星辰が見下ろす夜
因果は風に乗り詩を詠う
流離、漂う行く先に
我は何を想い
彼の人は何を憂うのか
惑うばかりでは唯、朽ちるのみであろうに
星辰が見下ろす夜
星の綺麗な夜は大抵、良い思い出に繋がっている。
澄んだ空気と雲ひとつない夜空に煌く星辰。果てのない空を見上げては己の矮小さを知り、取り戻せない今日に見切りをつけてはまた明日への活路を見出す。
机に頬杖をつきながら、男は正面の窓から夜空を見つめた。
星が紡ぐ星官、二十八宿と世界の創生に携わる四神。それらを統べる天の帝は深い眠りについた。
男は思う。あのお方は今の自分を見てどう思うだろうか、と。
男の名は李芳准という。彼はもう一つ『井宿』という名を持っている。その名を持つ所為で宿命、運命という名の濁流に否応なく突き落とされた。だが星の名はとうに役目を負え、今はもう井宿と名乗ることもない。
宿命から解放されて、ようやく気づいたことがある。
井宿として生きる時間よりも、李芳准として生きる時間の方が、ずっと長い。
否、己は元々李芳准なのだから、当然といえば当然のことだ。だが男にとっては発見であった。己が井宿から李芳准に戻る日が来るなど、彼は思ってもいなかったのだ。
幾月も前のこと――男は絶望の淵にいた。
何年もかけて、仲間の力も借りて固めた地盤を、呆気なく覆された。
世界は己が思っているよりも広く、そして残酷だった。
因果応報。負と憎しみの連鎖。抜け出せない無限の輪の中で罵り合う人々。
断ち切る努力もしないまま、ただ逃げた。苦しみから逃れる為に、故郷から。
机の両端に山と積んである書物を手に取る。頁を捲ると、幼子が記したにしては立派な文字が行間に認められていた。何年も前に見た、戦略防衛に関する草案を記した文字と同じ筆跡だ。
「井宿様――ああ、いえ、芳准殿」
部屋の扉から、この家の主である男が顔を出した。優しげな風貌が「しまった」とでも言うように僅かに歪む。
「すみません、どうも癖が抜けなくて」
「いいえ。こちらこそ、我儘を言って申し訳ありません。お世話になっている身で……」
「そんなことはありません。上善市は都に近いですし、七星士が逗留していると知れたら人が大挙して押しかけてくるでしょうから、七星名でお呼びするのは危険だと私も解っています。だがどうも私は気が回らなくていけない。――今夜も晩くまで?」
「ええ、そのつもりです」
「ならば花茶をお持ち致しましょう。上物が手に入ったので是非お試し下さい」
家主は有無を言わさぬ笑顔で述べると、早々に背を向けた。去り際に顔だけ振り向き「道輝にもよく淹れてやったものです」と言って彼は退室した。
右目を僅かに伏せ、ありがとうございますと口の中で呟く。
この部屋はかつて道輝という名の少年のものだった。壁一面にある本棚には沢山の書籍、巻物が収められており、入りきらない書物が床や机の上に山積みになっている。特別裕福である訳ではないようだが、この家の者は役人を目指す道輝に対して金を惜しまなかったようだ。
家の者達は道輝のことをそれは誇り高く語る。それを聞いて男も――芳准もとても嬉しく思う。道輝は芳准にとっても家族のように大切な、大事な仲間であったから。
――家族、か。
もう二度と得られないものだと勝手に思い込んでいたが、嫁を娶れば家庭が出来る。その内家族も増えるだろう。否、娶る予定もなければ好いている女さえいないのだが、そんな発想が出来るようになったこと自体が芳准にとっては驚きだった。
人は日々変わっていくものなのだろうか。姿形も、心内も。
――俺は変わらなすぎた。
長い間、変わることが怖かった。いつでも現状を維持していれば何とかなると思っていた。何も欲せずに、上から見下ろして、唯只管に淡々と、飄々と――。
それまでの己を嫌悪しているわけではない。認めていないわけでもない。
唯、己の中で何かが変わった。だから――現状を維持することが出来なくなった。
それが成長と言えるのなら、それは歓迎すべきものなのであろうと思う。
己がまだまだ未熟者であることは充分承知している。しかし未熟だからこそ、まだ沢山の伸び白があると言える。
自分の可能性を試してみたい。だから行動することを決意した。
どんなに逃げたくても、捨てられないものがあるから。
芳准は自分と同じく生き残った仲間の一人を思い浮かべた。唐突に気を放たれて呼びかけられたのだが、生憎多忙で構っていられず、代わりに文を送ったのだが――無事に彼の手元に届いたのだろうか。連絡がないところ見ると、たいした用ではなかったのだろうが。
山賊の首領である彼は、ここ数年で著しい成長ぶりを見せている。初めて会った頃のことが嘘のようだ。ちょうど伸び盛りの年頃ではあるが、素直に己を真っ直ぐに伸ばすことができる才覚が芳准には些か羨ましい。
再会する度に彼は強く、逞しくなっている。内に根を張る優しさを保ったまま。
そんな仲間のことを芳准は誇りに思う。
だから己も――彼に誇られる男で在りたい。
それはいつかの自分が抱いた気持ち。
僅かに口角を上げて笑んだ。
――信じられない。
本当に。自分が、俺が、そんなことを。
――なあ飛皋。
誰よりも信じていた、誰よりも好きだった親友を、芳准は心底尊敬していた。誇りに思っていた。だから、彼にも誇られるような親友でいたかった。
いつまでも、ずっと。
服の上から首に下げている玉を握り締める。
変わっても変わらないものがある。
戻っても戻らないものがある。
時間の経過を経ても、心身の成長を経ても――己は己でしかないのだとしたら。
――今度こそ、俺は。俺は……。
左目と共に失った未来を取り戻すのは、容易ではないだろう。だが進まなければ始まらない。目的地を目指して歩かなければ。
何にも届かない。お前にも。
開いた書物を傍らに置き、筆を手に取る。
同じ国に生きている仲間がいて、もう一人の仲間と親友が遺したものに囲まれて、宿命を象徴する星空、彼の方が眠っている天が見下ろしている。
――力が出ないわけがないじゃないか。
やる気も勇気も充分だ。希望だって無限に沸いてくる。嬉しくて堪らない。
俺はまだ生きている。生きているから。
「芳准殿」
扉を開けて、家主が再び顔を出した。茶器を乗せた盆を掲げて柔和に微笑む。
爽やかな花茶の香りが鼻腔を擽り、芳准も破顔した。
「ありがとうございます」
それはいつかの自分が嗅いだ香り。
交錯する過去と未来を胸に、男は前を向いた。
101124