包括された温度
「オイラが?」
訝しげに尋ねると「他に誰がおんねん」と笑われた。
笑った砦の主は寝台に半裸で寝そべり、時折橙色の頭髪を掻き回しながら書物に眼を通している。
――孫子の兵法、簡易訳版。
表紙の形式を見て、彼が読み耽っている書物の正体を井宿は看破した。そして何年か前、倶東国との戦争の折に原版を読み返したことを思い出した。逝ってしまった仲間が――張宿が生前に注釈をつけてくれていたお陰で、大層読み易かったことを覚えている。
「相手は無法者やで。お前の嫌いな」
「……山賊に力を貸す理由にはならないのだ」
「仲間ちゃうんか? 俺ら」
解りきったことを聞く男だ。井宿は少々むっとして、口を閉ざした。
ここは厲閣山――自称、紅南国いちの山賊が支配している山である。他の山賊と比べると比較的紳士で礼儀正しく、義理人情を重んじる彼らは、常に同業者から喧嘩を売られていた。
人に好かれる職業ではない。それなのに厲閣山の山賊は下界の人間たちと上手に生きている。同業者達にはそれが気に喰わない。賊のくせに正義漢ぶるな、目障りだ――嫉妬と羨望を入り混じらせた主張を叩きつけ、そんな山賊の形式はありえない、認めないと憤り、しまいには剣を取る。
彼らの言い分も解らなくはない。厲閣山の山賊は、義賊に近い。所詮は皆、同じ盗人であるくせに、自分達はいかにも正しいという振る舞いが他の山賊には我慢ならないのだろう。
では本当に、厲閣山の山賊たちは義賊として正義の味方を気取っているのだろうか?
厲閣山の内部事情を知る井宿には容易に解ける――答えは否だ。此処に住まう山賊たちはそれほど自意識過剰でもなければ、馬鹿でもない。
むしろ同業者達は厲閣山に扇動されていると言える。この砦の主はいつだって、敵に飢えているのだ。
「お前が何人か率いて横から叩けば挟み撃ちにできるんやって」
「断るのだ。……君ももう止めたらどうだ。そんな遊びは」
退屈だから喧嘩をしている――だけなのだ、彼らは。
だがそんな退屈凌ぎの喧嘩でも、時には死者が出る。漂う悲しみは憎しみに変化し、その気持ちが敵方に向かうことでまた新たな犠牲者を出し――そうこうしているうちに断ち切れぬ連鎖が生まれる。
そんなことに一体何の意味があるというのだろうか。
「遊びちゃうて。本気や」
「それは余計に性質が悪いのだ」
「お前、俺をなんやと思ってる」
書物から眼を離して、砦の主が――幻狼が、――井宿にとっては翼宿が――顔を上げた。真顔から放たれる眼光は茂みに潜む狼の様に鋭い。
自分には絶対に持ち得ないその獣染みた強さに、井宿は僅かな憧憬を抱く。何もかも包括してしまうような、デタラメな強さを眼前にいる男は誇っていた。
井宿はずれ落ちてしまった上着を肩にかけ直して、翼宿から眼を逸らした。数時間前に火照った身体は、夜風によって既に冷えている。
「……君は賊なのだ」
「わかっとるやないか」
「開き直るな」
「何がそんなに気に喰わんねん」
――俺が俺だからだ。
答えは直ぐに出る。七星士の任を終え、過去との決着がついた今――井宿は、『井宿』ではなくなってきている。
ここ数年、過去に葬った筈の、置いてきた筈の自分がひょっこりと顔を出すようになった。過去を乗り越えることで再び己の中に現れることを許された『芳准』が徐々に井宿と溶け合っていく。
そうして井宿の『争い嫌い』に拍車が掛かった。
「……戦がそんなに楽しいのだ?」
「何、拗ねとるんや」
――す……。
拗ねるだと?――井宿は額に青筋を浮かべて、寝台に横たわる男を睨みつけた。
会話が噛み合わないのは珍しいことではないが、今日の翼宿は明らかにわざと話を混ぜっ返している。狙い通りに煽られている自分も情けないが。
抗弁しようとした矢先、翼宿の口が動いた。
「俺がお前の生き様に文句言うたことあるか?」
僅かに眉を寄せる。
人を脅す声音。それを聞いて、初めて彼を怒らせたことに気づいた。
それも恐らく、腹の底から。
「何が流浪の旅人や、いつまで人間から逃げ続けるつもりや――って、お前に言うたことあるか? ――……俺に、」
俺に、なんでこんなこと言わせんねん、お前。
そう続けて、橙色の頭が僅かに項垂れた。
井宿は茫然とそれを見つめた。動揺と困惑で頭は混乱している。そしてあまり気づきたくなかった己の現状を察してしまい、酷く――戸惑う。
