ともかがみ



 
 好きだから嫌いになって、好きだから許せなくなった。
 お前の為に断ち切るんじゃない。
 俺の為に断ち切るんだ。
 なあ、そうだと言ってくれ。






 ともかがみ





 
 冷えた夜を月が照らしている。街灯よりも遥かに高い位置から地上を見下ろす衛星は今宵、その白い全身を曝け出していた。
 綺麗やなと翼宿は素直に思う。月見酒でも興じたくなる美しさだ。
 暇であったら――の話だが。
 背後に気配を察知し、素早く振り返る。瞬時に念じて構えた右手に炎を纏い、気配に向かって叩きつけた。
 紺色の毛に覆われた獣が燃える。犬に似ているが、猿にも見える。角度によって顔が変わる珍妙な獣が炎に包まれ、徐々に小さくなっていく。火の粉が四方に飛び散ったあと、獣と共に小さくなった炎が消え、燃え尽きた残骸だけがアスファルトの上に残った。
 黒い紙片のような残骸を拾い上げる。黒色の紙のような札に白い文字が認められていた。達筆過ぎて翼宿には読み解けない。
 だがどういう仕掛けかは解らなくても、それが何かは解った。
「……式、か?」
「そのようだ」
 いつの間にか隣りに立っていた男が相槌を打つ。
 翼宿は驚いて男を――井宿を見返した。
「おおっ、早かったな」
「簡単な相手ばかりだったから直ぐに片付いたんだ。……それ」
 ああ、と持っていた札を渡した。こういうのは専門家に任せるに限る。
 紙片を確認した井宿は、翼宿と同じ答えを導いた。
「陰陽師が打った式だ」
 井宿は神社の家に生まれた、由緒正しい陰陽師である――らしい。
 詳しい事情や歴史などは解らないが、彼の家は代々陰陽師として憑き物落しを生業としている。彼も幼い頃から修行に励み、十五から一族の一員として仕事を始め、十八で当主となり家督を継いだ。仕事内容は依頼によって異なり、祈祷・占術から幽霊成仏・妖魔退治など、多岐に渡る。
 同じく宿星が司る運命の下に生まれ、過ぎた力を持つ人間でもある翼宿は時折、彼の仕事を手伝っていた。自分の発火能力のコントロールを維持する為と、単純に仲間の――恋人の力になりたいと思ったからである。
 七つ年上の同性の恋人とは、数ヶ月前に付き合い始めた。といっても気持ちを自覚した翼宿が言い寄り、押しかけ、寄り切った末に彼の隣りを支配しただけである。だから恐らく井宿は諦めの悪い高校生(こども)に抵抗するのが面倒で、なし崩し的に関係を了承したのだと思う。
 それでもやる事はやっているし、二人の間に大きな問題が起こることもなく、今まで関係を持続出来ている。
「箕宿か?」
 翼宿は井宿以外で知っている陰陽師の名を口にした。
 いや、と井宿が首を振る。
「気が違うし、彼の流派の式じゃない。むしろ……」
 言葉を切り、井宿は印を結んだ。焦げた札に翳し、僅かに口を開いて呪文を唱える。
 さらりとした長い前髪が微風に揺らめいた。隙間から暗い赤銅色の瞳が見える。
 昔、『何か』があって、井宿は左目を負傷し視力を失ったのだそうだ。『何』があったのか、翼宿は知らない。今まで幾度かそれとなく尋ねてみたが、井宿は答えなかった。
 ――俺はまだ信用ならんのか。
 どうしても覗かせてくれないのか。その深淵だけは。
 ふと口を閉じた井宿が印を解き、顔を上げた。
「持ち主を追えるかと思ったけど駄目だった。焼け過ぎていて相手の痕跡が残っていない」
「えっ。ああ、すまん。これでも加減したんやけどなあ」
「謝ることはない。前々から思っていたんだが、君の炎には浄化の作用があるのだと思う」
「じょうか?」
「無に帰す、とも言うかな。燃やす対象の属性や痕跡を消してしまうんだ。だから実態のない魔性のものなんかも、魔の属性ごと燃えて消える。綺麗に無くなる」
「せやったら、なしてその札は残ったんや」
「これは術者が――つまり能力を持つ者が術式を以って打った式だからだ。『術』という形式の『呪』がかかっているから、実体の無い妖魔よりは属性の数が多いんだね。君が手加減をしたから、この式が持つ全ての属性を消し切れなかったんだと思う。だから式だと判別は出来るけれど……それ以上のことは解らないな」
 焼け焦げた紙片からそれだけ解れば十分だと思うのだが、それは素人考えというものなのだろうか。
 ん? と翼宿は眉を潜める。
 術者が式を放ったということは――。
「誰が、っちゅうか――誰に放ったんや? 狙われたのは俺か、お前か?」 
 誰かからの依頼か、それとも放った術者自身の思惑か。
 仕事柄、そして能力柄、翼宿も井宿も多様な方面から目をつけられ易い。全く意図していないところから恨みを買うこともよくある。
「君は……目立つが、こちら業界の人間ではない。七星士としての役目も終えたし、一般人にはそう簡単に手は出さないよ。君の能力を知る術者なら尚更」
「なら、狙われたのはお前か」
 焼け焦げた札を見つめたまま井宿が沈黙する。
 沈痛な面持ちだった。
 何かを感じ取っているのだろうか。翼宿はなるべく明るい声で言った。
「まあ、何にしたってなんとかなるやろ! お前はめっちゃ強いんやし、俺やってついとるし――っちゅうか最悪あかんかったとしても、七星士(みんな)に声かけたら」
「無駄――だな」
 ――え?
