因果の小車

    




 訳が解らん。
 散々考え込んだ挙句に出た結論がそれだった。
 窓から差し込む光りを浴びて、日が昇ったのだと知る。翼宿は溜息を吐いて寝台から起き上がった。
 昨夜――酷く傷ついていた仲間を介抱し、至t山に戻って彼を客間の寝台に押し込んでから、翼宿も自室の寝台に沈んだ。だが殆ど寝付けなかった。
 ――一体なんやっちゅうねん……。
 仲間が――井宿が述べた話を冷静に振り返る。何度思い返しても、やはり井宿が傷つく必要はないと思った。だがそこで傷つくのが井宿という人間であり、傷ついている彼に『傷つくな』と言うのもおかしな話であって――。
「訳が解らん……」
「それは俺の台詞やねんけど」
 気づくと目前に親友の顔があって、翼宿はぎゃあああと叫びながら身を引いた。
「な、何してんねんお前はっ! いつからおったんじゃ!」
「お前が起きる少し前から部屋の隅で待機してましたが何か」
「何か、やないわ! 気配消して待機すなっ」
 えー、と不満気に翼宿――この山では『幻狼』であるが――の親友かつ、この至t山の副頭でもある攻児が口を尖らせた。
「俺は純粋に頭を心配して朝方から張り込んでただけやのに」
「張り込む必要がどこにあんねん……」
「ちゅうか幻ちゃん」
「なんや」
「お前、妓楼に行ったんちゃうんか」
 翼宿は黙って攻児を見返した。
 昨日、井宿と再会した翼宿が何故山道を歩いていたかというと、攻児の言う通り妓楼に向かっていたからである。近頃は大きな喧嘩もなく退屈そうにしていた頭に向かって、自称『出来のいい副頭』が「抜いてくれば?」と直球の提案をしたのだった。
 翼宿は自他共に認める女嫌いであり、しかも二年ほど前に女性関係で精神的外傷になる程の事件を起こしているため、積極的に女性に関わろうとはしない。だが彼も精力滾る年頃の一般成人男性であることに変わりはなく、男色趣味を持ち合わせているわけでもないので、妓楼つまり遊郭には度々世話になっていた――とはいうものの一般成人男性、更に他の山賊の平均と比べるとその使用率は恐ろしく低いが――。
「それなのになして瀕死っぽい井宿はん連れて帰ってきてん? まさかお前……」
「な、なんや」
「井宿はん犯しぶほはあっ!」
 翼宿が振り下ろした鉄扇が攻児の顔面に激突した。
「げ、幻ちゃん、ツッコミが痛い!」
「アホかおのれはどういう思考回路しとんじゃボケッ!」
「冗談やないかっ! お前にそない甲斐性あったら妓楼行けなんて言わんわ」
 なんだか若干馬鹿にされている気がしないでもないが、抗弁するのも面倒で翼宿は顔を背けた。
 ――なして俺があいつに手え出さなあかんねん。
 うわ気色悪う、と勢い余って想像しかけて頭を抱えた。
「ちゅうかせやから、井宿はんどないしたんや。大丈夫なん、あの人」
「……解らん」
 それが解るのなら世話はない。解らないから困っているのだ。
 一体何をどう言えば、またはどうしてやったら良いのか――。
「何があったんや」
 珍しく攻児が食い下がってきたので、翼宿は少し迷ったが昨日のことを打ち明けた。
 朱雀の仲間だけが知り得る井宿の過去を補足しながら。
「ふうん……なんか、あれやなあ。相変わらずお優しいっちゅうか感受性が強いっちゅうか無駄なところで頑固っちゅうか」
 面倒臭い人やなあ、と攻児がしみじみ続けた。
「せやけど……別にあいつが傷つく必要なんて、なんもあらへんやろ。あいつはなんも悪ないんやから」
「まあ、なあ……でも、しゃあないんちゃう? そこで傷ついてまうんが井宿はんなんやし。止せゆうても止まらんて。暫く放っておいて傷が癒えるのを待つしかないやろ」
 ――そりゃあ……。
 そうなんやろうけど――。
 親友はいつも現実を語る。できることとできないこと、その境目をはっきりと提示してくれる。
「……引っ掛かんねん。なんか」
「何がや?」
「解らん。解らんけど……」
 すっきりしない。何故か心がすんなりと納得してくれない。
 ――何が。
 何がそんなに嫌なんや、俺は。
 不意に部屋の扉が叩かれた。攻児が「なんや」と声をあげる。
 開いた扉から顔を出したのは、井宿だった。
「あれ、井宿はん。おはようございます、元気ですか?」
「おはよう。元気だよ。……迷惑をかけてすまない」
 陽気に尋ねる攻児に向かって、井宿が申し訳なさそうに返答した。
 いつも被っている狐顔のお面はつけていない。青白く顔色は悪いが、昨日よりはマシな気がした。
 ――あれ?
 仲間の顔を見ながら、翼宿は妙な違和感を感じていた。
 何や? なんか――。
 なんか、変や。
「いえいえ、俺らは何も平気ですから。あ、飯食いました?」
「ああ、頂いた。ありがとう、用意してくれて」
「起きたらすぐに無理やりにでも食わせろって言うておいたんで。ちゃんと食えたんなら良かったですわ。なあ幻狼」
 急に話を振られて、翼宿は「おお」と慌てて返した。
「ほんま――大丈夫なんか、お前」
「ああ……昨日はすまなかった、あの時は動転していて……今はもう大分落ち着いたよ」
「そうか。なら、ええけど……いや、すまん。俺も――ろくなこと言うてやれんで」
「君が気に病むことはないよ。昨日は本当に助かった」
 ――ああ……、あれ?
 こいつ、こんなに声低かったっけ。
 否、それ以前に――。
「何のお返しもできないまま発つのは申し訳ないけれど……一度戻ることにした」
 ――え?
 戻る?
「あのまま逃げるのは、良くないと思うから」
「戻るて、故郷に? せやけど……待てや。井宿、俺も」
「いや、」 
 井宿は強い口調で翼宿の言葉を遮った。
「一人で大丈夫だ。……本当に、心配をかけてすまなかった」
 ありがとう、翼宿。
 井宿は小さく笑ってそう告げたあと、静かに部屋を出て行った。
 ――せやから……。
 せやから、せやからお前。
 そない寂しそうに……。
 ああ、と翼宿は思い出した。あの時と一緒だ。数ヶ月前に別れた時に井宿が見せた、あの――。
 ――なしてあんな笑顔……。
 そないな顔すんなや、俺の方が――。
 ――しんどい……。
 呆然と宙を見つめる。
 何故そんな気持ちになるのか、何故納得のいく答えが出ないのか。
 翼宿には、何一つ解らなかった。



