因果の小車

    




 秦家で朝食を摂った井宿は慰霊碑に向かった。
 外は寒気が入り込んでいるらしく、昨日と打って変わって肌寒い。嫌な風だな、と井宿はなんとなくそう思った。
 ――人災……。
 不意に伯秀の言葉を思い出す。
『十年前のあの洪水は――天災ではなく、人災だという噂だ』
 それが本当なら大変なことだ。否、それ以前にあってはならないことだ。
 ――誰も望んでいないというのに。
 聳え立つ現実は、目に見える事実は、酷でしかないというのか。
 そんなことはないだろうと井宿は思う。世界は、人間は確かに残酷な側面を持っているけれど――善意や優しさ、希望だって持ち合わせている筈だ。
 陰と陽。その二つのうちどちらかが欠けても世界は成り立たぬと、以前に師から教えられた。
 ――……?
 慰霊碑が見えてきた――が、井宿は立ち止まった。
 眼を凝らしてよく見ると、石碑の前に女が一人立っていた。二十歳は越えているだろうが、井宿よりは若い。色白で細く、横顔を見る限りは美人だ。ただ表情が暗く、見る者に陰鬱な印象を与えている。見たことのない(ひと)だった。
 井宿は遠くから茫然とその女を眺めた。妹が生きていたら、あのくらいの歳だ――そう思うと胸に微かな痛みが広がった。
 ――……同郷の人だろうか。
 そう思いながら見ていると、女は身を翻して慰霊碑から離れていった。
 緩やかにその姿を眼で追ったあと、井宿は再び足を進め慰霊碑の前に立った。一礼して手を合わせ、地面に座り込んで座禅を組む。
「……戻ってまいりました。遅くなって申し訳ありません」
 数珠に手を通し、背筋を伸ばす。
 井宿は朗々と経を読んだ。
 雑念を消し去り、無の境地でいること。
 この世の全ては(くう)なり、であるからして空であることを求道せねばならぬ――それが仏の教えというものじゃ、と井宿に仏を説いてくれた和尚が言っていた。
 色即是空、空即是色。
 何ものにも捉われないこと。
 何ものにも染まらないこと。
『そなたは坊主は向いとらんよ』
 読経を終え、井宿は得心した。
 ――ああ……。
 確かに、向いていないのかもしれない。未だ過去(むかし)を捨て切れない自分には。
 考えることが沢山ある。だがどれに対しても答えが出ない。決められない、というべきか。
 ――空……。
 井宿は眼を瞑った。
 何ものにも捉われない境地。それはどういうことだろう。
 全ては取るに足らないこと。何事も度を過ぎてはいけない。捉われてはいけない、傾いてはいけない――。
 ――……無理だ。そんなことは……。
 自分は人間だ。良くも悪くも――井宿はそれを肯定している。
 空の境地を追い求める。果たして自分にそんなことができるのだろうか。
 ――答えは。
 本当に出ていないのか?
 本当に――俺は何も決められないというのか。
 自分は何を目指し、どこに流れて行くのか。
 僧侶として、求道者として生きていけるのか。もしくは、まったく別の道を?
