快適生活的バレンタイン
「お前、チョコ買ってやんねえのか?」
世話になっている寺の住職にそんなことを言われて、井宿は眉を顰めた。
誰の為に何の用でチョコレートを買う必要があるのか、全くわからない。
若い住職――自称・破戒僧の生臭坊主――は読んでいたスポーツ新聞から眼を離さずに「あのガキにだよ」と続けた。
「翼宿に……ですか?」
「もうすぐバレンタインだろ」
だから何だというのだろう。困ったように首を傾げると、それを見た住職が呆れた顔を差し出した。
「お前なあ、少しはあのガキを喜ばせてやれよ。ご褒美やらんと犬はストレス溜まるんだぞ」
「お――男からバレンタインにチョコレート貰っても、嬉しくないでしょう」
「お前恋人じゃねえか」
――そ。
それは、そうなのだが。
「こういうイベント無視すると拗ねるぞ、ガキは」
そうだろうか、と思いながら井宿は座布団の上で胡坐をかいた。
バレンタインなんてイベントにはここ数年まったく縁がない。甘いものが好きな井宿は、チョコレートをあげるよりもむしろ貰いたいなと思った。
仲間内だと、美朱からなら貰えるかもしれない。もしかしたら柳宿なんかもみんなに――というか星宿に――用意していそうだが。
「俺が渡して……喜ぶと思いますか」
「むしろお前のじゃねえと喜ばんと思うぞ。……ま、あれだけどな」
開いていたスポーツ新聞を閉じてテーブルの上に放り投げると、住職は煙草を一本咥えて火をつけた。ふう、と嘆息するように白煙を吐き出して。
「この時期に男がチョコ売り場になんか行ったら、自分用だと思われるけどな」
散々勧めておいて、最後に行きづらくなるようなことを言わないで欲しい。
井宿は苦笑しつつ「考えてみます」と答えて寺を後にした。
寺の住職とは長い付き合いで、彼は遠縁にあたる――らしい。随分前に父親から聞いた話だが、今は確かめようもない。
全てを失くしたあの日、行き場を失った井宿は寺に招かれた。そこで何とか自我を取り戻し、受験を乗り越えて、大学四年間は寺から通った。大学院に上がる時に寺からそう遠くもないところに部屋を借り、以後は一人暮らしを続けている。
自宅に帰った井宿はパソコンの電源をつけた。いつものようにまずメールのチェックをしてから、ニュースサイトに飛ぶ。するとピンクのハートに囲まれた記事が眼に飛び込んできた。
『バレンタイン・チョコレートギフト特集〜通販で楽々ショッピング☆〜』――。
――通販。
わざわざチョコ売り場に行かなくても、この手があったか。
これなら恥ずかしい想いをせずに済むと思った井宿は、バレンタイン特集の記事をクリックした。ページに飛ぶと、美味しそうなチョコレートの画像が溢れていて思わず見蕩れた。
――何がいいだろう。
生チョコもトリュフも美味しそうだ。ケーキ系は確かそんなに好きじゃなかった筈だから止めるとして、やはりプラリネの詰め合わせが色んな種類のチョコレートを楽しめていいかな――などと思いながらページを見つめる。
結局、大粒のトリュフが入ったセットを翼宿用に、プラリネの詰め合わせを自分用に注文することにした。ページをずっと見ていたら美味しいチョコレートが食べたくて仕方なくなったのだ。
早く届くといいな、とすっかりバレンタインの本来の意味とは違うところではしゃぐ井宿だった。
というのが、一週間ほど前の話である。
今日は二月十四日。聖バレンタインデーはあっという間にやってきた。今日は朱雀の仲間と集まる筈だったのだが予定が合わない人間が何人かいたので、日曜日に持ち越すことになった。美朱と柳宿がみんなの為にチョコレートを用意しているという話を聞いて、男性陣はチョコが手作りじゃないことを心から願った。この間、美朱の手料理を食べた鬼宿が腹痛により七転八倒してのた打ち回ったという話を聞いていたからである。
集会が中止になったという連絡を貰って数十分ほど経った後に、翼宿が家にやってきた。来るという連絡は既にメールで貰っていた。
「今日はバイトないんだ?」
「みんな集まる予定やったやろ」
ああそうかと答える前に、翼宿が持っていた袋を井宿に差し出した。
「お前、甘いもん好きやろ。これやるわ」
袋を受け取って、中を確かめる。綺麗にラッピングされた箱が何個か入っていた。
「……どうしたんだ、これ」
「学校の女から貰った。俺、甘いの好かんねん」
――あっ。
そうだった。根本的なことを失念していた、翼宿は甘いもの全般が苦手なのだ。
「そうか……」
「へ?」
「あ、いや……」
不思議そうな顔を向ける翼宿を横目に、井宿は口を濁した。
通販で買ったチョコならテーブルの上に用意してある。だが苦手なものだと理解した上で渡すのはどうだろう。
でもせっかく買ったのに渡しもせずに自分で食べてしまうのも、なんだかなあ――などと思いながら袋の中に視線を落とした。意外に箱の数が多い。翼宿はモテるのか、というかモテるならどうして俺なんかと――と考えて、その思考を遠くへ追いやった。そんなことを考えていたら眼前にいる少年と古い付き合いである住職に「いい加減にしろ」と怒られそうだ。