 ***
   

  
 叩き落された。
 井宿はそう思った。
 叩き落された。
 地上を歩いていたのに、叩き落された。絶望の水底へ。
 憎しみに満たされた深海では、己の経験も、生き様も、何も通用しなかった。
 何も出来なかった。
 そして逃げた。
 自分を守るために、逃げた。
 自分の心を。
 ――壊れてしまえばそれで終われたのに。
 自嘲気味にそんなことを考える。だがそれは、今まで出会ってきた人たちに対してとても失礼な考えだと思った。
 昨日、助けてくれた仲間は『しんどい』と言ってくれた。井宿が傷ついていたら辛い、と。
 だから自分は生きていられるのだと思った。自分を仲間だと言ってくれる人が、大切だと言ってくれる人がいるから。
 以前、仲間の一人に『人は独りでは生きていけないのだ』と説いたことがある。
 ――解っている。
 それは、自分だって例外じゃないのだ。
 至t山を発って、井宿は故郷に戻ってきた。
 昨日降った雨は朝を迎える前に止んだらしい。爽やかな青空の下で、水が浸透した大地を踏み締めて歩いた。
 目的地は慰霊碑である。もしかしたら居るかもしれない――そう思ったので集落に行く前に寄ることにした。
 朝、眼が覚めてから色々と考えた。昨日の出来事やそれまでの経緯、自分の半生などをなるべく俯瞰して振り返った。
 全体から一つの事象を考察することで、見えてくるものがある。
 それが正しいことなのかどうかは解らない。けれど――。
 井宿は慰霊碑の前で足を止めた。そこには、予見した通り先客がいた。
 昨日見かけた、慰霊碑をじっと見つめていた色の白い女。
 井宿は静かに彼女の横に立った。
 気づいた女が虚ろな眼を向ける。
 その眼を見返して、井宿は言った。
「君が……彼に頼んだんだね」
 女は大きく眼を見開いた。
 昨夜、十年前の罪を告白した男が言っていた――『頼まれた』と。
 何故この女が頼んだと思ったかというと、確たる理由は何もない。ただなんとなくそう思っただけだ。
 だが勘に頼って掛けた鎌は、どうやら真実に命中したらしい。
 何か言おうとして口を開いた女を、片手で制す。
「何も言わなくていい。興味はないから。でも――一つだけ、言いたいことがある」
 水底に沈んだことがある経験者として。
 地獄を這い出た経験者として――言っておかなければならないことがある。
 同じく十年前の洪水に捕らわれている者として。
「これから生きるのも死ぬのも、君の自由だ。だけど……それは自分で決めろ。他人(ひと)に任せるんじゃない」
 それは多分、一番辛くて苦しいことだけれど。
 断罪なんて他人に任せるのが一番楽だ。自分で自分を裁くということがどれほど難しいことか、井宿は知っている。
 それでも――。
「俺は……憎しみの連鎖は、いつか断たれると信じているよ」
 それがどんなに夢物語だとしても。
 どんなに甘い考えだとしても、現実にそぐわない理想論だとしても。
 信じている。
 否――。
 ――信じたいんだ……。
 それが、長い時間をかけて井宿がようやく出せた答えだった。
 女の顔がぐしゃりと歪む。彼女は暫く俯くと、井宿に背を向けてその場を立ち去った。
 もしかしたら、あの女はもう既に気が触れているかもしれない。罪悪感を抱いているのなら――この十年間、相当に苦しんだだろう。
 ――それでも許されないのか。
 解らない。
 人の罪は死をもってしか償えないのか。否、死して償える罪など何一つないと昔、師が言っていた。
 罪は罪。一度犯した以上、本当の意味での贖罪は叶わないのかもしれない。
