あるイヴの待ち合わせ
待ち合わせ時間に間に合った試しがない。
それはお互い様なのだが、七つ年下の彼は意外だと言う。時間にルーズなように見えないらしい。井宿は彼の感想を聞いて、苦笑を返すだけに留めた。
時間にルーズなわけではない。井宿はいつも、わざと遅れてくるようにしているのだ。
何故なら、待ちぼうけを喰らうのが嫌だから。
一人で待っている時間が嫌いなのだ。道端にぽつんと立ち止まっていると不安で堪らなくなる。待ち合わせをしている筈なのに、誰も来ないのではないかと疑ってしまうのだ。そしてまた独りになってしまうのではないか、と。そう思うのが堪らなく怖い。
――それなのに。
井宿は今現在、絶賛待ちぼうけ中である。待ち合わせの相手からは「少し遅れる」とメールがきた。
携帯電話で時刻を確認してから、辺りを見渡す。空は既に暗い。何組かのカップルが寄り添いながら幸せそうな笑顔を振りまき、歩いている。
今日はクリスマス・イヴ。街も賑やかで騒々しい。道路を挟んで向こう側にあるケーキ屋の前では、サンタクロースの格好をした店員が客引きをしていた。
――クリスマスケーキ、か。
どうせならホールで買いたいけれど、一人じゃ食べきれない。彼は甘いものが苦手だし――やはりショートケーキで手を打つか。
黙って立ち尽くしているのが嫌になったのと、甘い匂いに誘われて、井宿は信号を渡りケーキ屋へと足を運んだ。
店内は子供連れの客で賑わっていた。クリスマスケーキの予約をしていない客、というのは案外多いらしい。
ガラスケースの中には色とりどりのカットケーキとクリスマスケーキが並んでいた。生クリームたっぷりのショートケーキのホール、チョコクリームケーキ、ブッシュ・ド・ノエル――。
思わずごくりと唾を呑む。やはりホールサイズのケーキの方が、クリスマスには相応しい。カットケーキでいいならコンビニケーキでもいいわけだし――と思っているところに、店員から声をかけられた。
「クリスマスケーキをお探しですか?」
イヴの日にそれ以外に何を探すんだと思いながら、井宿は「はあ」と頷いた。
「ご家族用ですか?」
「あ、いえ……」
一人で食べるつもりですとは流石に言えず、曖昧に言葉を濁す。
その時、何故か店員の目がきらりと光った――ような気がした。
「でしたら、こちらのケーキがオススメですよ。生クリームとイチゴのクリスマスケーキです。ホールですけど小さいので、お二人なら充分食べきれますよ」
――お二人?
どうやら恋人用という設定にされてしまったらしい。あながち間違ってはいないが。
井宿はオススメされたクリスマスケーキを見つめた。真っ白くて小さいホールケーキの上には、粒の大きいイチゴと砂糖で作られたサンタクロースがちょこんと座っている。確かにこのサイズなら食べきれるかもしれない。
「同じサイズでチョコレートクリームのケーキもありますが」
「ああ、いえ……これ、一つください」
かしこまりましたと言って笑顔の店員はカウンターの奥へと消えた。
改めてガラスケースの中のケーキを眺める。
――『恋人達のクリスマスケーキ』……。
また随分と恥ずかしい買い物を一人でしてしまったなと思いながら、井宿は急いで会計を済ませた。女性と子供の客が多い店内で、井宿の存在は明らかに浮いていた。
店を出ると、冷たい風が頬をぴしゃりと叩いた。白い息を吐きながら、マフラーをしてこなかったことを悔やむ。
「井宿」
呼ばれて顔を上げると、待ち合わせの相手が目前にいて驚いた。
珍妙に顔を歪めた彼が「何してんねん」とぼやく。
「約束した場所におらんかったから心配したやんか」
吐く息が僅かに荒い。
井宿は呆然と彼を――翼宿を見上げた。
「探して――たのか」
「その辺見回っただけや。なん、それ」
「え? ああ……、そこの店でクリスマスケーキを買ったんだ」
「ケーキて、これから飯喰いにいくのに?」
――あ。
全く念頭になかった。そうだ、夕食を共にする為に待ち合わせをしていたのに。
何だか抜けている己に呆れつつ、そんな自分が急に恥ずかしくなって、井宿は口を閉ざした。
「まあ、ええけど。ケンタでも買うてお前ん家で喰うか。どうせどこも混んどるやろうし」
「ああ、うん」
移動を始めた翼宿の横に並ぶ。
恥ずかしいを通り越して情けなくなってきた。待ち合わせの場所から勝手に移動して、ケーキなんか買って、年下の恋人を心配させて。
――こい、びと。
未だに信じられない。彼と付き合っているという事実が。
――そんなこと。
悟らせたら、彼を傷つけるだけなのに。
「ごめん」
気づいたら謝っていた。
は?、という顔をして翼宿が振り向く。
「ごめん、あそこで待ってなくて」
「あ? ああ。別に、近くにおったからええわ。……っちゅうかお前、大丈夫か?」
「え?」
「いや、何や様子おかしいから。寒いんか?」
そう言って翼宿は首に巻いていたグレーのマフラーを外し、井宿の首に巻いた。
「これで暖かいやろ」
にかっと翼宿が笑う。
井宿は呆然とその笑顔を見返した。
――どうして。
そんなに簡単に人の心を暖かくできるのだろう、君は。
「……ありがとう」
微笑んで礼を言うと、翼宿は恥ずかしそうにそっぽを向いた。
情緒不安定気味だった心が徐々に安定を取り戻す。
一人で待っているのが怖かっただなんて、そんな白状はまだできない。そんな風に弱さを晒すことは、まだできない――だけど。
いつか吐き出してしまうかもしれないと井宿は思った。彼の度量と、包容力に甘えて。
――年下なのに。
やはりそれが気になってしまう。七つも違えば、世代も価値観もずれる。成人などとうに越えた井宿から見れば現役高校生である翼宿など、まるで子供だ。
しかしそんな彼に、確実に癒されている自分がいる。
「翼宿。本当にケンタッキーでいいのか? やっぱり、どこか店に食べに……」
「ええって。飯とかほんまどうでもええねん。お前と一緒にいたいだけやし」
投げられた高速ストレートが見事にストライクど真ん中に決まる。
卑怯だと思いながら赤く染まった顔を俯けた。どうしてそう、本当に欲しい言葉ばかり投げてくるのだろう。
「……おい、黙んなや。恥ずかしいやろ」
恥ずかしいのは俺だよ――その倍くらい、嬉しいけれど。
井宿は笑って翼宿を見上げた。
「何か欲しいものある?」
「へ?」
「クリスマスプレゼント」
与えられているばかりで何も返していない。そんな気がするから、せめて贈り物で返したい。
腕を組んで考えていた翼宿が、前を見据えながら大真面目に言った。
「お前」
何が、と問おうとして口を噤む。
意味を理解したものの、何と返したら良いか迷った――が。
今日はクリスマス・イヴだ。少しくらい羽目を外したっていいだろう。
「俺なんかでよければ、幾らでも」
呟くように告げると、一、二歩先を歩いていた翼宿が「なんかは余計じゃ」とぶっきらぼうに言った。
年下の恋人の耳が赤くなっているのを見て苦笑した後、彼の為に新しいマフラーを買ってあげようと井宿は思った。
071224