている。
何があろうと受け止めてみせる、そんな気概を胸に、インターホンを鳴らした。住職の言う通り反応はない。翼宿はもう一回インターホンを鳴らした。それでも反応がなかったので、住職に渡された鍵を取り出した。まさか中で干乾びているわけではないだろうなと思いながら、鍵穴に鍵を差し込む。
これを回したら扉が開く。
その時、翼宿は正体の解らない不安を感じた。
――迷うな。
顔を合わせなければ始まらない。声を出して話さなければ、何も。
鍵を回して扉を開けた。玄関には靴が揃っている。中に人の気配を感じて、少し安心した。
靴を脱いで上がり、居間へと繋がる扉を開いた。奥にあるベッドの上で、部屋の主が唖然とした顔で少年を見上げていた。
――おった……。
「あ……と。突然すまん、連絡取れんから心配になって。コレ、坊さんが貸してくれたんや」
そう言って鍵を見せるが、井宿は未だ呆然としたままだ。
翼宿は彼が腰かけているベッドに近寄り、視線を合わせるためにしゃがんだ。じっと顔を覗き込む。顔色が悪い。酷く疲弊しているように見えた。紅い眼は戸惑いの色を湛えている。
いつもこんな顔ばかりさせているなと思った。彼に想いを打ち明けてから、ずっと。
「大丈夫か? えらい顔色悪いけど……具合悪いんか?」
青白い頬に手を当てる。僅かに跳ねた身体の衝撃すらも吸い込んでしまうかのように、少年は熱を持った眼を彼に向けた。
「っ……どう……して」
やっとのことで吐き出された声は、震えていた。
「井宿……」
「、君は」
「井宿」
驚嘆の声を発したのは少年の方だった。
井宿が僅かに眉を顰める。彼は自分の変調に気づいていなかった。
翼宿は頬に当てていた手を頭の後ろに持っていき、彼を引き寄せた。
青白い顔をした恋人は声も発さずに、疲れて眠りにつくまで、ただ――淡々と、涙を零し続けた。
***
橙色の髪を眼にした時、井宿は息が止まる感覚を覚えた。
驚愕も動揺も通り越して、何も考えられなくなった頭は、発声を命令することすら拒んだ。訪問者がどんな顔をしているか認識できず、頬に触れた彼の手のひらの暖かさだけが井宿に伝わっていた。
抱き締められた時、自分が泣いていることにようやく気づいた井宿は、情けないと思う前に――崩れてしまった。自分を支えていた箍が外れ、崩壊してしまった。崩れた井宿はただ彼の腕の中で泣き続けた。傍にある温もりに溺れるように。
眼が覚めて、井宿はゆっくりと上体を起こした。キッチンの近くにあるダイニングテーブルの椅子に、見知った橙色の頭髪の持ち主が座っている。
まだはっきりとしない頭を片手で支えながら、井宿はぼんやりと眠りにつく前のことを思い出していた。
――あれは……。
「井宿」
覚醒に気づいた相手が井宿を呼んだ。少年は心配そうな顔をしてこちらに近付いてきた。
「大丈夫か」
覗き込んできた眼を呆然と見つめ返す。徐々に正気を取り戻してきた頭が、井宿に怪訝な顔をさせた。
「まだしんどいか?」
すっと手が伸びてくる。井宿は反射的に身を引いた。宙に浮いた手は一瞬躊躇したが、再びその身を伸ばして井宿の頭を引いた。捕えた頭を少年の両手がぐしゃぐしゃとかきまわす。
「っ……?」
「腹減ってへんか」
――え?
唐突な問いかけに対応できず、黙って翼宿を見返した。
少年はにかっと笑んで、井宿の肩に手を置いた。
「考えることがあるなら元気になってから考えろや。あんまり己を苛めるようなことしとると
美朱達
《
みんな
》
が泣くで」
離れた彼はキッチンに向かって行った。
井宿は呆然とその背中を見送り、ただ――途方に暮れた。
一体、何がこうなって……これからどうすれば。どんな顔をすれば、どんな声を出したら、一体何と言えば――。
戸惑いの中、なけなしのプライドが訴える。
こんな姿、見せたくない。
帰ってくれ――そう告げたいのに声が出ない。むきになって追い出すなんて、大人気ないじゃないか。そう思う自分が自分を抑制する。
何故来たんだ、どうして教えたんだあの人は、と自分以外の誰かを責めるようなことを考えて、井宿は頭を抱えた。即座に、二人とも心配してくれているのだと気づく――そして井宿は発するべき言葉を全て見失った。
何と言えばいいのか自分では判断がつかない。かといってこのまま無言でいるのも、悪戯に心配をかけているだけのようで、耐えられない。
大丈夫。そう、一言そう言えたら。
「一応、胃に優しいもんと思って……ほれ、卵雑炊。これなあ、二日酔いの時にええんやで」
君はまだ高校生だろうとツッコミを入れるべきなのだろうが、生憎思うように喋れない。
差し出されたお椀とレンゲを見やり、受け取らなければならないと思った井宿は力の入らない、僅かに震えた手を上げた。
その様子を見て、翼宿がベッドに腰を下ろす。