いつの間にか彼を自分のものだと思い込んでいた。より大事な人だから、より近しい人だから、つい口が出る。超えてはならない領域に簡単に足を踏み入れる――そう、此処は彼の砦。彼の城。山賊でもない自分が意見などするべきではなかったのだ。それは領域の侵害に他ならないのだから。
改めて己の言動を振り返る。まるで、実情を知りもしないのに夫の仕事に片っ端から文句をつける愚妻のようである。
彼はちゃんと、領域を遵守してくれたのに。自分はそれに気づきもしないまま、ただ再び手にした幸福に浮かれるばかりだった。
己の愚かさにほとほと呆れ返り、声も出ない。だが身に溢れる想いが言葉を吐き出せと強要する。彼が大事だという気持ちは確かなのだ。だから――。
額に手を当て、窓の外を見やる。暗闇に月が煌々と映えていた。自然と胸が高鳴る。
――こんなに。
こんなに、填まる筈じゃなかったのに。
だがもう遅いのだろう。堕ちた今となっては。
だから腹を括るしかないのだ。……括れる程の腹がなかったとしても。
「翼宿。すまない、オイラは」
「聞かん。っちゅうか何があろうと、お前と切れるつもりはあらへんし」
「……オイラだってないのだ」
顔を上げた翼宿の眼が点になっている。
ああ、と納得して井宿は翼宿と向き合った。
――ずっと、それが欲しかったのだね、君は。
オイラの口から、保証が。
「どうやら君の作戦勝ちのようなのだ。オイラは……君と生きていく」
口元に微笑を讃えて、井宿は告げた。
固まっていた翼宿の顔が徐々に和らいでいく。だが口を開いた翼宿を遮って、井宿は先程のお返しをした。
「でもオイラはどう足掻いてもオイラだから、やっぱり君の山賊家業の片棒を担ぐのは御免だし、さっきのどさくさ紛れに君が放った、オイラが逃げ続けてる云々の話にはけっこう腹が立ったので暫く此処には来ないのだ」
「っな! なんやそれは、お前が始めに突っかかってきたんやろが」
「頷かないと解っていながら話を持ちかけた君が悪いのだ。……途中までオイラの反応を見て楽しんでいただろう」
うっ、と翼宿の顔が引き攣る。指摘されると誤魔化せないところは昔から変わっていない。
井宿はふと笑んで、腰掛けていた窓枠から移動し、寝台に座っている翼宿の前に立った。橙色の髪に浅く手を通す。
「抗争が終わったら、また来るのだ。……あまり無茶をするのではないよ」
「お前、いつまで俺のことガキ扱いやねん……」
「いつまでも、なのだ。年長者の言うことは聞かないと駄目なのだ」
「七つ差なんて大して変わらんやろ」
「あんまり言いたくないが、けっこう変わると思うのだが……」
さよかあ?、と首を捻った翼宿が、ぐいっと井宿の腕を引っ張った。勢いで二人とも寝台に倒れこむ。
「だっ……翼宿、」
「冷たっ。お前、冷えすぎ……よっしゃ、暖めたる」
「気持ちだけで結構なのだ」
「まあ遠慮せんと。ほらまだ外も暗いし」
「いや……多分もう直ぐ暁」
「細かいこと気にすんなや」
「君はもう少し細かいことを気にして生きた方がいい、の」
だ、まで紡がれることなく、唇が塞がれる。
こうなるともう抵抗する気も起きない。というよりも、自分も案外その気なのかもしれないと思い、井宿は微かに顔を赤らめた。
翼宿は七つ差なんて大したことはないというけれど――もしかしたら、本当にそうかもしれない。少なくとも自分は、周りが思っているよりも、そして自分が思っているよりも、大人ではないのかもしれない――二十何年と生きてきて、三十路も見えて来たというのにまた随分と情けない話ではあるが。
それでも焦燥を感じないのは、今在る自分に少しでも自信を持てているからかもしれない。
――いずれにしても断言できないところが、本当に情けないな。
思わずくすっと笑ってしまう。首筋に埋めていた顔を上げた翼宿が「なん?」と小さく尋ねた。なんでもないのだ、と返して井宿は、年長者ぶって余裕をひけらかした。
「ほら、早くしないと夜が明けてしまうのだ」
「ええやん、明けても」
ばっさり返り討ちに遭い、がくりと項垂れる。余裕を保って先導するなんて自分には十年早いのかもしれない。そもそも、こういう経験自体が少ないし――というか恋愛自体がアレ以来なんだから、上手くいかなくても無理はないのだ。そう自分を慰めながら井宿は翼宿に身を任せた。
体温が緩やかに上昇していくのを、彼の肌の下で感じた。
080702