 ――迷っている時点で『空』ではない。
 僧侶達がいかに難儀な道を歩んでいるかが解る。求道者とは厳しい立場なのだ。
 ――……考えるな。
 少なくともこの石碑の前で思い悩むことではない。そう思った井宿は数珠を握り直して、黙祷に集中した。
 眼を瞑ると果てしない暗闇が広がる。
 子供この頃――この暗闇が怖くて、眠るのが嫌だった時期があった。親友に打ち明けると彼は笑って「馬鹿だなあ、お前は」と言った。
『暗闇しかない世界なんてないんだ。夜だって必ず朝を迎えるじゃないか。だから大丈夫だよ』
 その言葉のお陰で、楽に眠れるようになった。
 思い出なんて全てあの洪水と共に流れていったと思っていたのに――故郷の地を踏み締めていると、昔の記憶が蘇ってくる。
 故人を思い出すのも供養に繋がる。井宿は懐かしい思い出に浸った。
「……え?」
 そうして、一体どれほどの時間が流れたのか。
 再び眼を開けた井宿は、辺りが真っ暗に染まっているのを眼に入れて大いに驚いた。
 ここに来たのは午前中だったのに、世界は夕暮れを通り越してすっかり夜になっている。座禅に集中すると体感している時間経過が驚くほど早いということは修行時代に経験済みだったが、眠っていたわけでもないのにここまで時間を飛び越えた感覚に陥ったのは久しぶりだった。
 今何刻くらいだろう、と疑問に感じて初めて空腹を意識した。周囲には星以外の明かりが一つも見受けられない。もしかしたら夕餉時すら過ぎているかもしれないと井宿は思った。
 戻らなければ霞蓉が心配するだろう。井宿は立ち上がると、慰霊碑に向かい頭を下げた。
「また来ます。……それでは」
 来た道を引き返しながら空を見上げた。星が輝く合間に暗雲が犇いている。
 ――雨か……いや。
 直ぐ降る事はないだろう。
 戻ると、秦家からは明かりが漏れていた。井宿は戸を叩き、引いて顔を出す。
「すみません、おば……霞蓉さん、晩くなりました」
 家の中を覗いて、井宿は眉を顰めた。
 明かりはついていたが、秦家には誰もいなかった。食卓に一人分の食事が残っている。やはり夕餉時はとうに過ぎているらしい。
 しかし、秦夫妻は一体どこに消えたのか。
 心配になった井宿は胸元で印を組んだ。霞蓉の気を探り、居場所を突き止める。
 ――この近くにいる……?
 井宿は笠を被ると霞蓉の元へ移動した。
「うるせえっ、退け!」
 笠から出るなり、そんな怒声が耳に飛び込んできた。
 辺りを見回すと民家が幾つか並んでいる。何かを取り囲むように人々が集まっていた。
 ――なんだ……。
 燃え滾る松明の明かりが人々の顔を照らしている。その中に秦夫妻がいた。
「霞蓉さん」
 声をかけると霞蓉が振り返った。
「あ――芳准、戻ってきたのかい」
「ええ、晩くなってすみません。あの、これは」
「触るなよ! 邪魔だっつってんだろおっ!」
 一体どうしたんですか、と問おうとしたところで怒鳴り声が響いた。先程の怒声と同じ声だ。
「ああ、たまにね……酔って暴れるんだよ、あの男が。ここら辺の集落の人間じゃなくて、外れの方に住んでいる奴らしいんだけど……。今度出たら役人に突き出すってみんなで決めていてね。それで取り囲んでるんだけど、誰も止められなくって」
 井宿は霞蓉の話を聞きながら、人集りの奥を覗いた。
 体格の良い男が一人、人々の制止を振り切って暴れている。覚束ない足取りで、顔は真っ赤だ。相当酔っているように見える。酒癖の悪い年配の男か――と思ったが、顔は若く二十歳そこそこという風貌だった。
「動きを……止めるだけでいいですか?」
「え?」
「そういうのは得意です」
 小さく笑って、井宿は印を結んだ。暴れている男に向かって気を放つ。
 ――(ばく)……!
