それはチョコレイトよりも、甘く。
思い立ったが吉日、である。
それはチョコレイトよりも、甘く。
節分が終わると、どのデパートもバレンタインデー一色になる。ピンクや赤に染まった特設コーナーを、たまたま通りかかった井宿はぼんやりと眺めた。
今年も美味しそうなチョコレートが並んでいる。甘いものが好きな井宿にとっては天国のような売り場であったが、流石に女性の群れに男一人で突撃する勇気はなかった。
微かに漂うチョコレートの匂いを嗅ぎながら、今年はどうしようかと思案する。本邦では女性から男性にチョコレートを贈るのが一般的であるため、男である井宿がどうしようか等と悩む必要は本来ならまったくないのであるが――ここ数年は男性から贈る『逆チョコ』というものも存在しているのだが、そういう方面のトレンドに疎い井宿がその存在を知っているわけもなく――彼には彼なりに悩む理由があった。
井宿には七つ年下の恋人がいる。それも自分と同性、つまり男だ。男同士のカップルだからバレンタインデーには相手にチョコレートを贈らなければならない、などという法律はどこにもないわけだが、それでも恋人にチョコレートを贈るのは既に例年の恒例行事と化しているため、特に疑問に思うこともなく井宿は今年もその行事をまっとうしようとしていた。
さて、今年は何を贈ろうか。恋人は井宿と違って甘いものが苦手であるから、甘さ控えめで美味しい――できれば自分もつまみ食い出来てなおかつ満足できそうな――チョコレートを探さなければ。
むしろ塩気のあるスナック菓子とかを贈った方が喜びそうだなと思いつつ、遠くから売り場を見渡す。
――あ。
その時、井宿はひらめいた。
思い立ったが吉日と、早速行動に移す。
井宿は携帯電話を取り出し、素早く電話帳を開いてある人物と連絡を取った。
***
「……あのですね」
オファーを入れた三日後、バレンタインデー前日――呼び出しに応じた客人は珍しくげんなりとした顔を差し出した。
井宿は興味深げにその顔を眺める。そんなに無理な、いや、無茶な依頼をしたのだろうか、自分は。
「どうしてこうなった、っちゅうか……いや、なんでそういう結論に至ったんです?」
井宿の自宅に呼び出された客人――攻児が眉を顰めてテーブルを見やる。
キッチンの近くにあるダイニングテーブルの上には、ボウル、泡だて器といった調理器具と、製菓用のチョコレート、小麦粉、グラニュー糖などが並んでいた。
「なんでと言われても……単に思いついただけなんだが」
「普通、思いついても実行に移さんと思いますよ。野郎なら」
「え、そうかな。売り場で選ぶ手間も省けるし、相手好みのものが贈れると思っただけなんだが」
「いや、確かに一理ありますけどね。そんなんで最後まで突っ走ってまうのも、ある意味井宿はんらしいとも思いますけどね……」
そうかな、と井宿は小首を傾げる。自分の基準では特に奇異な行為であるとは思えないのだが。
「……というか普通、本命チョコレートって手作りなんじゃ?」
「えっ! え?」
「え? 違うのかな」
「えっ……ああ、いや……女の子はそうなんかな? いや俺知りませんけど、そんなこと」
戸惑っている攻児を不思議に思いつつ、じゃあ何が「えっ!」だったのかと尋ねる。
恋人の親友は半ば呆然としながら言った。
「いや……まさか井宿はんが真顔であいつのこと『本命』とか言うとは思わへんかったから」
人間変わるもんですねえ、と攻児がしみじみと続ける。
思ってもいなかった指摘を受けて、井宿は思わず赤面した。
「そ……れは、忘れてくれ。それより、チョコを作ろう」
「はあ。っちゅうかなして俺を呼んだんですか? もっと適任おったでしょうに、朱雀のお仲間とか」
「ああ、朱雀の仲間には翼宿とのことは何も言っていないから……。君は事情に精通しているし、器用そうだからお菓子作りも簡単にこなしてしまうんじゃないかな、と」
「完全に買い被りの見込み違いっすね、それは。料理やったら幻狼の方が全然上ですって。俺、ホットケーキくらいしか焼いたことないですよ?」
レシピ本をぺらぺらと捲りながら攻児が唸る。
いいんだよ、と井宿は微笑した。
「凝ったものを作る気はないし、軽く手伝って貰うだけだから。味とか形とか、出来上がったものに対してアドバイスが欲しいんだ」
「まあ、やれるだけやってみますけど。何作るつもりなんですか?」
「第一候補は、ガトーショコラ」
「……第二は?」
「ブラウニー」
「……自分が喰いたいもん選んでません?」
「いや俺はフォンダンショコラがいいんだけど、流石に翼宿にはきついかなと思って」
答えながらビターチョコレートの塊を包丁で細かく刻む。
「あー、あの中から溶けたチョコが出てくるやつ。確かに幻狼にはきついでしょうねえ」
「材料余ったら作ってみようか。結構簡単に出来るみたいだし」
「ええですねえ。ちゅうか井宿はん、手際ええっすね。普段からお菓子作りしとるんですか?」
「今は作ってないけど、昔はよく母や幼馴染のお菓子作りを手伝っていたから……クッキーとかよく作ったな。うちは一家揃って甘いものが好きだったから」
思えば、何か行事がある毎にお菓子を作っていた気がする。誰かの誕生日とか、節分とか、雛祭りとか――そういえばバレンタインのお返しとして、ホワイトデーに親友とクッキーを焼いたこともあった。
――あいつはモテたから、お返しの量が多くて大変だったっけ。
懐かしさが胸に溢れる。
こんな風に、暖かな気持ちで過去の記憶を思い出せるという僥倖を噛み締めつつ――。
「いややなぁ井宿はん、そんないやらしくにやけて」
「えっ」
「冗談ですよ。しゃあない、井宿はんがマジやっちゅうなら俺も腹ぁ括りましょう。お好きに使うてください、手伝いまっせ」
何かを諦めたように攻児が爽やかな笑顔を見せる。
その反応に疑問符を浮かべつつも、井宿は恋人の親友の協力に感謝した。
***
「というわけで……今年は作ってみたんだ」
口に合うかどうか解らないけれど、と言って手渡された箱を翼宿は呆然と見つめた。
本日は二月十四日、バレンタインデーだ。甘いもの全般が苦手な翼宿だが、この日にチョコレートを貰って喜ばない男ではない。今年も恋人から貰うのを楽しみにしていたくらいだ。
しかし現実は、翼宿の期待とか予想をはるかに超えていた。
一体何が「というわけで」なのか全く検討もつかないし、一体どういう思考回路を経て恋人がこんな選択をしたのかも全く解らないけれど――。
――なんで。
手作り……手作……てづっ……ッ!
