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因果の小車

    




 豪雨により大河が氾濫し、大洪水が発生して死に絶えた筈の土地。
 多くの犠牲者を出した『昇龍江の大洪水』から十年――被災地には、幾つかの小さな集落が形成されていた。昇龍江付近にあって洪水に呑み込まれた街や村の生存者たちが寄り合い、かつて賑わいを見せた故郷の復興を夢見て、日夜働きながら暮らしているのだという。
 この十年、役人達と連携して決壊した昇龍江の堤防を復元するなど、住民達は数々の災害防止策を実施してきた。水に犯された畑や水田も生き返り、人口も徐々に増加してきている。その内また自分たちが住んでいた街のような活気を取り戻すことができるだろうと、霞蓉は言った。
「まだまだ商家なんて少ないけど……人が増えれば都の商人たちも顔を出すようになるだろう。また栄陽に負けないくらいの街になるさ」
 過去の故郷の景色を思い出しつつ、井宿は生き残った人々の逞しさに胸が詰まった。
 自分が目を逸らしていた間にも、故郷は確実に復興へと足を歩めていた。その事実に同郷人として誇りを、そして過去から逃げていた者として己を恥ずかしく思った。
「おば……霞蓉さんは、今も糸屋を?」
「したくても、布屋も仕立て屋もないからねえ。今は役場の手伝いをしながら畑を耕しているよ。――さあ、ここだ。入って入って」
 一軒の民家の前で止まると、霞蓉は扉を開け「あんた、いるかい?」と中に向かって声をかけた。
 彼女の後ろを歩いていくと、室内には男が一人椅子に座っていた。井宿は小さく会釈しながら、ああと思い出していた。
 ――糸屋の旦那さん……。
 霞蓉が井宿の背を押して、男の前に立たせた。
「あんた、覚えているかい? 六軒先の李家の嫡男」
「え? り――李家って……ほ、芳准か?!」
 男は椅子から立ち上がると、井宿の両肩を掴んでじっと顔を覗き込んだ。
 井宿は微笑して頷く。
「李芳准です。ご無沙汰しております……、ご無事だったのですね」
「本当に――本当に芳准か……、こ、こんなことってあるのか、」
 戸惑う男に霞蓉は「私も驚いたよ」と豪快に笑って告げた。
「偶然、慰霊碑の前で会ったんだ。吃驚したよ。芳准、覚えているかい? 私の夫で、糸屋の主人の」
(しん)だ。秦伯秀(しんはくしゅう)。驚いたな、生きていたのか……いやあ、良かった」
 何度か井宿の肩を叩くと、伯秀は感慨深げに呻いた。
「君のお父上には世話になったんだ。店の経営も、霞蓉との縁談も……懐かしいなあ、本当に良かったよ。こんなに嬉しいことはない」
「はい……、俺も、とても嬉しいです。お二人が無事で……」
 伯秀とは、彼と霞蓉の祝言の際に初めて顔を合わせた。それまで父の口から何度か名前を聞いていたが、実際に話したのはそれが一番最初だったと井宿は記憶している。
 代々続く糸屋の跡取りで、言葉を交わすごとに内面の優しさが滲み出てくるような好青年だった。彼なら霞蓉を任せられると、幼い頃の井宿は生意気にもそう思ったものだ。
「さあ、座って。十年分の話を聞かせておくれよ」
 茶道具を用意した霞蓉が席を勧めてくれたので、井宿は首肯して座った。
 それにしても何故、水に呑み込まれた街にいた筈の夫婦が揃って健在なのか――気になったので、井宿は思い切って尋ねてみた。
「ああ、私らかい? 実はね……なかなか単純な話でね」
 霞蓉が苦笑しつつ夫に視線を送った。その視線を受け取った伯秀が続きを答える。
「ああ……。あの日――あの洪水の日……私達は偶々、都の方に仕入れに行っていたんだよ。だから被害を免れたんだ。普段なら霞蓉を伴って行くことはないんだが、あの時は……仕入れついでに偶には夫婦水入らずで羽を伸ばそうと思ってね。家の中が少しゴタゴタしていたものだから、息抜きにと……それがまさか、あんなことになるとは……」
