因果の小車
1
導きは空に、
道程は地上に、
正解は彼方に。
生きる場所を求めて、
旅人は死す。
因果の小車
叩き落された。
男はそう思った。
叩き落された。
地上を歩いていたのに、叩き落された。絶望の水底へ。
男は其処の不快さを知っていた。
男は其処の哀しさを知っていた。
男は其処の深さを知っていた。
まるで底のない底なし沼。泳いでも泳いでも抜け出せない、這い上がれない水の中。
絡まる水に四肢の自由を奪われ、水面に光る太陽をただ絶望の眼差しで見上げる。
必死に手を伸ばすが、届かない。
何度やっても。
――駄目だ。
駄目だ、こんなのは。
いけない。
ここから抜け出さなくては。
――俺は。
また戻るのか。
あの頃の自分に。
また沈むのか。
――嫌だ。
嫌だ、嫌だ。そんなのは。
ここで諦めたら全てが無に帰してしまう。
全てが無駄になる。出会いも、別れも、経験も、全て。
ここで諦めたら――。
裏切ることになる。
大切な、大切な人たちを。その人たちから貰った優しさを、温もりを、言葉を。
――みんな……。
頼む、お願いだ。どうか、どうか力を、俺に。
男は水中で足掻いた。
足掻いて、足掻いて――藻に足を取られる前に、水面に顔を出した。
高い空に浮かんでいた照りつける太陽を見上げ――男は手を伸ばした。
――届かない。
届かない?
いや、違う。
届くんだ。届かせるんだ、無理でも無茶でも構わないから、どんな壁が立ちはだかっていたとしても乗り越えてみせるから……!
――頼む……!
俺は『あれ』からいつも自分を無視し続けてきた。
自分のことを信じたことなどなかった。信じられるわけがなかった。だからいつ死んでも構わなかった。自分が大切だと思ったことなど一度もなかった。
でも、今は――。
太陽から降り注ぐ日差しが男の体を包み込む。
すると光りが四方に弾け、そして――。
男の選択肢を、少しばかり増やした。
「井宿……?!」
驚愕の色を含んだ声音で名を呼ばれ、井宿は僅かに顔を上げた。
久々に――かつ唐突にいつもの瞬間移動で訪れたのだから、驚かれるのも当然だと頭の中の冷静な部分が考える。
だが、かくいう井宿自身もこの訪問には驚いていた。混乱の最中に行った、まったく無意識の行動だったからだ。体が勝手に相手の気を掴んで移動してしまったらしい。
「なっ……お前、どないしたんや」
久しぶりに会った仲間――翼宿の質問にどう答えるべきか迷いながら、辺りを見回す。
翼宿がいるのならここは彼が住まう至t山の砦の中かと思ったら、木々が生い茂る林の中にいた。しかも夜中なので辺りは真っ暗だ。月や星が放つ明かりのお陰で、やっと相手の顔の判別がつくくらいだった。
「おい、井宿」
呼びかけには答えずに俯く。
何と言ったらいいか解らなかった。井宿は未だに混乱の最中に在る。
仲間の反応に不審を抱いた翼宿が、井宿の肩に手を置いて彼の顔を覗き込んだ。
「なんやお前、急に現れて何したん……」
語尾が萎んで消えてゆく。
井宿の顔を覗き見て、翼宿は驚いていた。
ああ、と井宿は思う。
いつものお面はつけていない。彼は素顔のままだ。
だから――自分は今きっと、とてつもなく情けない顔を晒しているのだろう。
ふと気が緩む。
すると、今まで堪えていた雫がすうっと頬を伝った。
「井宿……?」
仲間が戸惑いの声を発する。
井宿は倒れ込むように地面に両膝をつけると、両手で眼前に居る翼宿の服を掴んだ。
「解らないんだ」
それは顔を近づけないと聞き取れないくらいの、小さな呟きだった。
案の定、翼宿から「え?」と尋ね返される。
井宿は俯いたまま、仲間に表情を見せぬまま、答えた。
「解らない……俺には……」
相手の様子が尋常ではないと察した翼宿が、しゃがみ込んで井宿の両肩を掴んだ。軽く揺すって顔を上げさせる。
「おい、一体どないしたんや! 何かあったんか?! あったんならいうてみい、聞いたるから……!」
井宿は何も考えられない頭で、過去を回想する。
それは水面に顔を押し付けられた時の記憶。
絶望を知った刹那の困惑と――怒り。
個人の教訓は世界の教訓には成り得ない。
色んな大地を踏み締めて、世界の広さを知ったつもりでいた。でもそれはあくまで『つもり』に過ぎなかったのだ。
そして今日、井宿は――李芳准は思い知った。
自分が如何に無力で、如何に弱い存在なのかを。
能力なんて何の役にも立たない。己の経験も、生き様も、何も。
何も通用しなかった。
何も出来なかった。
そして逃げた。
自分を守るために、逃げた。
自分の心を。
「どう、しよう」
どうしよう。
もう、もうあそこには。
「……井宿。話せや。何があったか、全部」
優しく温もりに満ちた声が降り注ぐ。
大切な仲間たち――彼らがいたから、自分はここまで戻れた。
水底から、この地上まで――。
井宿は小さく頷いて、事の次第を語り出した。
人間の、人間であるが故の――因業の話を。
090920