なんとなく嫌な予感がした。
「あーん」
やっぱり、と井宿はがくりと項垂れた。
レンゲに雑炊を掬って井宿の口元に近づけた翼宿に向かい、なんとか腹に力を入れて声を出す。
「翼宿……俺は病人じゃないんだが……」
「似たようなもんやろ」
ばっさり斬り捨てられる。否定できない自分が無性に情けなかった。そして意外と甲斐甲斐しい少年の態度に驚く。
「大人しく喰え」
尊大な言葉使いには、逆らえない空気を感じた。今更だが、そういえば彼は不良チームの頂点に立つ男なのだと思い出した。
戸惑いながら言われるままに口を開く。レンゲと共に熱い卵雑炊が流れ込んできた。
――あ……。
「おいしい……」
どこか、懐かしい味がする。
「やろ?」
にっと笑んだ少年の顔が眩しかった。二口目を貰いながら、僅かに視線を逸らす。
「まあダシ取ったから不味いわけないんやけど」
「え、ダシの素じゃなくて……?」
「そんなん使うたらしばかれる家で育ったからな」
ふー、とレンゲに盛った雑炊を冷ましながら、翼宿が言った。
「うち親がフルタイム共働きやし、人数多いからメシ作りは当番制やねん。ガキでも強制的に包丁握らされてな、不味かったらそらもうえらいクソミソ言われるんやで? 地獄やったわ、あれは。っちゅうか今でも実家帰ったら夕飯作らされるし」
「……でも、そのおかげで自炊できているんだろう?」
まあな、と答えた翼宿から雑炊を貰う。
何故懐かしい味がしたのか解った。一人暮らしの今は既製品のダシの素で済ませているけれど、家族がいた頃は毎朝、料理上手の母がダシを取って作った味噌汁を飲んでいたから。
暖かくてホッとする。母の作る料理はいつも母そのものだった。
――不思議だ……。
今まで、こんな穏やかな気持ちで昔のことを振り返ったことはなかった。
「翼宿……今日は、何日?」
「え? 二十日やけど」
「そうか……」
――……昨日か。
ここ数日、どこにも外出せずにベッドの上で蹲る生活を送っていた。ただその日が過ぎてゆくのを、じっと待つ。六年間、ずっと同じことをしている。
「駄目なんだ」
気づくと声を発していた。
理性が止める前に感情が先走る。そんなことをしては後悔するだけだというのに。
「五月の、……十九日前後は……駄目なんだ。……何も手につかなくなって」
後悔と懺悔と贖罪を胸に、引きこもる。
今年はそれでも大分マシな方だった。記憶と気持ちに耐え切れずに自傷する年もあったから。
「時間が経てば、その内元に戻るから……気にしないでくれ。大丈夫だから」
「せやから――お前の大丈夫は全然アテにならんて。せやけど……」
語尾を濁らせた後、少年は爽快な笑みを零した。何故そんな反応をするのか解らなくて井宿が眉を寄せると、彼は「いや、」と答えて顔に浮かべた笑みを更に深いものにした。
「嬉しいわ。ちゃんと言うてくれて」
そう言って翼宿は再びレンゲを差し出した。
急に気恥ずかしくなって、軽く拳を握る。手の震えが治まっていることに気づき、井宿は「もう一人で食べられる」と告げて翼宿からお椀を受け取った。
「なあ。ちゃんと元気になるって、約束しろや」
絶えず言葉を投げかけてくるのは、井宿に考える時間を与えない為なのかもしれない。
井宿は小さく頷いて「する」と答えた。とにかく今は眼前にいるこの少年を安心させてやりたかった。
よっしゃ、と満足気に微笑んだ彼が井宿の頭に手を乗せて、ぐりぐりと撫で回した。
思わず顔を赤らめて俯く。
――俺の方が子供みたいだ……。
「おっ。過ぎたなあ」
「え?」
「ほら、」
翼宿が自分の携帯電話を翳した。何のことか解らずに眉を顰める。
「過ぎたやろ、十二時。もう二十一日や」
「ああ、本当だ……」
もうそんな夜中だったのかと井宿は驚いた。
ずるっとこけそうになった翼宿が呆れた声を出す。
「あのな、そういうことやなくて」
「? 何……」
「誕生日やろ。お前の」
ああ――そういえばそんな日もあったな、と井宿は思った。
この六年間、自分の誕生日などあってないようなものだった。祝う気など到底なれない、俺が生まれた日などむしろ忌むべき日だと、呪う言葉を吐く時すらあった。
「こんなことになるとは思わんかったから、プレゼントとかまだ用意してへんねんけど」
そう言う少年の耳元に赤い石が光っていることに、井宿は今更気づいた。それは先月の彼の誕生日に自分が贈ったもの――。
「いっちゃん最初に言わせてくれや。……おめでとう」
違う、目出度くなんかない――と答えていただろう、少し前の自分なら。
井宿は一拍置いて、ふと目元を和らげた。
それはようやく自然に漏れた、心からの微笑だった。
「ありがとう」
そして今年も、長い闇が明けた。
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