因果の小車

    




 男は鏡の前に居た。
 眼前に相対している自分を見つめる。全て元に戻ったことを確認して、男は鏡から離れた。
 床にはそれまで着ていた服と帯紐が散乱している。以前に着ていた旅装束を身に纏った男――李芳准、朱雀七星士の井宿は、脱いだ服を畳んで寝台の上に置いた。
 これであとはお面を被れば完璧だ。そうしたら少し前の自分に戻れる。
 三月ほど前のこと――井宿はこの世界を統べる天帝、太一君により朱雀七星士としての能力を制限され、ある術をかけられた。それは過去の頃の――十代の頃の姿、格好に戻るというものだった。
 その後、太一君が長い眠りにつき、井宿の能力に対しての制限は解除された。だが変わった髪形や格好までは戻らず、自分で元に戻すしかなかった。
 ――元に……。
 戻す必要が、どこにあるのか。
 その答えを出すまでに三月かかった。
 実際、十代の頃の姿でも何の問題もなかった。
 左眼を覆う痛々しい過去の傷跡は、お面など被らなくても眼帯で隠すことができた。四年前の倶東国との戦争で戦傷者が大勢出た所為か、体に傷を持った人間は少なくなく、眼帯姿で歩いていても異端者を見るような視線を感じることはなかった。
 何も不自由ではないのに、何故元の姿に戻す必要があったのか。
 三月かけて出した答えはこうだ。
『どちらかといえば、旅装束の方が楽だ』
 ただそれだけだった。
 ただそれだけの理由に、井宿は逃げた。
 いつの間にか素顔を隠すことに慣れてしまった。道化の位置に収まるのも一興だろう、いつまでも飄々と流浪の旅を続けて仙人のようになるのも悪くない。昔、庶民の英雄として親しまれた『天狐の眼蝉様』のように。
 井宿は刈り込んだ髪の毛に触れた。
 太一君の術は全て解除された――筈なのに、髪の毛だけは幾ら切っても切れなかった。切った端から元に戻ってゆく。井宿の頭部だけで師の術は生きていた。
 仕方ないので、井宿は同じく術――変化の応用である――を使って髪を刈り込んだ。といっても太一君の術の上に自分の術を重ねているだけだから、解けばまた長い髪に戻る。
 ここまでしなくても、と自分でも思ったが、髪が長いままでは何も変わらない気がしたので切った。それに刈り込んだ髪は一度出家した証だ。今も一応、自分は僧侶なのだから――。
 ――……一応、か。
 仏での師であった、和尚の言葉が頭に響く。
 井宿、そなたは――。
『坊主に向いとらんよ』
 それは破門も同義だった。
 井宿は思う。
 それは今の自分もそうなのだろうか。今こうして在る自分も、やはり坊主には向いていないのだろうか。
 だがその疑問に答えられる人間はもうこの世にはいない。世話になった和尚は四年前に既に他界している。
 太一君が眠りについてからずっと、井宿は自分が何をしたいのか考えていた。
 自由気ままな旅を続けるか、何か定職につくか。改めて出家し、慰霊に努めようかとも考えた。だがどの答えもしっくりこなくて、井宿はそのうち考えるのを止めた。
 今はまだ答えが出ない。ならば仕方ない、とりあえず以前の生活を続けよう。
 そうして井宿は流浪の旅人である自分を選んだ。
 それもやはり、結局は――それが楽だから、だろう。
 現実から逃げていることは自覚している。だがどの現実を選べばいいのか、今の自分には解らない。むしろ現状維持が最善じゃないか、という気持ちも少しはある。
 放浪だって楽なことばかりではない。旅をすることによって得るものは沢山あると思う。だから旅人で在り続けることにも、きっと意味があるのだ。
 数珠を下げ、袈裟を羽織る。術で作り出したお面を手に取り、顔に貼り付ける。
 改めて鏡の前に立った。
 眼前に相対している自分を見つめる。全て元に戻った。
