盤上乱舞
1
危険を冒さなければ配当は得られないのだと教えられた。
後悔なんて読んで字の如く、後からするものだ。
だから。
走り出すしかない。
盤上乱舞
空の色を、空気の匂いを、懐かしく思う。
久々に見上げたその山は記憶よりも大きく見えた。
恐らくこの山の主も、一回りも二回りも大きくなっているだろう。あの年頃は成長が早い。
被っていた笠に手を置き、一つ息を吐く。
緊張していないといえば嘘になる。眼前に聳え立つ山の主と再会するのは、実に一年振りのことだ。
何かとんでもない事が起きていない限り、彼は真っ直ぐに成長し良い漢になっているだろう。
そんな彼と再会を果たし、今在る自分は失望されずに済むだろうか。僅かな不安が胸に広がる。
一年前よりも前向きに強く在れている、自信はある。だがそれはあくまで自己評価に過ぎない。心の強い彼から見たら、屁でもないような姿かもしれないのだ。
――それでも……。
事の区切りがついたのだから、顔を出さなければならない。
以前、彼にそう約束した。こちらから提示した一方的な約束であったが――また必ず会いに行く、と。
――大丈夫……あの人もそう言って下さった。
この山に――至t山に来る前に、興善寺と西廊国に立ち寄った。昔、水の中から浮上する手助けをしてくれた人達に、面と向かって礼と報告をしたかったからだ。
興善寺では戦争時に病で亡くなったという和尚の墓前に手を合わせ、これまでの不義を詫びた。それから西廊国に赴き、影喘――今は劉喘であるが――と再会した。
新しい道を切り開きました、皆さんに報告を終えましたらその道を歩んでいくつもりですと述べると、劉喘は笑って答えた。
『俺ぁ、お前にはその道が一番似合うと出会った頃から思っていたよ。寺の爺もずっとそう言っていた。あの山賊とかいう仲間にも報せたのか?』
いいえ、まだですと答えると、影喘の手がぐしゃっと頭を撫でた。
『何、暗い面してんだ。顔を上げろよ。……大丈夫だ。今のお前なら、な』
力強く、暖かい言葉だった。
有難い気持ちで礼を言い、西廊国を後にした。
そして今、此処に居る。
「翼宿……」
空を見上げ、ぽつりと山の主の名を呼ぶ。
否、それは正式な名ではない。山の主としての名は別に在る。
しかし、自分にとって相手は『翼宿』なのだ。それはこの先ずっと変わらないのだろう。
例えどんなに変わろうとも、彼にとって自分が『井宿』であるように。
笠を傾ける。
術を使えば一瞬であの山の上にある砦の中にいける。
だからこそ――。
お約束は守らねばならないだろうな、と李芳准は思った。
***
嫌な予感がする。
否――嫌な予感がした、と言った方が正しい。
事が起こってしまえばその予感はもはや過去のこと。取り戻せぬ虫の知らせに過ぎないのだ――が。
――せやからなんやっちゅうねん……っちゅうか。…………っちゅうかッ!!
「っちゅうかッ!!」
「中華がどないした」
「真顔でアホなボケかますな攻児ッ! っちゅうかッ……!」
――この背中の感触はっ……!
至t山の主、幻狼は顔だけで後ろを――否、上を見上げた。唐突に上から降ってきて自分を下敷きにした何か、いや『誰か』を確かめる。
人の背中の上で涼しい顔をしている相手を見やり、幻狼は驚愕の眼差しを向けた。
「井宿……!」
「翼宿……」
突如出現した仲間は僅かに目を伏せると、憂いを帯びた顔つきで告げた。
「もっと早く反応してくれないと、俺も返答に困るのだが……」
「知るかッ! いつまでお約束死守してんねん、さっさと降りんかいっ!」
はいはい、と答えながら井宿が背中から降りる。
幻狼は久々に顔を合わせた仲間を見つめ、その後、混乱に陥った。
――っちゅうか、なんで今っ……?!