「あの時は都の方も大雨で、うちらは戻るに戻れなくなっちゃってね。ここに帰ってきたのは何ヶ月も後のことだよ。その時は……もう水に全て攫われてしまって、ほとんど何もない状態だった」
 入れた茶を差し出しながら霞蓉が続ける。
「あんなに酷いことになっているとは思わなかったからね、呆然としたよ。生まれ育った街がなくなってしまうなんて……」
 不意に顔を上げた霞蓉と眼が合う。井宿の顔を静かな眼差しで見つめて、彼女は言った。
「ねえ、あんた……その眼の傷は……」
「あ、これは……。その……洪水の際に、流木に当たって……」
「……そう。辛かったね」
「……いいえ、」
 井宿は小さく首を横に振った。
 辛いだなんて言えない。思ってもいない。否、思ってはいけないのだ。
 親友を手にかけ、誰一人救えなかった自分が、辛いなどとは――。
「あの時、俺は……自分のことしか考えられなくて……醜い感情に満たされていました。誰かを救えたかもしれなかったのに、誰も救えなかった」
「そりゃあ、あんなことが起これば誰だって」
「違うんです。……俺には力があった、でも上手く使えなくて……自分を守ることしか出来なかった」
「力……?」
 首を傾げる二人を前にし、井宿は右膝を抱えて服筒を捲り上げた。
 膝小僧に刻まれた、朱い『井』の字。
「俺は、朱雀七星の一人です。七星名を『井宿』といいます。……力がありながら、誰も守れなかった。すみません……」
 頭を下げて、井宿は己の罪を詫びた。どんな諫言が返ってくるか――僅かに怯えながら場を制した沈黙に耐える。
 しかし、返ってきたのは驚愕と歓迎の声だった。
「すざっ……朱雀七星士って、あの朱雀七星士か?!」
「凄いじゃないか! 『朱雀伝』は読んだよ、あの井宿があんただったなんて……!」
 戦後に宮殿が発行した書物の名を耳にして、井宿は若干顔を歪めた。あの書物には確かに巫女と朱雀七星士が歩んだ旅の話が記されているが、仲間の死に関する記述以外はほとんど出鱈目であることを知っていたからだ。
「あ……いや、あの書物は、かなり脚色されていて……」
「そうかいそうかい、いやあ、それじゃあ本当に……大変だったねえ、あんた」
 興奮した様子で喋る霞蓉の横で、伯秀も頷きながら答える。
「大変どころの騒ぎじゃないだろう。朱雀七星士といったら紅南国の英雄だ」
「え?」
 自分が英雄などとは欠片も思っていない朱雀七星士は、ぽかんとした顔を向ける。
 それを見て、霞蓉と伯秀もぽかんとした顔を差し出した。
「え、って……。倶東国の進軍を食い止めたのは、巫女と七星士じゃないか。戦が長引かなかったのは彼らのお陰だろう」
「そうだよ。あんたは立派に闘い抜いたんじゃないか。あんたを知っている人間として、あんたを誇りに思うよ」
 そう言うと霞蓉はにっこりと笑った。
 確かに戦は長引かなかったが、開戦を防げなかったのも事実だ。もっと朱雀を召喚することに固執していたら、その為に非情になれていたら、戦を招かずに済んだかもしれない。
 ――いや……それも……。
 恐らくきっと違う。
 あの時、自分たちは自分たちなりに精一杯の行動をした。二転、三転する状況の中で最良と信じる行動に心血を注いだ。後世の人間には色んな指摘をされるかもしれないが、そこで卑屈になるのはむしろ一緒に行動した仲間に対して失礼だろう。
「そう……言って下さると、助かります」
「芳准。……あんまり、自分を責めるんじゃないよ」
 え? と尋ね返すと、霞蓉がふっと笑んだ。
「昔からそうだね、あんたは……いつだって人の気持ちを思いやれる子だった。人の痛みを、自分の痛みのように感じて……自分も苦しんじゃってさ。でもね、あの洪水だって戦だって……あんたの所為じゃない。独りで背負うことはないんだ。ね?」
 ――おばさん……。
 胸の奥がじんと温かくなる。
 井宿は心から「ありがとうございます」と感謝を告げた。
「真面目なのは李家の血だな。過ぎた話だが、君が家督を継いでいたらますます栄えただろうに……、ん? いや、嫁さんを貰えばいいのか。そうしたら李家を復興できるぞ」