「っ?! あ……?」
 暴れ回っていた男が急に立ち止まった。
「なんだ……?! 動けねえ……っ」
「今のうちです、捕縛してください」
 印を結んだまま凛とした声を放つ。
 周囲にいた男衆が一斉に飛び掛り、男は捕まった。縄で縛られて身動きが出来なくなったのを確認してから印を解く。
「す……凄いじゃないか、芳准!」
「いえ、大したことでは……」
「大したことだよ。ありがとう、助かったわ」
 微笑む霞蓉に向かい、井宿も笑顔を返した。
「離せえ、こらあっ! 離せ離せ離せえっ」
「うるせえ、いい加減に大人しくしやがれ!」
「そうだそうだ、もう夜更けなんだし静かにしろよ」
「そうだなあ……今から役場に行っても門前払いだろうしなあ。朝までどうするよ」
「とりあえず、誰かのところに――」
「……役場?」
 人々が相談している横で、急に大人しくなった男が神妙な顔をして尋ねた。
「ああ、そうだ。迷惑なんだよお前は。大人しくお上の裁きを受けろ」
「つっ……突き出すっていうのか、俺を」
「そうだっつってんだろ。何を今更、」
「わ、悪かった」
 男は項垂れてそう言った。縛られた体が僅かに震えている。
 取り囲んでいた男衆の一人が呆れた声を放った。
「お前なあ、遅いんだよ謝罪が。一体何度ここら辺で暴れ回ったと思って」
「悪かった――悪かったよお!」
 男はおろおろと慌てふためき、泣きそうな顔をして叫んだ。
 尋常じゃない様子に、周囲にいる者達も顔を合わせて首を傾げる。
「お、おい、なんなんだよ。一体どう」
「あ、あんたら、あの洪水の被害者だろ」
 ――え?
 ぞっ――と、激しい悪寒が背中に走った。
 井宿は顔を顰める。
「俺だ」
 ――止せ。
 反射的に心内でそう返していた。
 止せ。
 何を言うつもりだ……!
「俺がやったんだ。俺が壊したんだ、川の堤防を……っ!」
 ――――あの噂も知らないか。
 ――――十年前のあの洪水は。
 ――――天災ではなく。
 ――――人災だという……。
 井宿は拳を握った。
 混乱した意識が理性を破壊しようとするのを、必死になって堪える。
 ――止せよ……!
 なんということを、なんということをいうのだ!
 そんなことを――暴露したって、何も……!
「何だと……?」
 取り囲んでいた一人が、やっとのことで声を発した。
 男は堰を切ったように、泣きながら喋り始めた。
 十年前に発生した昇龍江の大洪水の真相を。
「たの、頼まれたんだ、……だから、あの時、友達と……何人かで……わ、悪かった。悪かったです、すみません、ごめんなさい! あ、あんなことになるなんて、思わなかったから、」
「う――嘘を吐け! お、お前、お前は、なんていうことを……!」
 ――嘘?
 嘘ではないだろう、と井宿は思った。
 男が今二十歳くらいだとしたら、十年前は十歳程度だ。堤防の意味を把握していなくても、おかしくは――。
「ふざけるな……!」
 ――っ……!
 重い声音と共に、再び激しい悪寒が井宿を襲った。
「お前の所為でどれだけの人間が死んだと思っているんだ!」
 その叫び声がきっかけとなった。
 周囲に居た人々が男に向かって次々に罵声を浴びせ、石や物を投げつけ――縛られて身動きの出来ない男に暴力を振るい始めたのだ。
 ――――お前の所為で。
 ――――お前が殺した。
 ――――お前が、お前が。
 井宿は息を呑んだ。
 ――何だ……。
 何だこれは。
 何だこの光景は……?!
「や……やめ……」
 震えた声が口から漏れた。
 脳内に忌まわしい記憶が再生される。
 鈍く光った銀色の刃。
 その刃に付着した親友の赤い血。
 轟々と激しく流れる水の音。
 溢れ出る憎しみ。
 恐ろしい顔つき。
 それは。
「そ、そんな……違う……そんな事には、何の」
 それはまるで、物の怪の如し――。
「何の意味も……」
 ――嫌だ。
 こんなのは嫌だ。
「っ……やめろ!!」
 憎しみに支配された人々に向かい、井宿は叫んだ。
「何を――やめて下さい、こんなことに何の意味があるというのです……! 報復なんて無意味です、そんなことをしたって何も得られはしない!」
 あの時――深い、深い憎しみに溺れた。
 その感触を知っているからこそ。
 その後の地獄を知っているからこそ。
 だから言える、自分には――。
「何が――無意味だ」
 自分には――。
「目の前に親の敵がいるっていうのに、黙って見逃してやれっていうのか。あんたはそんなことが出来るのか……?!」
 ――違う。
 違う、でもそんなことをしたって亡くなった人達は帰って来ないし、貴方が罪人となることを貴方の親が望んでいるわけが――。
 ない、と思うのに。
「やっちまえ……!」
 ――止まらない。
 止められない。
 ――どうして。
「違う……!」
 ――憎しみは。
「こんなことをしたって、何にもならない……!」
 人々の罵声に絶叫が掻き消される。
 ――どうして!