結局自分の胃の中に収まることになるかもしれないが、渡すだけ渡してみようと思い、井宿はテーブルの上に置いておいた、赤い包装紙に包まれた箱を手に取った。
「翼宿。一応、用意したんだが……これ」
包みを差し出すと、翼宿がぽかんとした顔をして井宿を見た。
「え?」
「チョコレート。バレンタインの……。あ、お寺の住職に勧められて」
「えっ、俺に? マジで?!」
赤い箱を受け取って、翼宿が明るい笑顔を見せた。うっわ、嬉しいわ!――と子供のようにはしゃぐ翼宿を見ながら、今度は井宿が彼にぽかんとした顔を向けた。
「でも、甘いの駄目なのだろう?」
「一気に全部は喰えんでも、少しずつならいけるて。おおきにな」
華やかに笑う翼宿の顔を見て、井宿も何だか嬉しくなった。開けてええか、との問いにこくんと頷く。
赤い包みを開けて箱を開き、大粒のトリュフを一つ摘んで「いただきます」と言ったあと、翼宿がチョコを口の中に放り入れた。
「ん、甘っ……けど美味いわ。酒効いてて」
「えっ。未成年だからボンボン系は避けたのに」
「そんな気遣いせんでええて。お前も食うか? ちゅうか味見したいんやろ」
バレバレである。
井宿は苦笑を返して、「その前にコーヒーを入れるよ」と告げて立ち上がった。
こんなに喜んでくれるとは思ってもいなかった。学校の女の子に貰ったチョコレートは開けもせずに横流ししたのに。てっきり今時の高校生はチョコなんて貰っても嬉しくないのかと思ったのだが、そうでもないのか。それとも翼宿が――。
「……君は優しいんだな」
「お前には敵わんて」
伝えるつもりもなく吐いた独り言を、少年が掬い取った。
――俺?
「俺は、優しくなんか」
「お前はな、」
井宿の言葉を遮った翼宿が、ココアパウダーがついた親指の腹をぺろりと舐めてから、視線を上げて眼を合わせた。
「優しすぎて相手を思いやりすぎて、自滅するタイプや」
断言されて井宿は困惑した。
合っているか間違っているかは置いておいて、そんなこと――七つも年下の子供に言われたくない。
そんな、解っている風に言われたくない。
――君は。
何も知らないくせに。
「まあ、そないなことどうでもええけどな」
鮮やかに前言を翻されて、呆気にとられる。
七つも年下の恋人はまだあどけなさが残る笑顔を見せた。
「自滅する前に俺が救ったるし」
やから問題あらへん、と続けた翼宿を、井宿は呆然と眺めた。
いつも言葉は唐突に、予想もしない角度から降ってくる。そんなに強くて暖かい言葉を何故それ程の自信を持って発することができるのか、井宿には到底理解できない。
救うと言い切るだけの自信が、何故この少年にはあるのだ。
井宿は小さく微笑を返してキッチンに向かった。鼓動が速く鳴っていることに気づいて、僅かに頬を染める。
何故彼と付き合っているのか、本当に彼が好きなのか――自分でも疑問に思うことは多々あった。
だが気づいてしまった。彼の告白を了承して、関係を持ってしまった本当の理由を。
――断りきれなかったんじゃない。
惹かれていたのだ。翼宿の絶対に曲がらない、折れない――芯の強さに。
手で口元を覆い、井宿は俯いた。
――どうしよう。
自覚したら急に緊張してきた。嬉しいけど、ドキドキし過ぎて胸が痛くて、どうしたらいいか解らなくなる――昔一度だけ経験した、あの感覚。
最高の幸福は、最低の結果だけを残して潰えたけれど。
「井宿?」
びく、と身を震わせて後ろを振り向く。いつの間にか翼宿が横にいて、井宿は驚いた。
「どないした? 具合でも悪いんか」
いやと首を振ったが、少年は心配そうな眼を向けた。大丈夫だと答えてコーヒーメーカーに手をかけようとしたが、腕を取られて身体を引き寄せられた。
眼前に迫る翼宿の眼を見てドキッとする。
綺麗で澄んでいて力強い、活きている眼。
「お前の『大丈夫』はアテにならんからなあ」
――それは。
昔から、よく言われた。住職にも――家族にも彼女にも親友にも。
心が動揺する。辛いのか痛いのか悲しいのか解らない。
ただ何故か、彼の眼を見ていると――いや、彼に見られているのだと思うと、安堵した。
もう、独りじゃない。
井宿はぎゅっと眼を瞑って、翼宿にキスをした。
六年前の自分の罪を忘れたわけじゃない。だけど、だけど――。
見つからない言い訳を必死になって探した。だがどれ程考えても自己を正当化できるような詭弁が思いつかない。結局、いつものように頭の中で「ごめんなさい」と謝罪を繰り返そうとした時――口の中にミルクチョコレートの甘い味とブランデーの香りが広がった。
翼宿が食べた、トリュフの味。
「なっ? 美味いやろ」
顔を離した翼宿が惚けたふりをして言った。
七つも年下の恋人の眼差しは暖かくて、優しくて。
『自滅する前に俺が救ったるし』
――本当、だ。
いつも、君は。
全く予想もしていなかった角度から侵入してきて、颯爽と俺を救ってしまうんだ。
こんなに、こんなに簡単に。
「ああ……美味しい」
そう返すだけで精一杯だった。
にやっと笑んだ翼宿にぎゅっと抱き締められる。彼の暖かくて頑丈な腕に包まれながら、井宿はその温もりに浸った。
何も考えずに、今はただ――口の中に残るチョコレートの香りと共に、二度目の最高の幸福を味わっていたかった。
080214