続・迷走街道爆走中




 何故、なんて疑問に思う時点で、既に堕ちているのかもしれないけれど。






 続・迷走街道、爆走中






 唐突に納得したことがある。
 あれは天コウとの戦いの最中――仲間とその親友の闘いが、終わった直後。
 俺達は親友だと仲間は言った。泣いて、泣き叫んで、必死に訴えていた。
 その姿を見て、翼宿は唐突に納得した。
 ――ああ……。
 こいつ、人間やったんやな。
 当然だ。彼は魔物でもなければ妖精でもない。自分と同じ、この地上に生きる人間である。
 知ってはいる。だが理解していなかった。納得したその瞬間まで、翼宿は仲間を――井宿を、自分と同じ人間なのだと理解していなかった。
 いつも飄々としていて神出鬼没だったから、三頭身になったり変化したりとその身を自由自在に操ることができるから、まるで仙人のようだったから――など、理由は多々挙げることができる。
 彼は言動も姿形も常人離れしていた。だからこそ無意識の内に『自分とは違う生き物』なのだと思い込んでいたのかもしれない。
 だがそうではなかった。彼は人間だった。翼宿と同じく――喜怒哀楽を発露し、己の生の中で足掻く人間でしかなかったのだ。
 なんだそうだったのかと気が抜けた反面、安心した。少なくとも以前よりは話が通じると思った。
 それまで翼宿にとって井宿とは『得体の知れない仲間』でしかなく、何を言ってもどうせかわされるか、からかわれるか、説教されるかのいずれかだろうと心の何処かで諦めていた。勿論同じ仲間として信頼はしていたが、それ以上に『訳の解らない奴』でしかなかった。
 そして翼宿は、恐らくそれは一生変わらないのだろうと思っていた。何があっても井宿はいつも飄々としていて、翼宿には訳の解らない存在でいるのだろうと。互いに白髪でよぼよぼの爺になってもそれは変わらないだろうと、何となくそう思っていた。
 だが翼宿は井宿が人間であることを理解した。納得した。こいつも人間なんやと、俺と同じで迷ったり苦しんだり悲しんだり笑ったりするんやと。
 それから、井宿に対する見方が変わった。
 改めて、自分と同じ人間であるという観点から彼を眺めてみると――意外にも頑なな男であるということが薄々わかってきた。達観してはいるが何ものにも執着がないというわけではないし、好き嫌いも意外とはっきりしている。
 仁、義、礼、智、信を重んじる儒教思想が根っこにあるみたいや、とは攻児の見解である。きっと上流階級でええ教育を受けてたんやろうな、とも言っていた。
 翼宿は儒教が何なのかさえ知らなかったが、井宿が良い所の出であるらしい、ということは理解した。実際、酒の席でそれらしい話題を振ると、彼は肯定を匂わす発言をしていた。
 井宿は酔うとぽつぽつと昔の話をするようになった。科挙を受ける為に熱心に勉学に励んでいた時のこと、洪水後に赴いた寺院の話、太極山での太一君と娘娘達との交流――どれも断片的で、それらの話題について井宿自身が感想を述べることはなかったが、翼宿は興味深く仲間の過去に耳を傾けた。
 言葉を交わす度に、彼との親密度が高まっていくような気がした。能力と宿命、絆で結ばれていた信頼関係が、井宿の人間性を知ることによってより深まっていくような気がしたのだ。
 そんな矢先に、見てしまった。
 見てはいけないものを。
『……どうしようか』
 太一君が、天帝が新たな四神創出の為に、永く深い眠りについたあとのことだ。
 困惑と不安と、切実さ。全てがない交ぜになった複雑な表情を目に入れて、翼宿は瞬間的に狼狽した。
 思い返す度に思う。
 なしてそんな顔をするんや。なしてそんな顔を。
 ――俺に晒せたんや。
 自分はそこまで許された相手だっただろうか?
 そして彼は、そこまで他人に許すような男だっただろうか?
 いつもの達観も諦観もなかった。素直に――否、あれでも抑えていたのか?――戸惑いを吐き出す井宿が、翼宿には信じられなかった。
 それだけ、師が眠りについたのがショックだったのかもしれない。
 かもしれない、が――。
 井宿がどんどん『人間』になってゆく。強さも弱さも意地も甘えも、他人に見えるようになってきている。
 ――……ええんか。
 俺が見てええんか、それ。お前、ほんまにそれでええんか。ほんまに――人に晒してええんか。
 今までずっと隠してきたくせに。喜怒哀楽だって、眼の傷だって、何だって。
 ――ちゃうか。俺が気づかんかっただけか。
 机に肘をついて、翼宿は――幻狼は項垂れた。
 卓上には一枚の文が広がっている。流れるような綺麗な文字で紡がれた、簡素な文だ。
 見てはいけない井宿の顔を見てしまってから、胸の奥にずっともやもやとしたものがくすぶるようになった。
 気づけば彼のことを考えている。夢にまで見る――そんな日々が続いた頃、井宿にとっても幻狼にとっても転換期が訪れた。
 絶望を携えた因果に纏わる出来事を味わった井宿と、その話を彼から聞いた幻狼。
 精神も身体も消耗していた仲間を見据え、酷くこころが痛む自分がいた。
 そんな顔をするな。傷つくな、お前が悪いわけやない。お前にはどうしようもないことで、せやから。
「……ええんか……」
 そんな姿を俺に見せても。
 ええのか。お前は後悔せんのか。俺を、信頼の置ける、頼れる男として見てくれとるのか?
 今振り返ると、そんな戸惑いばかりが頭に浮かび上がる。
 その時は、痛みを感じる自分の感情が理解しきれなくて――正直、今も明確な回答は導けていないのだが――疑問を感じるどころではなかった。
