ともかがみ




 激しい雨が境内の土を叩いた。
 天から降り注いできた豪雨を翼宿はぼんやりと眺める。
 月下の襲撃――旱鬼と名乗った男が姿を晦ました後、倒れた井宿を抱きかかえながら途方に暮れた。
 何をどうしたら良いのか解らず、パニックに陥った頭で、とりあえず井宿の救助が第一だと無理やり結論を出す。彼を抱えて走り出そうとした時――後ろから声をかけられた。
 救いの手を差し伸べたのは、井宿が世話になっている寺の住職だった。
「……酷くなってきたな」
 外の様子を眺めて、寺の住職――影喘が呟く。
 影喘と共に彼の寺にやって来た翼宿は、井宿を寝台に寝かせた。
 治癒力を持つ朱雀の仲間――軫宿――を連れて来ると言って再び走り出しかけたが、大したダメージではないからその必要はないと影喘に止められた。
 それより傍に居てやれと言われたので、翼宿は今ここに――寺の中の、かつての井宿の部屋にいる。彼が高校三年から大学卒業までを過ごした部屋だ。以前の生活を感じ取れるものは何もない。ただ残された寝台だけが室内に鎮座している。
「……ほんまに大丈夫なんか」
 漏れた声は自分でも驚く程に掠れていた。
 ああ、と影喘が頷く。
「魔の気にあてられているが、気を失っているだけだ。境内は澄んだ気で満ちているから……その内目を覚ますだろう」
 井宿の顔は紙のように白かった。全く血色がない。
 生きている感じがしない。
 ぞく、と背筋が寒くなる。
 ――なんで……。
 どうしてこんなことになるのだ。何故井宿がこの様な目に遭わなければならない。どうして。
 ――なんで、俺は、守ったれへんのや……?!
 能力(ちから)が在りながら、どうして。傍にいたのに――どうして。
 事情など、そんなことはどうでも良かった筈だ。井宿は何も言わなかった。今も昔も、翼宿に何も話さなかった。だからあの時翼宿は、何も知らないまま、自分は関係のない立場にある――ということを盾にして、あの男を倒すことだって出来たのだ。井宿の事情など憂慮せずにあの男を消滅させることだって出来たのだ、それなのに。
「それは違うだろう」
 翼宿の思考を読むように影喘が口を開く。
「それが出来ないからお前はお前でいられるんだ。出来ちまったらお前じゃない」
 だからこうなったのはお前の所為でも何でもないんだ、と住職は珍しく翼宿を宥めるように告げた。いつもの口の悪い生臭坊主らしくない。
 翼宿は前髪に手を通すと、ぐしゃりと頭を掻いた。
 冷静になれと己に言い聞かす。見えているものを見ようとしなければ、何も守れない。
「あんた……いつからおったんや」
「見つけたのはお前に声をかけた時だ。……一時間くらい前、芳准(あいつ)に仕掛けていた護法童子が消えた。だからあいつを探していたんだが……」
「ごほー……なん?」
「陰陽術でいう式みたいなもんだ。あいつの宿星の星盤が曇っていたから、念のため護法童子に見張らせていたんだが」
 しかし俺が無傷ということは、消したんじゃなくて封じたのかと影喘は独りごちた。
 話の半分も理解出来ない。
「専門用語が多すぎるわ」
「……つまりだな。奴の狙いは初めから芳准だけだということだ」
 何がどうつまるとそういう結論に至るのか。
 どういう意味やねん、と翼宿は問う。
「俺の護法童子は俺と繋がっている。俺が創り出したものだからな。だから護法童子が傷を負えば俺も負傷する。だが護法童子が消えたにも関わらず俺は無傷だ。つまり――奴は護法童子に攻撃を仕掛けたんじゃなくて、護法童子自体を何かに封印したんだ。そして芳准に近づいた……。……奴にとって俺は邪魔な存在である筈だ。だが殺す機会がありながらそれを実行しなかった。……あいつ以外に興味がないんだろう」
 ならばまだ、救いはあるか。
 影喘が続けた台詞を眉を潜めて受け取る。
 何が――誰の、何の救いになるというのだ。
「っちゅうか……ええ加減、話せや」
「何を」
「『奴』のことや。……何者なんや、あいつ」
 男は旱鬼と名乗った。しかしそれが男の本当の名だとはとても思えない。加えて男は井宿のことを知っていた。否――恐らく、知り過ぎていた。旧知の間柄であることはまず間違いない。
「あいつの……井宿の、過去に……関係あるんか」
「そうだな」
 意外にも影喘はあっさりと肯定した。
「奴は……いや。俺の口から言うことは何もない」
「なんやと?」
「前にも言っただろ。知りたければ本人に聞け。……その方が正確だ」
「せやから……言うと思うんか」
「言うさ。いずれはな」
 以前のように「お前次第だ」と言われるとばかり思っていた翼宿は、驚いて顔を上げた。
「一度受け入れた人間を斬って捨てられるような奴じゃねえんだ、あいつは。惰性だろうが同情だろうがそんなことは関係ない。一度受け入れた時点でおしまいだ。あいつは自分の為にお前を捨てるようなことはしねえよ。お前の為にお前を捨てることはあるかもしれんが、お前は――そういう時、あいつの言うことなんか聞かねえだろ」
 今もう、この時点で――井宿の隣りを支配している時点で、彼に突き放されることはないという意味か?