 伯秀の突拍子もない提案に、井宿は眼を丸めた。
「あら、とっくにいい人がいるんじゃないのかい?」
「い、いえ、そんな人は……。それに、所帯を持つ気はありませんから」
「え? あ――……そうか。あんた、まだ許婚のこと……」
 霞蓉がそう言うと、伯秀もああそうだったと言わんばかりに眼を伏せた。
 井宿は二人の様子を見ながら、遠慮がちに「いいえ」とだけ答えた。
 間近に迫っていた祝言――その相手だった許婚。彼女も洪水に呑み込まれて死んでしまった。恐らく既に転生している筈だ。
 正直に言って、未練というものはもうない。疑心を抱いてから、親友の飛皋に真実を教えられるまでの八年間、井宿は彼女を信じきることができなかった。親友から齎された真実――彼女が裏切ったわけではないという事実を知った時も――否、それを知ったからこそ井宿は彼女への想いを断たなければならないと思ったのだ。
 心の何処かではずっと疑っていた。彼女のことを信じきることができなかった。そんな男が、どうして今も「好きだ」などと言える。
 裏切られたと勘違いして、親友に刃物を向けたのは自分だ。そんな自分を彼女はどう思うだろう。今はもう聞けない。既に他界してしまったから。自分はもう、彼女に許されることも、非難されることもない。だからこそ――想い続けられない。
 回答の得られない想いを抱き続けるほど、一途にはなれないから。
「でも……こうして、お二人にまた会えたのはとても嬉しいです。もっと早く来れたら良かったんですが……」
「もっとって……あんた、あれ以来一度も?」
「すみません、踏ん切りがつかなかったものですから。……この地に足を踏み入れたのは十年ぶりです」
「じゃあ、……あの噂も知らないか」
 伯秀がぽつりと呟いた。
 青い顔をして霞蓉が夫を見やる。
「あんた、それは……」
「いいだろう、ここら辺にいる連中はみんな知っていることだ。芳准、聞いたことはないか?」
「何を……ですか?」
「十年前のあの洪水は――天災ではなく、人災だという噂だ」
 ――何……?
 井宿は眉を顰めて伯秀を見つめた。
 言葉の意味がよく汲み取れない。
 天災ではない? 人災だと――そんな馬鹿な。
 あれが人の手による行為だというのか。
「……どういうことですか」
「あの時、昇龍江の堤防が決壊して大洪水が起こった。……だが、壊れる筈などなかったんだ。あの堤防は洪水が起こる前年に補強工事をしていたからな。十年前の豪雨より前――確か今から十五、六年前に大雨が降った時は、あの堤防は耐えたんだ。それなのに補強までして増水に耐えられなかったとは……少し考えにくい」
 補強工事と聞いて、井宿は過去の記憶を思い出した。
 十七になってからあの洪水に至るまでの間――李家はやけに慌しかった。井宿は科挙の勉強に励み、母は祝言に向けての準備に奔走し、妹は精一杯母を手伝っていた。そして父は大きな仕事をしていた。
 そうだ、覚えている――二人で杯を交わした時、河川の工事にようやく目処がついたのだと満足そうに父が話していたのを。
「では……誰かが人為的に、堤防を決壊させたと……?」
 井宿は言いながら、なんて恐ろしいことを口走っているのだと思った。
 そんな事実は要らない。否、あって欲しくない――。
「この辺りに住んでいる連中は、ほとんどが十年前の洪水の被害者だ。……皆、あの洪水が人為的に齎されたものだと信じてるよ」
 伯秀の言葉に井宿は声を失った。
 そんな――憶測に何の意味があるというのだ。そんな哀しい決め付けに、遣る瀬無い疑惑に一体何の意味があるというのだ。
 そんな疑いを抱いても無駄だ。そんな風に心を荒立てても、何の意味もない。何も生まれやしない。
 井宿は俯いて拳を握った。
 世界の統治者――太一君ならば全ての事実を把握しているのだろうが、彼の方は眠りについてしまった為、確認を取ることはできない。いや、本当のことが解ったとしても、そんなものは――。
「芳准」
 声をかけられて顔を上げる。
 霞蓉が柔らかく微笑んだ。
