迷走街道、爆走中
満たされない飢えに喘ぐ。
渇望の先に在るものの答えを、狼は知らない。
迷走街道、爆走中
紅南国の至t山に住まう山賊たちは、密かに重大な危機を迎えていた。
このままでは組織の運営に支障が出てしまう――そう判断した副頭は、頭にある決断を迫ることにした。
背凭れに『攻児様専用』と書かれている椅子に腰をかけ、悠然と足を組みかえた副頭は珍しく物憂げな視線を投げた。肘掛に肘を置いて頬杖をつき、その視線を下方に向ける。
「……それで、出たんか? 結論は」
椅子に座る副頭の前で、何故か床の上に正座し苦渋の表情を浮かべていた頭がぴくりと揺れる。膝の上に置いた拳を握り締めて、頭は――幻狼は小さく頷いた。
「話してみ」
僅かに呆れた調子で攻児が言った。
すっかり立場が逆転してしまった理由――それは、ひと月ほど前まで遡る。
その日、幻狼は机に上半身をうつ伏せてうんうんと唸っていた。
残念なことに例の件以後それはもはや日常茶飯事と化していたのだが、今回のそれは特に酷かった。
今までも思い悩んだり落ち込んだりしていたことはあるが、あくまで一時的なものに過ぎなかった。酒や喧嘩を与えれば悩みなんてみんな吹き飛んでいたし、機嫌の悪さを後々まで引きずることもなかった。
だが今回は違う。一週間ほど前から幻狼は一日中こうして机に突っ伏しているのだ。酒や喧嘩といった薬も効果がなく、何を言っても上の空、ここはどこ、私はだあれの世界である。
側で頭を観察していた攻児には勿論『優秀な副頭』と自称するだけあってか、幻狼が沈んでいる原因に心当たりがあった。
「……返事ないんか」
机に突っ伏していた体が僅かに動いたあと、静止した。橙色の頭髪の周りにどんよりとした空気が浮かび上がる。
尋常ではない頭の様子を眺め、攻児は思わず心内で嘆息した。
事の発端は例の件――数ヶ月前にある人間が至t山に唐突に現れ、唐突に去っていった件にある。
現れたのは、幻狼が持つもう一つの名の『翼宿』と繋がりのある人物だった。幻狼と共に戦い、一つの同じ運命という濁流の中にいた彼は、名と共に与えられた宿命の任を解かれたあともこの至t山にちょくちょく顔を出していた。
最後にこの山に来た時、彼は相当に参っていた。このまま放っておけば死んでしまうのではないだろうかと思うくらいに、精神が弱っていた。
彼はその時背負っていた苦しみを全て幻狼に吐き出したあと、一眠りして山を後にした。青白い顔で『大丈夫だ』だと言われても何の説得力もなかったことを、攻児は覚えている。
幻狼の様子があからさまに、目に見えておかしくなったのはそれからだ。
呼ばれても返事をしない、ずっと何か考え込んでいる、苦渋の表情を浮かべては時折切羽詰った声をあげる――。
これでは部下に示しがつかないと、攻児はストレートに『何を考えてんねん』と尋ねた。
頭は文字通り困惑しながら言った。
『知らん。知らんけど、ぜんっぜん訳がわからへんのやけど…………気になってしゃあないねん』
誰が、なんてことは聞かなくても解った。
例の件の彼――井宿のことだ。
ああもうなんやねんなー!!、と橙色の髪を掻き毟りながら叫ぶ頭に向かい、攻児はある策を献上した。
『せやったら、呼びかけてみたら?』
井宿は優秀な術者だ。同じく強い気を持つ人間が発した気を、遠くにいても察知することができるらしい。