 なら、『奴』は――。
「お前は芳准とは正反対だし、奴ともタイプが違う。勝機があるならそこだな」
「せやから……! 俺にも解るように言えや」
「芳准を救えるのはお前だけだ」
 でもな、と影喘は続けた。
「奴を救えるのも、芳准だけなんだ。……俺はそう思う」
 影喘の視線が寝台に移る。
 翼宿が振り返るよりも先に、寝ていた男が小さく呟いた。
「……それは……星の導きですか」
 僅かに掠れた細い声。
 傷ついた声音を耳にし、胸が痛む。
 ――ちゃう……。
 きっと恐らく、井宿の方が――ずっと辛いのに。
「占術でそんなことが解る訳ねえだろ。俺は思ったことを勝手に言っているだけだ」
 そう言って影喘は寝台に背を向けた。部屋の扉の前で立ち止まり、振り返らずに告げる。
「……お前も解っているんだろう」
 返答しない井宿を諭すように、住職は言った。
「いい加減――腹を括れよ」
 言い捨てて、影喘が退室する。
 その背を見送ったあと、翼宿は井宿を見やった。顔色は依然として白い。酷く消耗している。
「井宿」
 紡ぐべき言葉が解らなくて、とりあえず名を呼んだ。
 井宿はただ気だるそうに天井を見ていた。何も捕らえぬくすんだ紅い眼が頼りなく浮遊している。
 その姿を見て、翼宿は愕然とした。
 届く気がしない。言葉も、力も、何もかも。
 塞がっている。扉が分厚すぎて破れない。壊せない。その先へ辿り着くことができない――。
「……大丈夫か」
 試しにそんな言葉を放ってみる。
 案の定、井宿は何も答えなかった。そして翼宿は理不尽な怒りを覚える。それはあの時、襲撃の最中に抱いた怒り。
 ――傷つくべき人間(、、、、、、、、)なんて世界のどこにもおらんのに……!
 そんな人間はいる筈がないのに。
 お前はまだそんなところに居るのか。まだそんなところに居たいのか。
 それはもはや甘えではないのか?!
 立てた膝に肘をあて、頭を抱えた。
 井宿が相手ではなかったらきっと怒鳴っている。はっきり言っている。甘えるな、逃げるな、恐れるな。お前を好きでいる人たちに対し、お前はどうしてそんなに酷い真似が出来るのだ――と。
 しかし翼宿の中の何かがそれを阻んだ。何故言えないか――それは恐らく、この一年で、そんな言葉を投げかけてもこの男は何も変わりはしないのだということと、自分がいかに子供であるかを――否、自分がいかに子供扱いされているかということを理解してしまったからだろう。
 どんなに背伸びをしても、実際どんなに成長しても、井宿にとって自分は七歳年下の子供でしかない。
 それは翼宿も自覚している。何だかんだ言っても、自分はまだ高校生の餓鬼だ。井宿が頼るわけがない。
 ――今も?