「ただの噂話さ。そんな顔しなさんな。……芳准、暇なら泊まっていきなよ。何もないけど、出来る限りもてなすからさ。ねえ、いいだろあんた」
「ああ、勿論。ゆっくりして行ってくれ。……本当に何もないけどな」
 悪戯っぽく笑う伯秀を眼に入れて、井宿も小さく笑った。
 その日、井宿は秦家に宿泊した。主人と杯を交わしながら思い出話に耽り、また各々の近状などを語り合った。井宿は夫婦の糸屋時代の話を興味深く聞き、夫婦はまた井宿の旅の話を興味深く聞いた。
 楽しい時間はあっという間に過ぎ、酒の力も手伝って井宿は寝床につくと直ぐに寝入ってしまった。
 再び瞼を開くと、窓の隙間から入り込んだ朝日の力強い光りが網膜を襲った。眩しさに眼を細めて上体を起こす。
 ――もう朝か……。
 昨日、久しぶりに仰いだ酒がまだ少し体に残っている。
 寝床から出て体を伸ばしていると、唐突に開いた扉から霞蓉が顔を出した。
「あら、早いのね。おはよう。うちの旦那はまだ伸びてるよ」
「おはようございます。伯秀さん、大丈夫ですか?」
「ああ、ちょっと飲み過ぎただけさ。弱いから普段もあんまり飲まないんだけどね、あんたと会えたのがよっぽど嬉しかったみたい」
 からからと霞蓉が笑う。
 昨夜は彼女も晩酌につきあって男二人と同じように飲んでいたのだが、酒が残っているようにはとても見えない。どうやら彼女の方が旦那より酒に強いらしい。
「芳准、今日は何か予定があるのかい」
「ああ……そうですね、」
 ふと逡巡する。
 気になっていることが一つだけあった。
「慰霊碑に行って来ようと思います。昨日は、経をあげることができなかったので……」
「ああ、そうか。引っ張って連れてきちゃったからねえ。私からもお願いするよ。あそこには誰も眠っていないけど……皆、あの慰霊碑は大切にしているから」
 霞蓉の言葉を聴きながら、井宿は改めて慰霊碑を建立してくれた星宿に心内で感謝の意を述べた。
「それにしても……あんたがお坊さん、なんてねえ」
「……向いてませんか?」
「いや、らしいっていえばらしいけどね。御当主は驚くんじゃないかなあ」
 霞蓉は昔から、井宿の父のことを『御当主』と呼ぶ。
「驚き……ますか」
「そりゃあやっぱり、自分の子供には幸せになって欲しいもの」
 ――え?
「昔の偉い人がこう言ったそうよ。『過去を引き摺るのはいい、だが過去に呑まれてはいけない』ってね」
 井宿は茫然と霞蓉を見つめた。
『過去に呑まれてはいけない』
 ――俺は……。
 まだ……。
「その……偉い人とは?」
「さあ、知らない。今作っただけ」
「え?」
 戸惑いの声をあげると、霞蓉は舌を出して笑った。
「幸せになりなよ、芳准」
 霞蓉はそう言い残して居間に戻って行った。
 ――幸せ。
 誰も彼も簡単にその言葉を口にする。だが井宿にはそれが何なのか、いまいちよく解らない。否、他人のことなら何とでも言える。しかし自分のことは――。
 ――解らない。
 俺の幸せは何だろう。
 どうしたら幸せになれるのか。
 何を得たら幸せだと感じるのか。
 親友も恋人も家族も、もう何処にもいない。
 井宿は大きな傷跡が残る左眼に触れた。
 ああ、そうか。
 怖いのかもしれない。まだ――幸せになることが。
 過去を反芻する度に申し訳ないと感じる。その罪の意識が今も井宿を蝕んでいることに間違いはない。
 幸せになってはいけない。死んだ人たちに申し訳が立たないから。
 ――……解らない。
 ただ、二年前の親友との和解を経て、解ったことがある。
 過去に捕らわれたままでは、何も進まない。何の解決も、希望も見出せないということを。
 ――俺は。
 いつまで悩めば気が済むのか。
 いつまで悩めば納得のいく回答が得られるのか。
 一生か?、と冗談交じりに自問する。
 それはぞっとしないなと、井宿は溜息混じりに自答した。
 
   

 
   
  











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