 井宿が驚いて顔をあげる。彼と目を合わせた翼宿は、開きかけた口を閉じた。直ぐに辺りを見回す。
 今の声は井宿の声ではなかった。勿論、翼宿の声でもない。ならば――。
「誰や。誰かおるんか!」
「っ……これは」
 井宿が声をあげたと同時に、手中に収まっていた札が青白く光りだした。札を地面に投げ捨て、煙のように立ち昇る光りを警戒するように見やる。
「なんや、これ」
「解らない。でも――」
「七星士など何の役にも立たない」
 光りが喋る(、、、、、、)
 形のなかったそれはいつの間にか人型を模り、二人の前に立ち尽くした。
 ――っ?!
 するり、と足の裏に何かが触れ、通り過ぎていった。覚えのある――地面から、空間から切り離された感触。
「結界か……?!」
「どうして」
 耳に飛び込んできた声音に驚愕する。
 翼宿は隣りに立っていた井宿を見た。
 明らかに――震えている。
「どうして? ……解らないのか」
 人型の青白い光りに浮かび上がった――目。鋭い切れ長の目だった。何もかも斬り裂いてしまいそうな、恐い目。
 悪霊のようだと翼宿は思った。
 だが井宿と違い、翼宿には霊感がない。ならば何故自分にも見えるのだ。
 否、それ以前に、これは何なのだ。
「七星士など足元にも及ばないからだ。この力の前では」
 光りに浮かび上がる顔。胴体。四肢――足は、衣に覆われて見えない。臙脂色の着物――以前に映画で見た陰陽師のような格好をしている。井宿が着る仕事着の正装に似ていた。数珠の変わりに、穴の開いた丸い石のようなものを首に下げている。額にもその石があった。
 翼宿がそれを確認した瞬間、隣りの温度が下がった。再び井宿に目を向ける。
 紅い瞳が、大きく見開かれていた。
「それとも……そういう話ではなかったか」
 光りから浮き出てきた顔――男が口角を上げて笑った。そして井宿を見て、言った。
「なあ、芳准」
 冷えた声音が紡いだ名前。
 井宿が唖然として顔を歪める。
 見たことのない仲間の――恋人の姿を目に入れ、翼宿も驚きを隠せなかった。思わず小さく名を呼ぶ。だが井宿は振り向かなかった。
 翼宿の存在など認識していない。否、恐らく認識出来る状況にない。そう理解した翼宿は、突如現れた男を睨み付けた。
「何やねんお前は……! 何者じゃ!」
「名乗らぬ者に名乗る気はない。……朱雀の者か。お前などどうでもいい(、、、、、、)
「何やと?!」
「どうでもいいと言ったんだ」
 聞こえなかったのか?
 男は僅かに笑んだまま、翼宿に手のひらを向けた。
「オンアハンバダヤソワカ」
 ハッとして井宿が振り返る。
「っ翼宿! 逃げ」
 ろ――と続く前に、男の手から大きな丸い塊が放たれた。
 ――気功?!  