その手があったか、とばかりに幻狼はすぐ気を集中させ仲間に呼びかけた――が。
それからもう一週間も経つのに、井宿は何の返事も寄越さないのだ。
その所為で幻狼は更に気を落とし、また更に井宿が気になって仕方なくなり、またまた更に色々考えて頭の中がごちゃごちゃになってパンクしそうになった結果、このように机と密着して離れないようになってしまったのである。
――ここまで沈んどる幻狼を見るんは初めてやな……。
意外とマイペースなこの男をここまで振り回せる――しかも遠隔操作――なんて大したものだと、攻児は少々現実逃避気味に思った。
そんなことに感心していても問題は何も解決しないので、大人しく頭に向き合う覚悟を決める。
だが暗い影を背負った幻狼に「攻児」と先手を取られた。
「なんで……何も言わへんのや、あいつ。気は――声は、絶対に届いとる筈なのに」
「……さあな」
「まさか、どこかでぶっ倒れてたりとか……」
「いや、それはあらへん。多分」
「なしてそう言えんねん、わからへんやろ」
「俺には解るんや」
「なんでやねん。お前いつもの『俺は悪魔の申し子やから全てお見通しや』とかそんなアホみたいな冗談抜かすつもりやろしばくぞコラ」
「ちゃう。俺には解るんや」
「せやからなんでやねん」
「井宿はんから文を貰うたから」
「ああ、なんや。文かあ、へえ……………………ッ?!」
机に突っ伏していた上体が勢いよく上がる。
久々に鋭い眼光を取り戻した至t山の頭は、唖然と副頭を見つめた。
「はあ?! ふ、文?!」
「うん。しかもお前宛て」
「はあああっ?! なんやねんそれ、なして俺に」
「幻狼」
喚く頭を一言で制して、攻児は鋭い一瞥を向けた。
我に返った幻狼が、その視線を受け止めて一時停止する。
二人の間をぴんと張り詰めた空気が支配した。
「ええ加減にしてくれんか」
「……何、を」
「この現状を、や。いっちゃんてっぺんにおるお前がそんな態度やったら部下に示しがつかん。他勢力にも嘗められる。お前はそんなに至t山におる人間の誇りを地に落としたいんか? 今のお前のツラを先代が見たらどう思うやろな。『お前なんぞにこの山は任せられん、俺にやらせろ』いうて化けて出てくるかもしれんで」
幻狼が怪訝な表情を作る。戸惑いと反省と疑問を一緒くたに感じている、そんな顔つきだった。
攻児はふと息を吐いて、言葉を続けた。
「俺が井宿はんからの文を隠しとったのは――お前に自分の心を確かめさせるためや」
「……どういう意味や」
「ええ加減にしてくれ言うたやろ。お前いつまで逃げるつもりやねん、らしくないで」
「何の話や、俺は」
「幻狼」
頭の声を遮って、攻児は言った。
「俺はお前が男に恋したとしても、なんとも思わんで」
幻狼の顔が大きく歪む。
副頭の言葉の意味を理解した彼は「はあ?!」と裏返った声を発した。
「マジでや。本気でそう思っとる。お前が想いを叶えたいっちゅうなら協力してやる、いくらでも」
「な――何言うて」
「言葉通りや。……井宿はんからの文、渡してもええで。ただし、一つ約束しろ」
攻児は机に手を置くと、幻狼に顔を近づけた。
「今一度よう考えて、結論を出せ。必ずや。なしてそんなに井宿はんのことが気になるんか――その答えを出すと俺に約束しろ。そうやないと文は渡さん。……どうや?」
約束できるか?