 それから――井宿がぼろぼろに傷ついて己が眼前に現れた瞬間から、幻狼は本当に彼のことしか考えられなくなった。
 山賊業務にも全く手がつかない。腑抜けていることは自分でもよく自覚していたが、自称『出来のええ』副頭が気を回してくれたお陰で、周囲を気にせずに考え込むことができた。
 ――ちゅうかそんなん、考え込む時点で……。
 否、結論を出すのはまだ早いと脳が訴える。いや、理性か? 何でもいいが――幻狼は未だに答えを出せていない。
 攻児に述べた『ようわからん』という回答は、逃避ではなく事実だ。悩み抜いた挙句に出た結論だった。
 わからへん。俺にはわからへん、あいつのことがなしてこんなに気にかかるのか、なんて。
 せやったら忘れろ、と親友は言った。
 幻狼は、即座に無理だと告げた。
 無理だ。そんなことは無理だ。忘れることなんかできない、彼の存在を思考の片隅から葬り去ることなんか、絶対に不可能だ。
 何故なら自分は。
 ――あいつが……。
 ぐ、と幻狼は口を噤んだ。
 いつもそこで思考が止まる。その先を述べることを、自分の中の何かが酷く嫌がっている。
 何故か、今なら少し解る。
 続きを述べてしまえば、それで終わってしまうからだ。
 認めてしまえば、それで――何もかもが。
 文に眼を戻す。
 幻狼は額に手を当てながら呟いた。
「俺は……怖いんやろうか」
 何が怖い。
 己の気持ちか、相手の気持ちか、事実か、真実か、未来か?
 怖いから認められないというのか。
 怖いから腹を括れずにいるというのか。
「アホちゃうか……!」
 腹が立った。本気で。
 情けない己が身を心底呪いたくなった。
 こんな体たらくでは、攻児の言う通り本当に先代が化けて出てくるかもしれない。それだけは嫌だ、勘弁して欲しい。こんな間抜けな姿は、腑抜けた面は晒せない。あの人の前では絶対に。
 ――……少しはマシな面ができるようになったと思っとったのに。
 先代からこの至t山を受け継いで、もう四年になる。もう直ぐ五年目に入るというのに、この様はなんだ。
 酷い醜態だ。無様にも程がある……!
「おい、入るぞ」
 扉が何度が叩かれたあと、開いた。頭の返事を待たずに入室する人間は余程の阿呆か最古参の山賊達くらいだが、今回は後者だった。
 大柄な体躯が眼に入る。生地の薄い渋柿色の上着を肩に引っ掛けた髭面の男が、幻狼を見下ろして言った。
「なあ、攻児の奴どこいったか知らねえか」
 相手が頭であるにも関わらず平気でタメ口を叩くこの男は、黄桓旺(こうかんおう)という。先代の側近の一人で、幻狼が山に入った時から幹部としてこの至t山を支えていた。至t山付近の出身ではないため、言葉は標準語である。
 苦楽を共にした先代が死んでからも山に残っているが、自分が跪く相手は先代だけだと言い、同じ考えを持つもう一人の側近と共に今は隠居しているような状態である。だが至t山が窮地に陥っていると必ず力を貸してくれる、頼もしい存在であった。
「攻児? ……ああ、そう言えばちょっと出るっていうてたな。慶叔(けいしゅく)の近くまで、集金の様子を見てくるとかなんとか……」
 桓旺の顔が僅かに歪む。
「今日の話だったのか……無茶な折衝をしてなきゃいいが」
「折衝?」
「慶叔の辺りに新興の賊が出てきたのは知ってるだろ。そこの幹部から連絡があったようでな。表向きは懇談だが、わざわざあっちから呼び出すってことは至t山(うち)に関する何らかのネタを握ってるってことだろう。つまりネタと引き換えに取引しろって脅しだ。あいつはそんなもんに屈しねえだろうが、屈しねえ代わりに何すっか解らねえからなあ……」
 昔から攻児に対して過保護と名高い男は、小さく溜息を吐いた。
 幻狼にとっては寝耳に水の話である。
「なんやねんそれ、あいつそんなん一言も……!」
「ああ、お前に気を使わせない為だったら何でもするからな、あいつは。覚えておけよ。それから――帰ってきたらちゃんと叱ってやってくれ、お前が言わないと反省しないから」
「それは了解したけど……カンさん、いつまで保護者面するつもりやねん」
 流石に親友が気の毒になったので、幻狼は呆れ調子にツッコミを入れた。
 幾ら幼い頃から知っているとはいえ、攻児だってもう子供ではないのだ。いつまでも桓旺に上から助言や忠告をされたら、集団の中で生きる一人の男として立つ瀬がないだろう。
 至t山の古株は、ばつが悪そうな顔をして眼を逸らした。
「……努力はしてる。結果が伴っているかどうかは解らんが」
「あかんやん、それ」
「だからなるべく口は挟まないようにしてるって――っていうかお前も、あいつに無茶させる隙を与えんなよ」
 それは――。
 反論出来ずに口篭る。確かに気付けなかった自分が悪いのかもしれない。
 ――俺は至t山の頭なんやから……。
 先代からその意思と魂を受け継いだ。いつでも誇りを胸に、万全たる統治を築かなければならない。それが頭に就任した者の使命だ。
「……カンさん」
「ああ?」
「先代は――今の俺の歳くらいの頃、どないやった?」
 力強い眼差しを思い出す。泰然自若にして大胆不敵、明朗快活な、この山で一番強く凛々しかった男。
 いつだって完成された強さを体現しているような人だった。揺らぐことのない鋼鉄の意志と統治に対する姿勢が、見ている者を熱狂させた。
 百年経っても敵わない、雲の上に居るような人。
 今はもう、本当に雲の上に行ってしまったけれど。
「……馬鹿だったよ」
「え?」
