空よりも高く、海よりも深く
自分は浅はかな人間だったのだと気づいた時の、絶望の深さは並じゃない。
狭量さを自覚し、恥じる心があるだけ、
まだマシというべきか。
空よりも高く、海よりも深く
祖母の訃報の連絡を受けたのは、バイトが終わった直後のことだった。
すぐさま仲間にバイクで駅まで送ってもらい、最終の新幹線に乗って、翼宿は故郷へと帰った。
入院先の病院に駆け込み、祖母の亡骸を見下ろした。久しぶりに見た祖母は皺くちゃで、頬がこけていた。気のせいか、何故か微笑んでいるように見えた。
感傷に浸る間もなく、葬儀のために親族は慌しく駆け回った。方々への連絡と通夜の準備に追われ、そのまま当日を迎えて、翼宿は妙な疲労感を覚えた。
祖母とは、中学に入ってからはほとんど会っていない。優しい中にも気丈な強さを持った人で、孫達に手作りのお菓子を与えるのが好きだった。子供が大好きで、大いに甘やかされたのを覚えている。
祖母は、翼宿の特殊な能力すら好意的に受け入れていた。感情の昂ぶりによって炎を発生させてしまった翼宿に向かい、祖母は凄い力だと褒め称えた。それから焚き火をする時はいつも炎を出して見せてくれとせがまれた。翼宿は誰かにバレやしないかとひやひやしながら、祖母の為に炎を出した。庭で焚き火をして、祖母が焼いてくれた焼き芋は本当に美味しかった。
――あ。
思い出を呼び覚ます度に、胸にじわじわと何かが込み上げてくる。
翼宿は眉を顰めながら念仏を聞いた。
通夜を終え、祖母と親族は火葬場にいた。広く長い通路には幾つかの窯があり、あちらこちらで泣き声と念仏が響き合っていた。
窯の扉が開いて、祖母の棺桶が入っていく。
燃え盛る炎を見つめ、翼宿は虚しいやら腹立たしいやらで胸の奥が疼くのを感じた。
炎は自分の力の象徴。その炎に包まれながら、祖母が消えてゆく。
火というものの恐ろしさを、翼宿は身をもって知っている。だからこそ――怖い、と思った。焼いて欲しくない、とも。
窯から祖母が出てきた。ところどころ割れた骨は脆く、まるで軽石のようだった。
骨だけになった肉親というものは、相当なインパクトがあった。その骨は、一日前まで肉に囲まれ臓器を以って呼吸し生きていたのだと思うと、翼宿はようやく祖母が死んだことを実感した。
途端、涙が止まらなくなった。
骨だけになった祖母は骨壷に入れられ、先祖代々続く墓に埋葬されることになった。
一通りの儀式を終え、実家に戻ると、久々に集まった親族は思い出話を肴にドンチャン騒ぎを繰り広げた。思い返してみれば、通夜の時も明るく振舞う親族が多かった。元気に見送ろう、心残りなく逝けるように、と誰かが言った。
「俊宇。あんたもう帰るの?」
台所で忙しくしていた母が顔を出した。
親族達を適当にあしらったあと、翼宿は荷物をまとめて玄関に赴いていた。
「明日もバイトやねん。学校もあるし」
「サボりの常習犯が何抜かしとんねん」
「あんなあ、息子がやる気出しとるんやで。応援するのが筋やろ」
「はいはい。ま、せいぜいきばりや。ほら」
そう言って母は、ポケットから取り出した紙幣を翼宿の手にねじ込んだ。
「ちょ、おかん」
「新幹線代や。残りは懐に収めちまいな」
翼宿は照れ臭くなって、そっぽを向いたあと小声で「おおきに」と礼を言った。
「ん。じゃ、気いつけて」
「おかん」
立ち止まった母が翼宿を見やる。その眼を見返して、言った。
「長生きしいや」
通夜も葬儀も初めて体験した。
あんな想いは、もう。
「何アホ言うとんねん」
あっけらかんとした声が玄関に響いた。
口端を上げて、恰幅の良い母は不適に笑った。
「百まで生きたるから、覚悟しいや」
己が母の強さに、翼宿は感心せざるを得なかった。
***
「翼宿」
玄関口で、家の主が驚きの声を発した。
いつもここに来る時はなるべく事前に連絡を入れるようにしている。だが今日は奇襲を仕掛けのだ。
翼宿は実家から東京に戻ると、その足で彼の――井宿の家にやってきた。
無性に、会いたかったから。
「今、ええ?」
「ああ。どうぞ」
部屋に通され、いつもの定位置に陣取る。
井宿の部屋はいつ来ても簡素で、生活感を感じさせない空間だった。部屋の角にあるデスクトップ型パソコンの画面にスクリーンセーバーが映し出されている。レポートでも書いていたのかもしれない。