「て、手作り?!」
やっとのことでそう返すと、恋人は――井宿はきょとんとした顔を向けて「そうだけど」と頷いた。
「やっぱり……変かな。攻児君も変な顔をしていたし」
「は? なんで攻児が出てくるんや?」
「作るのを手伝って貰ったんだ。俺と君の事情を把握しているし、器用そうだったから……実際、凄く呑み込みが早かったよ。多分もう一人でケーキもクッキーも焼けるんじゃないかな」
「そない沢山作ったんか?」
「ああ、材料が余ったから。チョコレート菓子パーティみたいになってしまって」
道理で部屋に甘い匂いが漂っている筈だ。そのチョコレート菓子パーティの名残なのだろう。
「開けてええ?」
ああ、と井宿が頷く。
翼宿は箱にかけられた水色のリボンを解き、蓋を開けた。
現れたのは――ココアパウダーを纏った、四角いチョコレート。
「生チョコレートなんだ。色々作ってみて吟味したんだけど……それが一番甘さ控えめで食べ易いなと思って。ビターチョコレートで作ったから、見た目ほど甘くないと思う。あ、苦手なら無理して食べなくてもいいから」
気遣いがふんだんに盛り込まれた台詞を耳に入れて、翼宿はとても暖かい気持ちになった。
自分のことを考えて、想って、時間を割いてくれた結果が今、この手中にある僥倖を噛み締める。
――っちゅうか……。
可愛すぎて今すぐ押し倒したい、と若さ溢れる現役高校生は思ったが、昂ぶる衝動を必死になって抑えた。
大丈夫やって、と答えて恋人が作った生チョコレートを一つ摘む。口に入れると、苦味の利いたチョコレートが舌の上で優しく蕩けた。官能的な口どけを存分に味わい、恋人に向き直る。
「めっちゃ美味いやん! これなら幾らでもいけるわ」
「そう……、良かった。君に喜んで貰えて」
安心したのか、井宿が華やかな笑顔を見せた。
おいおいだから下半身を刺激するような真似はやめてくれと思いながら、翼宿は礼を述べた。
「ほんま、おおきに。めっちゃ嬉しいわ。これもめっちゃ美味いし」
お前もめっちゃかわええし、とは続けず、俺もホワイトデーはなんか作ったるかと言うと、井宿は喜んだ。
「それは楽しみだな。君の料理の腕前は折り紙つきだし」
「流石に菓子は作ったことあらへんけどな。あ、でも昔姉ちゃんの誕生日にケーキ焼いたか。スポンジ作るのめっちゃ難しかった記憶が……」
「確かにスポンジは難しいな。チーズケーキとかシフォンケーキの方が意外と簡単だったりするし」
「ほんまに? シフォンケーキって、あのふわふわしとるやつやろ。あれこそ難しいんちゃうんか」
「あれはハンドミキサーがあればそんなに苦労しないよ。生地とメレンゲを混ぜて焼くだけだから。混ぜすぎるとメレンゲの気泡が潰れて膨らまないけれど、それさえ気をつければ大丈夫」
二つ目のチョコレートを口に入れ、翼宿はへえと唸った。
「詳しいな。作ったことあるんか?」
「昔、母の手伝いで。……久々に焼こうかな。攻児君へのお礼、どうしよう」
「チョコレート菓子パーティしたんやろ? それでええやん」
攻児も甘いもの好きだから、充分楽しんだ筈だ。ケーキ製作というスキルも身につけられたわけであるし――。
「ちゅうか攻児のことなんかどうでもええやろ」
「え?」
振り向いた井宿に顔を近づける。
今は――俺のことだけ考えてろや。
などという台詞は流石に恥ずかしくて言えないのだが、気持ちだけは激しく抱きつつ、翼宿は井宿と唇を重ねた。
驚いて少し引いた恋人の首の後ろに手を当て、角度を変えてまたキスをする。
「っ……」
井宿が苦しそうに息を漏らした。
いいだけ貪ったあと、顔を離す。
恋人の白い頬が仄かに紅く色づいていて、翼宿はぞくっとした。
その頬に手を当て、そっと彼の目を覗きこむ。
「……好きや」
解りきったことを囁く。
だが何度告げても告げ足りない。彼と一緒に過ごす時間が長く、深くなっていくにつれ、愛おしさが胸に膨らんで体中を駆け巡る。
解っていると、頷くように井宿が目を伏せた。
「俺もだよ」
同じ事を考えてくれている。
同じ気持ちを――同じ僥倖を、噛み締めている。
大切な人と、二人で。
翼宿は満足気に破顔すると、力強く井宿を抱きしめた。
甘くて尊い夜の始まりを、祝福するかのように。
110214