「今考えてみりゃな。ありゃ相当の馬鹿だ。自分が愉しむためだけに山ほど喧嘩売って、買って――山の運営なんて二の次だ、単に毎日愉しけりゃ良かったんだよ、あいつは」
 桓旺は懐かしむように宙を見つめた。
「ここだって、今みてぇな大所帯じゃなかったしな。あいつは本来、小隊か中隊くらいの親玉が関の山なんだよ。邪魔な奴は徹底的に排除してきたし、ある定数以上の人間を下に置くことはなかった。増えすぎると眼が行き届かなくなるからだ。その点――お前は違う」
 話の矛先が急に変わる。
 否――始めから、当代の頭の話だったのだろうか。
「お前には魄狼みてえな冷酷な支配は向いてねえ。攻児はあいつのそういう攻撃的な部分を受け継いじまってるけどな。お前は違う。お前は……きっと王になれる」
 ――王?
「魄狼は、言っちまえば独裁者だ。お前にはそう見えないように振舞っていたが、あいつは意図的に利己主義者だった。本能的にな。自覚のある唯我論者っつうか……だからまあ、さっき言ったように自分が愉しけりゃ良かったんだよ。ただ、自分がしたことに対しての責任だけはきっちり取ってたから、まともに見えてただけだ。……けどよ、お前はそんなことはできねえだろ。むしろそんなことができるお前なんて――お前じゃねえだろ」
 必死に意味を咀嚼しようと努めたが、全く理解しきれなかった。
 幻狼は思い切り顔を顰める。
「解らへんて。あんたの話は難しいねん、昔から」
「じゃあ一言で言ってやろうか?」
 桓旺は幾分楽しそうに口端を上げると、きっぱりと言い放った。
「お前は幻狼なんだから、魄狼になれるわけねえだろ」
 ――先代に。
 なれるわけが――ない?
「だから、てめえの器の中で足掻けよ。器の外なんか見んな。望むな。お前はお前でしかねえ。それは誰だって一緒だ。誰も自分以外の人間にはなれねえんだよ」
 どんなに願ってもな、と古株の山賊は続けた。
 ――俺は……俺でしか、ない。
 先代にも他の何者にもなれない。当たり前だ。自分は幻狼であり、候俊宇であり、翼宿だ。それは誰にも、天にも覆せない真理である。
 自分は幻狼として、幻狼のまま認められてここにいる。認めたのは先代だ。だから――。
「憧れる、なんて段階じゃねえだろ。今のお前は」
 既に一つの集団の頭領である。いつまでも誰かの背中を追うわけには――否、迷わず追えれば何の問題もないのだろうが。
 石に躓いて身動きがとれずにいる。腹を括れば先に進むことができるのだろうか。
「そう深く悩むな、お前がお前でいりゃ至t山(ここ)は安泰だ。あの魄狼が認めたんだからな。自信を持って生きろよ」
 徐々に、しかし確実に内側にくすぶっていた闇が晴れていく。
 惑い迷うこころが飛散していく様を、幻狼は確かに感じた。あの先代の側近だった男に畏敬の念を抱きながら。
 じゃあな、と告げて退室しかけた桓旺が扉の前で足を止める。振り返って、男は言った。 
「幻狼。腹ぁ括るってことは、自分を許しちまうってことじゃねえんだぜ」
 ――え?
「それ以前の話だ。自分がどうとか考える前に――ただ、いつだって眼前にあるものを望む気持ちが腹を括らせる。要は煩悩さ。どんな大儀があろうが、誰の為だろうが、自分がそうしたいから腹を括るんだ。人間っていうのはしたいことをするように出来てるんだよ。是非も善悪も、倫理も常識も関係ねえ。それで――」
 濃い灰色の瞳が幻狼を射る。
「お前は何がしたいんだ?」
 ――俺は。
 何が。
 桓旺はふ、と笑みを零すとそのまま部屋を出て行った。
 再び一人になった部屋で、幻狼は呆然と(くう)を見詰める。
 俺は何がしたい。何が――欲しい。
 桓旺に言われて、一つだけ解ったことがある。
 今の自分は――わからない、なんていつまでも放言していい立場ではない。
 至t山の頂点。認められたからその座についたわけではない。その座につきたいと思ったからついたのだ。
 自らが願ったから今、幻狼は頭の椅子に座っている。
 腑抜けるな、前を見ろ。眼を逸らすな、直視していたら自ずと答えが見えてくる筈や――。
『せやから幻狼。お前は、お前のしたいように生きろ。周囲にとってもお前自身にとってもそれが一番ええんや。なあ、頼むから俺を……』
 失望させるんやないで。
 蘇った先代の声が、幻狼を奮い立たせた。
 卓上に広げていた文に眼を戻す。
 会えば――わかる。きっと。
 井宿に再会した時、その刹那こそが、己が腹を括るべき瞬間だ。
 会えばわかる。何がしたいのか、何が欲しいのか。だから、それまでは。
 幻狼は文を畳むと、引き出しの奥に仕舞い込んだ。椅子から立ち上がり、大きく伸びをしてから窓の外の景色を見やる。
 先代も見た、山と空と丘。その景色をじっと眺めたあと、幻狼は両の手で己の頬を打った。
「よっしゃ! 迎え撃ってやるで」
 己が気持ちを、己が欲を、己が示すこころを。
 再び井宿に会った時、自分は一体何を思うのか。それはその時なってみないと解らない。だから今、詮索しても無駄だ。
 文を読む限り、井宿も頑張っている。頑張って何かを成し遂げようとしている。そんな彼に無様な顔は晒せない。
 また会った時、至t山の頭として、また朱雀七星士の翼宿として在れるように。
 ――俺は俺や。せやから、俺でおる。これから先もずっと。
 それが自分を知る者達への礼儀だろう。
 幻狼は部屋を出ると、部下達がいつも集っている広間に足を向けた。副頭が無茶して帰ってきたら頭として、そして親友として思いっきり叱ってやろうと、頭の片隅で思いながら。
 