入れてくれたコーヒーを受け取って、一口啜った。暖かい液体が身体に浸透し、心を解してくれる。少し、ホッとした。
「……どうしたんだ?」
恋人の様子がおかしいことに気づいていたらしい井宿が、静かに尋ねる。
翼宿は「ん、」と答えてまたコーヒーを啜った。
「ばあちゃんが死んでな」
え、と井宿が顔を上げる。
翼宿は機動したままのパソコンを眺めながら続けた。
「実家帰って、葬式してきた。今日こっちに戻ってきたんや」
「……そうか」
「うん。で、なんかお前のことが頭から離れんようになって」
帰りの新幹線の中で、ずっと考えていた。
人の死と、自分の能力と――井宿のことを。
「正直、ばあちゃんとは大した思い出もないねん。中学入ってからは会うてなかったし……ガキの頃は構われすぎて、相手すんの面倒やと思うたこともあったしな。せやけど、通夜も葬式も辛かったし、もうほんま勘弁して欲しいと思うた。……人が死ぬってえらいことなんやな」
得た感傷は経験となり、経験は価値観に反映されていく。
胸を抉られる想いの末に得たものは――。
「俺はばあちゃん一人死んでこのザマや。……せやけど、お前は……」
全てを一挙に亡くした。
そんな井宿のことを考えると――自分のことのように悲しかった。
どれほど辛かっただろう、どれほど苦しんだだろう。翼宿には想像もできないし、今更彼の傷を肩代わりすることなんて、もっとできない。
寄り添って、彼が少しでも安らぎを感じることができたら――それが自分にできる、最大で最良の思いやりなのだと思う。
わかってはいる、だが口惜しいのも確かだ。結局、そんなことぐらいしかしてやれないことが。
痛みを理解できても、その痛みを癒す方法を翼宿は知らない。
どうしようもなく情けなくなって、翼宿は顰めた顔を逸らした。
井宿に会いたいと思ったのは、彼に甘えたい気持ちがあったからだ。支える、なんていつも偉そうなことを言っているのに、大事なところでは井宿を頼っている。
つまり――彼の痛みを理解したと明言することで、自分の痛みも理解し甘やかしてくれるだろうと思ったのだ。
――アホくさ……。
結局、慰めて欲しいだけやったんやないか。情けな――。
翼宿はふと眉を顰めた。
気づくと井宿が自分の頭を優しく撫でていた。
視線を送ると、恋人は手を止めて翼宿を見つめた。
「翼宿。辛いときは辛いって、言っていいんだ」
「……お前が言うか……」
朱雀七星士の中で『何があっても我慢してしまう人ランキング』を作ったら、井宿がぶっちぎりでトップを掻っ攫っていくだろうに。
「いや、うん……。確かに俺が言うと信憑性がないかもしれないけど……、でも、今の君が我慢することなんてないんだ。俺の過去を自分の痛みのように感じる必要もない。過ぎたことは、誰にもどうにもできないことだから……。でも、俺の痛みを理解して、寄り添おうとしてくれたことは、嬉しい。ありがとう、翼宿」
井宿がにっこりと微笑んだ――のを見て、自分の中の箍が一気に崩壊した。
彼を力任せに引き寄せて、腕の中に収める。
「井宿……」
なんと言ったらいいかわからなくて、ただ名前を呼んだ。
井宿の手が背中に回り、優しく包まれる。
「翼宿、俺も君と同じだ。君が辛いと俺も辛いし、君が辛いなら、寄り添って慰めてやりたい。……俺にできるかどうか、わからないけれど」
――同じ。
同じことを想ってくれているのか。
俺と――。
そう解っただけで、翼宿は喜びのあまり笑い出しそうになった。
寄り添って支えたいと思ってくれている。自分と同じように。あの井宿が――誰でも受け入れているように見せかけて、本当は誰にも心を覗かせようとしなかった井宿が。
恋人ではあるけれど、その想いは一方的なのではないかと思っていた頃が嘘のようだ。
翼宿は井宿の首筋に顔を埋めた。
「できとるって、充分すぎるくらいや。……ほんま、嬉しい。おおきに」
ああ、と返答する井宿の声が優しい。暖かくて心地良くて、気が狂いそうになるくらいに。
抱き締め合ったまま、翼宿は祖母との思い出話などを語った。
痛みが徐々に癒えていくのを、確かに感じた。
090601