 鏡の中の自分は笑っている。
 お面の奥に隠された自分は別に、笑っちゃいないのに。
 ――ああ……。
 いつも、常に、嘘を吐いている。
 自分に、他人に、世界に。
 それは失礼なことではないのだろうか。
 今更そんなことを感じて、思わず苦笑する。そしてあることに気づいた。
 このお面が、少しだけ煩わしいと思い始めている。
 それは――。
 ――……もう、なくてもいいということか。
 『井宿』である自分は、過去の自分が無理やり捻り出した別人格のようなものだ。
 生きて、生き続けて、強くなって闘う為には、昔の自分を一度横に置いて新たな自分を構築する必要があった。そうして出来上がったのが今日の井宿だ。
 だがもう朱雀七星士としての役目は終わった。強大な敵と闘う必要はもうない。第一、二年前の天コウとの戦いで、何よりも敬愛する仲間たちに本当の自分を知られてしまった。今更何も隠すことはないのだ。
 そう解っていても、なかなか思い通りにはいかない。何せ『李芳准』から眼を背けてもう十年近くになる。
 過去の自分を井宿は覚えていなかった。
 覚えているのはあの陰惨な過去と、その後の地獄のような日々のみだ。父の顔も母の顔も妹の顔も――愛した許婚の顔でさえ、おぼろげにしか思い出せなかった。
 親友の顔だけは二年前に見たので、はっきりと覚えている。だがそれまでは家族や許婚と同様に忘れていた。彼が好んで使っていた香を嗅がなければ、思い出せなかったかもしれない。
 記憶なんてそんなものだ。どんなに印象深いことでも、過ぎ去れば細部など忘れてしまう。
 だがそれで良いのだと井宿は思う。
 良くも悪くも、色んなことを忘れるから人は生きていける。記憶を抱え込みすぎても、それは重い荷物となるだけだ。
 ただ――そんなことが言い訳になるなんて、思ってはいないけれど。
 井宿は支度を終えると、宿を出た。
 眩しい太陽の光りを浴びて眼を細める。
 彼には行く場所があった。否、行かなければならない場所があった。
 あれからずっと背を向け続けてきた場所。
 行こうと思っても、どうしても足を踏み入れることができなかった場所――。
 ――もう、いいんだ。もう……。
 全てに、決着をつけなければ。
 己の手で、己の過去に。
 全てを失ったあの洪水から十年の歳月が流れた。
 幸いなことに憎しみ合った親友とは晴れて和解できたし、そのお陰で自分も立ち直れたように思う。それでもあの場所に赴くことには抵抗があったが、眠りについた師が井宿の背中を押してくれた。
『世界も、そなたら自身の道程も――そなたらなら大丈夫だと、信じている』
 太一君は――天帝はそう言った。
 その言葉を裏切るわけにはいかない。大切な方が遺してくれた、大切な言葉だから。
 井宿は手にした錫杖を鳴らすと、目的地に向かって歩き出した。
 行かなければならない場所。
 水に犯され、一度死に絶えた土地――昇龍江の付近に在った、我が故郷へと。



 十年前に起きた昇龍江の大洪水は、紅南国の歴史上で他に類を見ないほどの大規模な災害だった。
 何日間か続いた大雨が昇龍江の水位を上げ、しまいには堤防が決壊して氾濫に至った。昇龍江付近にあった街や村の幾つかが水に飲み込まれて壊滅状態に陥ったほどであるから、相当な威力であったといえる。
 予想を大きく上回る被害報告を受けて、都は混乱した。支援物資の手配、調査団の編成、堤防の修復――どれを取っても官吏内で喧々諤々とした対立が生じ、被災者に対する迅速な救援は叶わなかった。その結果、多くの二次被災者を生み出し、昇龍江付近は文字通り死の土地と化した。
 その後、荒廃した土地が今どうなっているのか、井宿は知らない。