此処にやって来るのだろうか。
この――絶望的なタイミングで。
ちらりと副頭を見上げる。刹那、眼が合った親友はふと笑んで、空気だけで頭に告げた。
『さすが井宿はんですね、お頭!』
――ぶっ殺すぞ。
相変わらず人の神経を逆撫でするのが上手い副頭である。
親友は頭から顔を逸らすと、客人に声をかけた。
「いやいやお久しぶりですねえ、井宿はん。長ぁい用事はもうお済になったんで?」
「お久しぶりなのだ攻児君。それが、もっとかかると思ったのだが、存外に早く済んで……。翼宿、大丈夫か?」
背中を摩っていた幻狼に向かって井宿が尋ねる。
至t山の主は慌てて頷くと立ち上がり、仲間と向き直った。
「なんや、お前…………」
なして急に、っちゅうか来るなら事前に連絡くらい寄越せ――等と続けようとして、声が詰まる。
井宿は以前に別れた時と、違う格好をしていた。
上等の服に袈裟、長い髪の毛に黒い布地の眼帯をつけた素顔。
それは一年と少し前に初めて見た姿。否、彼の師に強制的に見せられた姿である。
自分が知る『井宿』とは、少し遠い――。
「……お前、戻ったんとちゃうんか」
「え?」
「その格好。前会うた時は、戻っとったのに」
最後に会った時、彼は幻狼のよく知る『井宿』の格好をしていた。髪を短く刈り込んだ僧侶の姿――朱雀七星士の一人として活躍していた時によくつけていたお面はつけていなかったが、それ以外は全て幻狼の知る『井宿』の姿形をしていた。
「ああ……、君にとっては逆か」
合点がいったとばかりに井宿が頷く。元朱雀の仲間は、静かな声音で続けた。
「俺にとっては君の逆なんだ。過去の自分を捨てることはできないし、もう捨てる気もない。……これは、なんというか、俺が俺で在ろうとした結果なんだ。君には違和感があるかもしれないけれど……」
――違和感?
確かに在る。確かに在るが――。
「アホ。俺なんか関係あらへんやろ。お前がそうしたいっちゅうなら、そうすればええやないか。……似合うとるで」
長い前髪に指先で触れる。みずいろの髪の毛がさらりと指から零れ落ちた。
呆然としている仲間の眼を見下ろす。
――紅い……。
相変わらず、綺麗な――。
「攻児君……?」
――は?
攻児?
井宿が神妙な声をあげたので振り返ると、後ろにいた親友が口と腹を押さえて床に蹲っていた。
気配に気づいた攻児が顔を上げる。
「ちょお待て、ま、まだ笑ってへん、ふっ、ぷ、ッぎゃははははははははははぎゃあああああああああ!!」
爆笑のあと、悲鳴が砦内に木霊する。
烈火神焔の呪文と炎が副頭を襲ったことは言うまでもない。
「た……翼宿?」
何がどうしてこうなったのかいまいち理解していない井宿が、いいのかとでも言うように尋ねる。
その鈍感さを有難く、かつ残念に思いつつ――幻狼は溜息を吐きながら告げた。
「ええんや。――オイ、お前ら! 客人や、もてなせや。今日は宴じゃ」
控えていた山賊たちが、おお! よっしゃー! などと騒ぎ出す。
気を使わなくてもいいのだよ、と見当違いな謙遜をする井宿に向かい、幻狼は再度「ええんや」と返して、床に転がっていた副頭の胸倉を掴みあげた。耳元に唇を寄せ、井宿に聞こえないように小声で告げる。
「おい……例のアレ、アイツには言うんやないで」
「えー? ナンノコトカナー?」
「烈火神え」
「待て待て待て待て待てッ! お前最近安易にぶっ放しすぎやで、それ! っちゅうか俺が言わんでも、他の奴らが言うてしまうやろ。口止めしてへんし、する暇もないし」
「せやったらどないすんねん……ッ! っちゅうかお前どうにかしろや、こんな時のための参謀やろッ!」
「いやあ、いっそ知られた方が楽にな」
「いやー、それにしても井宿はん、ええ時に来はったわー」
部下の一人が明るい声を発して井宿に話しかける。
幻狼はハッとして顔を上げた。
「おい、ちょっ」
「いい時、とは?」
井宿が首を傾げて尋ねる。
待て、と叫ぶために息を吸った瞬間――。
賽は投げられた。
「実はうちのお頭、祝言をあげることになったんですわ!」
めでたいでしょう?
井宿はんも祝ってくださいよー。よー。よー…。よー…………。
無情な残響が脳内に流れる。
瞠目した井宿を見やり、幻狼は――とりあえず、隣りにいた副頭をぶっ飛ばした。
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