攻児の問いに、幻狼は長い沈黙を返した。
何度も口を開きかけては閉じるという行為を繰り返したあと、至t山の主は何かを諦めたように大きく嘆息した。
「……解った。解ったから、文を寄越せ」
覚悟を決めた頭を見下ろし、攻児は懐から文を取り出した。
宛名は『幻狼様』、差出人は『李芳准』とある。文は幻狼が井宿に気を放った数日後に届いた。簡素ではあるが彼の今現在の近況と、幻狼の声に応えなかった理由が記されている。
「必ず約束を守れや。頼むから、これ以上この山におる連中を失望させるな」
文を差し出すと共にそう言い捨てて、攻児は部屋をあとにした。
そして話は冒頭に戻る。
「攻児。俺は……ほんまに、ほんまのほんまにめっちゃ真剣に考えたんや」
このひと月、それこそ気が狂うほどに。
床に正座しながら項垂れる頭を見下ろし、攻児は僅かに眉を顰めた。
若干嫌な予感はするが、もうひと月も待ったのだ。これ以上は待てない――本当に至t山の統治に影響が出てしまう。
「ああ。それで?」
「よう考えた。物凄くめちゃくちゃほんまによう考えた」
「結論を言え」
「ようわからん」
顔を上げて、幻狼はきっぱりと言い放った。
「よう考えた、むちゃくちゃ考えたけど――ようわからん!」
――そう来たか……。
認めるのは容易ではないだろうと、思ってはいたが。
「……それが答えか」
おう、と頭が頷く。
笑顔で思いっきり毒づきたい衝動を必死に抑えて、攻児は真顔のまま続けた。
「せやったらお前もう、あの人に会うな」
「え?」
「文読んだんやろ。あの人にはあの人の人生があるんやから、これ以上深入りするつもりがないんやったら――考えるな。あの人のことは忘れろ」
顔を顰めたまま幻狼が固まる。
一拍間を置いて、至t山の頭は要領を得ない返事をした。
「……それは……無理や」
「なんでやねん」
「や、やって、俺は、あいつが」
す――と言いかけて止まる。
自分の言動に凍りつきかけた幻狼は、次の瞬間に頭を抱えて床に突っ伏した。
「ッ……えええええええ嘘やろおおおおお!!!!」
――ほんまになあ……。
動転する頭を感慨深く見つめ、攻児は一つ息を吐いた。
二十年以上生きてきて、今まで恋愛の『れ』の字もなかった男だ。戸惑うのも無理はない。
しかも相手はこの至t山の山賊たちのように大事な仲間で、かつ同性――男である。女嫌いではあるが、男色の気など欠片もない幻狼が拒否反応を示すのも当然といえた。
――っちゅうか俺も決め付けすぎか? もしかして、ほんまに単に井宿はんが心配なだけ…………。
なわけないか。
目前でうんうんと唸る幻狼の姿を見れば、答えはまさしく一目瞭然である。
――認めてしまえば楽になれるのに。
いや、認めても苦しいだけか。成就する可能性なんて限りなくゼロに等しいのだから。
特にあの人が相手なら、只管に面倒臭いことになるだろう。告白したら実は両想いでした、などという奇跡が起こらない限りは。
――起こらんとも言えんが。
井宿はんに限って言えばそれはありえへんやろうな、と攻児は思った。
だが何がどうあれ、自分の立ち位置は変わらない。
攻児は至t山の頭補佐であり、副頭だ。だから――この先何が起ころうと、攻児は絶対に幻狼の味方で在り続ける。それだけは変わらない。
「お頭。答えを出すための方法を一つ献策しましょうか」
だからこれは決して揶揄しているわけではない。
幻狼が本当に本気なら、彼の戸惑いが特別な感情からきているものだとしたら――その想いを叶えさせてやりたい。
親友の、望む形で。
「今度井宿はんに会うた時、試しに接吻でもしてみたらどうや? 気持ち良くても悪くても、それが一つの判断基準になるやろ」
「っおお! せやな攻児お前あったまええ!!」
――うっわー、めちゃくちゃ混乱しとるー。
動揺しすぎて既に正常な判断が下せていない親友を眺め、攻児は思わず笑った。
このまま幻狼が突っ走ってしまったら、井宿はどう出るだろう。
拒むだろうか。逃げるだろうか。絶交するだろうか。
「正念場はこれから、か」
こりゃえらい長丁場になりそうやな、と攻児は続けて呟いた。
100718