 憎しみは消えないものなのか?
 人を変え、時代を超えて在り続けるものなのか……?!
 どこかで絶たなければ次の世代に持ち越すだけだ。
 だったら、だったら今――。
「俺は……っ」
 どうして何も言えない。
 どうして止めることができない。あの人たちを。どうして。
 その程度だったのか。
 俺の学んだものは、教訓は、俺が味わったあの地獄は――……!
 混乱した意識が理性を破壊する。
 溢れ出た感情に体が支配された結果、井宿は――。
 忽然と、その場から消えた。



 ***



 気づくとここにいたんだ――。
 そう続けた井宿を、翼宿は呆然と見下ろした。
「……逃げたんだ」
 耐えられなくなった意識が、体が、勝手に術を発動させた。
 無意識に仲間の気を察知して、井宿は翼宿の元へ瞬間移動してきたのだ。
「何も……俺は、何も出来なくて」
「井宿」
 翼宿は戸惑いながら彼の名を呼んだ。
 話を聞く限りでは――井宿が苦しむ必要なんてないだろうと翼宿は思う。何も彼一人が罪を負うことはない筈だ。憎しみの連鎖を止められなくたって、その場から逃げたって――。
 ――そんなん、どうしようも……。
 いや、それよりも――。
 翼宿は僅かに眉を顰めた。
 少しばかり腹立たしいことがある。
 ――なして……。
「そんな……なしてお前だけが、そんなに傷つかなあかんのや」
 耐えられないのは翼宿も同じだった。
 耐えられない。こんな風に傷ついている仲間を見るのは。
 そして腹立たしい。こんな風になるまで彼を追い詰めた連中が――。
「お前やって被害者やろ」
「違う」
「違わんて。お前は――いつだって、自分のこと責め過ぎなんじゃ。止められへんかったんも、そんなんしゃあないことやないか。っちゅうか止めてもお前が連中に恨まれるだけやろ。そんなんしても新しく憎しみが生まれるだけや……!」
 ――耐えられへん。
 翼宿は井宿の肩を強く掴んだ。
 耐えられへん、仲間が、お前が傷ついてるんは……!
「お前が傷ついてどないすんねん、それで何かが変わるんか? それこそ無意味やろ。憎しみに駆られとる連中のことなんか気にすんなや、お前は、」
 言葉を途切らせる。
 何故こんなに熱くなっているのか、自分でもよく解らなかった。
 何故こんなに苦しいのか。
 何故こんなに。
「……そんな顔すんなや。お前がそんなんやと、俺もしんどいねん。……頼む」
 そう声をかけながら、情けないと翼宿は思った。
 語彙のない自分に呆れる。何をどう告げたら、傷ついた仲間を慰めることができるのか。
 ――俺がしんどいから傷つくな、なんて。
 アホちゃうか。それも『頼む』やなんて――何を言うてんねん、なして縋ってんねん、俺が。
 逆の立場だったら、井宿はもっと優しく上手に自分を諭してくれるだろうに――同じことをしてやれない自分が、翼宿は一番腹立たしかった。
 ぽつん、と雫が頬に当たる。
 ――雨……?
 空を見上げると暗雲が星を覆い尽くしていた。
 俯いたまま顔を上げない井宿の背中を、ぽん、と叩く。
「降ってきたわ。とりあえず――至t山(うち)に行こ。近くやから……、な?」
 小さく頷いた井宿の手を取り、翼宿は山道を歩いた。
 ごめん、と呟いた仲間の声が耳に届く。
 どう答えたらいいか解らなくて、翼宿は聞こえなかった振りをした。
  
 






















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