  *** 
  

 
 幻狼様

 どう書き出したらいいのか解らなくて、いつまで経っても筆が進みそうにないから近況のみを記すことにする。時候の挨拶もない不躾な文ですまない。
 俺は今、上善市にある張宿の生家に世話になっている。
 君と別れてからやってみたいことが見つかって、それに向かって勉強している最中だ。
 いつになるか解らないが、達成できるまで集中して頑張ってみようと思っている。
 君が放った気は届いていたが、前途の理由により今は眼前の問題に対処するので精一杯だ。
 どうしても急を要するというのであれば、手間をかけさせて申し訳ないが文で連絡を入れて欲しい。
 ひと段落ついたら至t山にも顔を出すつもりだ。良い知らせが出来る様に努力する。
 用件のみだが、これにて失礼。
 
 追伸
 張宿の家族はとてもよくしてくれている。
 兄の子、彼の甥は張宿に良く似ていて、まだ幼いがとても聡明な子だ。
 機会があれば君も一度、顔を出してみたらどうだろう。
 
 李芳准 
 
(※以下、紙の余白に走り書きされているもの)
 
 心配は要らない。俺は大丈夫だから。
 君も大丈夫だと信じている。君は強いから。
 また必ず会いにいく。その時は俺も少しは強くなっているだろうと思う。願望だけど。
 情けない顔だけは晒さないように、頑張るから。

 では、いつの日にか、また。
























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