 違う。これは水だ。
 翼宿は咄嗟に両手を構え、念じて炎を纏った。向かってきた水の塊に向けて、灼熱のそれを繰り出す。
 空中にてぶつかり合った二つの力は、相殺して闇に消えた。しかし相殺の際に生じた風圧によって、翼宿は数メートル先の地面に叩きつけられた。
「っつ……」
 背中に激しい痛みが走る。
「なるほど。……あまり相性は宜しくないらしいな」
 小賢しい、と男は吐き捨てるように続けた。
 やかましいと翼宿は吼える。
「何なんや一体、お前は! ……人間ちゃうな……?!」
 特殊な力を持つ人間というのは意外とそこら中にいるものだ。しかし翼宿は本能でこの男はそういった部類の人間ではないと判断した。
 人間とは気配が違う。そんな気がする。
「人間の定義とは何だ」
「あ?!」
「どこからが人間でどこまでが人間なのか。私は確かに人ではない。……だが、そこにいる男よりはよほど人間だ」
 びく、と井宿の体が揺れる。
「その男には、人間には出来ないことが出来る。非人道的な行為という奴だ。それを犯す者を果たして人間と言えるのか?」
 ――なん……。
 何だと?
 翼宿は眉を潜める。話がよく見えない。
 ――……こいつ……。
 井宿の知り合い、なのか。
「そんなものは人間ではない。ただの鬼畜だ」
 鋭い指摘が仲間を抉る。
 意味が解らない。しかし翼宿はその言葉を聴いた瞬間、猛烈な怒りを覚えた。
「何やお前! 何の権利があってそんな」
「権利? 権利ならある。私は被害者だ。……なあ、そうだろう?」
 芳准――。
 闇よりも深い声が井宿を手招く。
「ナウマクサンマンダボダナンバルナヤソワカ」
 男の口から漏れでた呪文――それに導かれるように、背中から羽のような骨子と水の膜が現れる。震えるように羽ばたいたそれから、大量の雫が空中に飛散した。
「この力をもってお前を葬れることを嬉しく思う。……雨だったらもっと良かったが」
 喰らえ。
 無情な台詞と共に、呪文が放たれる。
「ナモサンマンタボタナンナカシヤニエイソワカ!」
「井宿ッ!」
 立ち尽くす井宿に向かって叫ぶ。しかし微動だにしない。
 ――あかん!
 炎を放つ間もない。間に合わない……!
 ドン、と大きな音が歩道に響く。
 水中に飛散していた雫が三つの塊となり、井宿の胴体に衝突した。衝撃により体ごと吹き飛ばされた井宿が、翼宿の近くに倒れ込む。
「っ井宿! 井宿!!」
 青くなって恋人の名を叫ぶ。
 抱き寄せて上体を起こすが、何の反応も寄越さない。意識を失っている。
「安心しろ。死んではいない」
 いつの間にか頭上に浮いていた男が言った。
「そう簡単に殺してはつまらないからな」
「っお前……ッ!」
「名を聞いたな、小僧。知りたいのならば教えてやる。私の名は――旱鬼。水を司る鬼神だ」
 ――鬼神……?!
「何が神や! 外道やろ……!」
 男の顔が一瞬歪む。
 だがまた直ぐに薄い笑みを浮かべて翼宿を見下ろした。
「言っただろう。人の道を逸れたのはその男の方だと。嘘だと思うのなら本人に聞いてみろ。素直に白状するかは解らんが――」
 男が言い終える前に、翼宿は片手に炎を纏った。最大限の出力を以って放つ――が、間一髪でかわされてしまった。
 羽の一部が燃えて朽ち落ちる。男の顔に影が走った。
「貴様……」
「お前だけは、絶対に許さん……ッ!」
 あらゆる怒りをその言葉に託す。男への怒り、井宿を守りきれなかった自分への怒り、そして――甘んじて倒された井宿への怒り。
 ふん、と男は笑った。
「やれるものならやってみろ。全てを知って――それでもその男を抱けるのであればな」
 ――何?!
 水の羽が羽ばたく。男は上空へと舞い上がると、翼宿を見て言った。
「その男の傍にいる限り、お前もいつかは殺されるだろう」
 私のようにな。
 男はそう続けて闇夜に消えた。
 余韻のない暗闇を翼宿は茫然と見つめる。
 男の言葉を理解するよりも先に、腕の中にいる存在を力強く抱きしめた。
 ただ――信じるように。
 輝く月と星達を暗雲が覆う。それは降雨の予告。
 寒々しく重苦しい空気が天空を支配した。




















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