 ――なら、俺は……。
「芳准」
 背後から声をかけられて振り返る。
 後ろにいたのは霞蓉だった。
「おばさん……」
「お、姉、さ、ん」
 ああ、霞蓉さん――と言い返すと、霞蓉は微笑を返した。井宿の横に並んでしゃがみ、手に持っていた献花を慰霊碑に捧げる。
「ねえ。……あの男、どこに連れて行ったんだい」
「え?」
「昨日の。あんたと一緒に消えちゃったんだけどさ」
 どうやらあの時、錯乱した井宿は標的となっていた男にも術をかけていたらしい。
「解りません、……無意識にどこかへ飛ばしてしまったのかもしれません」
 あの光景が、耐えられなくて。
 一人の人間を大勢の人々が寄って集って暴行していた、あの光景が――。
「そっか。……あんた、暫くこの辺に来ない方がいいよ。あの後みんなカンカンだったから。……うちの人もね」
「……すみません」
 頭を下げると、霞蓉が笑った。
「あんたが謝ることはないさ。あれは……あんたがあんたなりに出した結論なんだろうから。……あたしだって……」
 何かを続けかけて、霞蓉は黙り込んだ。
 微風が献花の花弁を揺らす。その様を見ながら、彼女は再び口を開いた。
「親戚のおじさんが家にやって来る日だったんだって」
「え……?」
「あの女の子」
 どの――と問いかけて、先程までここにいた女のことを指しているのだと察した。
「どうしてもそのおじさんに会いたくなかったんだって。だからあの大雨の日――従兄弟と友達に頼んで、川の堤防を決壊させたの。氾濫して洪水にでもなれば、大騒ぎになって――おじさんと会わなくて済むって。……子供の考えることよね」
「……聞いたんですか」
 あの(ひと)に。
 問うと、霞蓉は献花を見つめたまま「前にね」と答えた。
「そのおじさん、会うといつも人気のないところに連れ込んで、嫌なことするって」
 ――え?
「だから会いたくなかったみたい」
 顔を上げて、霞蓉は苦笑を見せた。
「……解らないよねえ」
 井宿は絶句して霞蓉を見下ろした。
 洪水(あれ)は始まりではなく、続きだったのか。
 憎しみの連鎖の――。
「悪いことって繋がるのかもしれない。だから、どこかで断たないと……。芳准。あたしはさ、あんたの考え方が好きだよ。正しさなんて人によって違うから、それが正義だなんて言えやしないけど……あたしはそうあって欲しいと思うよ」
 いつか、分かり合える日が来る。
 許し合えなくても、認め合える日が、きっと。
 憎しみの連鎖を断てる日が、きっと。
 そう信じている。そうでなければ生きていけない。世界に、現実に、希望を見出すことができない……。
「あんたは……これからどうするの?」
 俺は――。
 解りません、と言いかけて口を噤んだ。
 解らないことはない。答えは――きっと、最初から出ていたから。
「自分の……可能性を、試してみたい。だから……暫くそれに向かって、努めてみようと思います」
「そう。……祈ってるよ、あんたの願いが叶うように」
 霞蓉に微笑を返して、井宿は「ありがとうございます」と礼を述べた。
 過去も未来も現在も、多難に塗れている。
 全ての罪を一身に背負うなんて、出来もしないことはもう考えない。
 ――在ることを良しとしてくれるのなら。
 もう一度生きてみよう。
 李芳准として。
 蒼天に浮かぶ眩い太陽を見上げる。
 憎しみと絶望の連鎖が断たれることを、井宿は天に向かって只管に祈り続けた。

















 終
  












 091114