 故郷の話には積極的に耳を貸さないようにしていた。聞いてしまえば考えてしまう、考えてしまえば沈んでしまう、沈んでしまえば前を向くことが困難になる――。朱雀七星士としての任をまっとうしなければならなかった自分にとって、故郷の情報は邪魔以外の何ものでもなかった。
 そんな井宿に、あえて彼の故郷の情報を流した人物が居る。それは同じく朱雀七星士の一人で、前紅南国皇帝であった星宿だった。
『井宿。そなたの故郷のことだが――』
 二年前、親友との戦いを終え仲間と合流し、これまでの経緯を話した後――星宿がそっと近付いてきて、気遣うように声をかけてくれた。
『洪水による被災状況についてはよく覚えている。私が帝となってからも混乱は続いていたようだ。その対応といってはお粗末かもしれないが、被災地に慰霊碑を建立した。石碑に把握しているだけの死者の名を刻んである。……気が向いたら、そなたも一度訪れてみるが良い』
 皇帝であった星宿の心遣いに、井宿は深く感謝した。
 ――川のせせらぎが聞こえる。
 十八でこの地を発つまで、いつも耳にしていた音。
 井宿はその音に導かれるように道を歩いた。その先には、雄大な川がその身を横たえていた。
 昇龍江――その昔、龍がこの川を昇って天に至ったという伝説の大河である。
 穏やかに流れる川の水を見つめ、井宿は運命とは不思議なものだと思った。
 もし、天コウとの戦いで親友と――飛皋と再会し和解していなければ、恐らく自分は一生ここには戻ってこれなかっただろう。たとえ戻れたとしても、この昇龍江を一目見た瞬間に精神を揺さぶられ、狂気の道に迷い込んでしまったであろうに違いない。
 今の心境とて平穏とは言い難い。過去を振り返る度に、悲しみと悔しさが体の内側で燻る。それはきっと、死ぬまでそうなのだろう。
 井宿は昇龍江に向かって一礼すると、この近くにあるらしい慰霊碑に足を向けた。場所は既にこの地の近くに住む人に尋ねて知っている。
 一歩一歩と大地を踏み締めながら、その感触を確かめる。方々に耳を澄ましては、川のせせらぎや小鳥の鳴き声に聞き入る――。
 ――……穏やかなものだ。
 水の浸食を受けながら、自然というものは逞しい。
 昔に見た景色である筈なのにちっとも懐かしく感じないのは、木々の配置や成長具合が変化している所為なのかもしれない。
 それだけ時が流れたということだろう。何せもう十年になる。
 井宿はそこで足を止めた。
 昇龍江から少し離れた場所、林を背にした平原にそれはあった。井宿の背丈よりも大きい石碑が三つ、囲むようにして聳え立っている。中央の空いた空間に手向けられている献花が、この碑に慰霊に来る人々が今もまだ居ることを教えてくれた。
 昇龍江洪水被災慰霊碑。
 それがこの石碑の名前だった。
 建立責任者として彩賁帝の名が刻み込まれている。その名に一礼すると、井宿はしゃがみ込んで静かにお面を取り外した。
 石碑には沢山の人の名が彫り込まれている。軽く目で追うと、幾つか記憶に残っている名前を見つけて胸が痛んだ。
 ――あ……。
 正面に聳え立つ石碑の中央に、他の者よりも若干大きめの文字で一つの名が記されていた。官吏であった生前の功績を讃えて、とのことだろう。
 それは父の名前だった。
「父上……」
 その近くには母と妹の名。そして――。
 李芳准。
 ――……俺も、か。
 どうやら死んだことになっているようだ。
 洪水が起きてから今まで親族や知人と顔を合わせたことはないし、七星士として公の場に赴いても素性は明かさなかったから、この慰霊碑に自分の名が刻まれているのは然程不思議なことではなかった。
 聞くところによると、洪水で出た遺体の身元確認はとても困難なものだったらしい。確認する前に埋葬してしまった件も多く、犠牲者の詳細は今なお把握出来ていないのが現状である。誰が死んで誰が生きているのか、正確なところは誰も解っていないのだ。
「っ……」
 井宿はまたも知っている名を見つけて顔を歪めた。
 それは最愛の人たちの名。
 大好きな親友と、愛した許婚の――。
 強く拳を握る。痛みを感じるくらいに。
「……すまない……来るのが、遅くなって……」
 ここに眠っているわけではないことは解っている。あちらこちらで見つかった遺体は、概ねその場で埋葬されたと聞いた。進んで運搬したがる人間はいなかったし、また腐敗を嫌った役人達が見つけた遺体は直ぐに埋めるか燃やすようにと通達を出したからである。
 だからここには誰も眠っていない。
 それでも言わずにはいられなかった。
「父上、申し訳ありませんでした。母上、睡蓮……すまなかった」
 守れなかった。誰一人として、守れなかった。
 自分は朱雀七星士として生まれてきたのに、誰も。
「俺は……」
 どんな言葉を紡いだらいいのか解らなくなって口篭る。
 井宿はただ、微風に靡く献花の花弁を見つめた。
 風が吹いている。木々が囁く声が聞こえくる。時が経って行く。世界が回っている。
 その中で生きている自分がいる。
 井宿は目を瞑った。
 今はもう、死にたいとは思わない。朱雀の仲間達が自分の心を救ってくれたから。しかしだからといってこれからどう生きるべきなのか、井宿にはそれが解らない。
 結局、問題はそこに帰結するのか――と思った瞬間、後ろに誰かがいる気配を察して振り返った。
 そこには花束を抱えた壮年の女が立っていた。怪訝な顔つきで井宿を凝視している。
「あんた……」
「あ、……すみません、怪しい者では……」
「いや、そうじゃなくて」
 女は井宿に近付くと、その顔をやはりじっと眺めて――「やっぱり」と呟いた。
 ――え?
「あんた、もしかして……芳准じゃないかい? 官吏の、李家の長男の」
「えっ? ど――どうして、それを」
「本当かい?! ああ驚いた、生きてたんだねえ!」
 良かった、良かったよう、と言って女は花束を放り投げ、井宿に抱きついた。
「あ、あの、」
「なんだよもう、忘れちまったのかい? 私だよ――六軒先に住んでた、糸屋の」
 ――六軒……?
霞蓉(かよう)おばさん……?!」
 脳が認識するよりも先に口が動いた。そして自分の口から漏れ出た名前に、改めて驚く。
 実家の六軒先にあった糸屋の嫁である霞蓉は、井宿の叔父の妻の妹だった。叔父の一族が近くに住んでいたこともあり、霞蓉が糸屋に嫁に行く前から井宿は彼女のことを見知っていた。
 あの街は水に呑み込まれた筈なのに、生存者がいたなんて――。
 ふふ、と霞蓉が笑った。
「おばさんじゃなくてお姉さんだろっ! って、昔よく言ったねえ。今はもう本当におばさんになっちゃったけどね。でも、あんたも立派になって……生きてたんだね、芳准。本当に良かったよ」
「お――……霞蓉さんも……生きて……」
 急に胸に込み上げてくるものがあって、井宿は口を噤んだ。
 生きていた。俺を知る人が、生きていた――その事実が、ただどうしようもなく嬉しくて。
 あの洪水を乗り越えて、生きていた。
 ただ、ただその事実が。
「生きていたよ。あんたも、生きていてくれたんだね。……ありがとうね」
 ――はい……。
 生きて、生きていました。
 胸を張れるような道程は決して歩んで来なかったけれど、それでも。
「おばさんも……ありがとう……」
 井宿はそう呟いて霞蓉を抱き締めた。
 十年の時を経て再会した二人は、懐古の情に浸る間もなく――ただただ、互いが存在し続けていたことを讃え合った。
 
 
  

















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