 彼と出会って二年近く経った。その間、恋人関係を抜きにしても、同じ朱雀の仲間として信頼を築いてきた筈だ。翼宿を含めた朱雀七星士と巫女は、井宿にとって既にかけがえのない存在となっている筈なのだ。
 ――俺は井宿に何が出来る。
 同じ宿命を背負った仲間として、何が出来る? 何をしてやれる。
 翼宿はまた「井宿」と呼びかける。
 返事はない。だが今度は構わず続けた。
「まだ……話す気になれんか」
 過去(むかし)の話を。
 あの男のことを。
 天井を向いたまま、井宿は微動だにしない。
 翼宿は立ち上がった。そして上から井宿の顔を覗き込む。くすんだ紅と眼が合った。
「話せんならええ。……お前が話してくれるまで、俺は待つ」
 僅かに。
 ごく僅かに、井宿の瞳が揺れる。
「いつまでも待っとるから」
 お前がその気になるまで。
 お前の心の扉が、自然と開くまで。
「お前が話してくれるて――信じとるから」
 結局、翼宿に残された選択肢はそれしかなかった。
 ただ、信じること。疑念も同情も憐憫もなく、愚直なまでに全てを受け入れてただただ信じること。
 それがきっと相手の力になる。その気持ちが伝われば、きっと。翼宿は経験上、それを知っている。
 井宿の眼を見つめたまま、翼宿は思わず自嘲した。続けるべき言葉が、発すべき言葉が、己の中にはもう存在しない。それは情けないことだと翼宿には思えた。
 顔を逸らして寝台から遠ざかる。部屋を出て扉を閉めると、翼宿は廊下に蹲った。
「アホちゃうか……」
 自分の不甲斐なさに傷ついてどうするというのだ。
 あいつより俺が傷ついてどないするっちゅうんや。泣きたいのはきっとあいつの方なのに。俺が泣いてええわけないのに。
 目尻に溜まった雫を零さぬように唇を噛む。
 まだだ、まだ我慢できる筈だ。まだ意地を張れる筈だ――。
 両の手で頬を叩く。
 翼宿は立ち上がり、屹度前を向いた。
 仲間を信じて、待つ為に。



 ***
 

 
 名を呼ぶ声が聞こえる。
 明るく拓けた世界。
 溢れる光り。唯々眩しく煌めく――満ち足りた日々。
 瞳を輝かせた少年が、手を伸ばして笑う。
『芳准――芳准、おまえはおれが守ってやる』
 ――まもる?
『そうだよ。お前ドン臭いからな。すぐ転ぶし、見てらんないよ』
 ――ひどいなあ。たしかにおれはドジだけど、おれには能力(ちから)があるから、おまえより強いよ。
『わかってるよ。でも放っておけないからさ。だからおまえはおれが守るよ、どんな時も。絶対におまえだけは裏切らない。おれたち、親友だろ』
 ――うん。そうだね。
 じゃあ、おれもおまえを守るよ。
 絶対にお前を裏切らないよ。
 例えお前に裏切られたとしても。
「嘘だ」
 空気が裂ける。
 世界が割れる。
 思い出が――粉々に砕け散る。
 世界は光りを失った。世界は煌きを失った。世界は。
 ――ほろびた。
 俺の世界は滅びた。
 壊れた。消滅した。
 ならば今在る俺とは何だ。今在る俺の世界とは。
 ――暗闇の、底。
 水の底辺。
 川底の藻屑。漂い彷徨う――愚かな。
 ――そう、愚かな。
『ごめんなさい』
 彼女は謝った。
 理由も告げず、ただ只管に頭を下げた。
『ごめんなさい、芳准。わたし、わたし』
 辛そうに泣いていた。
 その姿を黙って見下ろした。何も言わず、何も聞かずに。
 ただ、腹が立った。
 謝るだけの彼女に――謝りさえもしない親友に。
 ――二人して。
 俺を裏切ったのか。絶対に裏切らないと言ったくせに。俺を守ると言ったくせに――!
 こんな最悪の形で……!
 許せなかった。何もかもが、許容できなかった。
「嘘だったんだろう」 
 全て。
 そう、全ては嘘だった。
 守るなんて言葉は、親友なんて言葉は。……彼女でさえも。
 みんな嘘吐きだ。俺一人を除け者にして、俺一人を悪者にして、俺を独りにさせるのか。俺から何もかも奪うというのか。
 ――ならいいじゃないか。
 俺が奪い返しても。
 あの日――。
 親友に刃物を向けた。
 昂ぶっていた気をぶつけ、術力を武器に取り戻そうとした。
 あの明るく拓けた世界を。
 唯々眩しく煌いていた日々を。
 ――……でも無理だった。
 親友は何も言わなかった。弁解もしなければ、開き直りもしなかった。放たれる刃のような言葉の羅列をただじっと聞いていた。
 その真摯な態度が気に食わなかった。
 どうしてお前はいつもそうなんだろう。
 どうしてお前はいつも。
 激しい怒りが、虚しさが、悲しみが体の内側に溢れ、渦を巻く。
 外は激しい雨。増水した川が轟音を響かせている。
 雷が鳴った。
 空が光った。
 気がついたら――親友は。
 ――ああ。
 彼女も、家族も、一族も……お前も。
 みんな、みんな俺が。
 俺が――。
「芳准を救えるのはお前だけだ」
 徐々に明瞭になっていく意識が言葉を拾い上げた。外界から聞こえてくる音が内に蘇った過去の記憶を遠ざける。
 でもな、と声は続けた。
「奴を救えるのも、芳准だけなんだ。……俺はそう思う」
 ――や、つ。
 奴とは。この声の主は。
 まだ霧が晴れない頭でその答えを導き出す。予測はあっさりとついた。少々呆気ない程に。
 ――……正常なのか。
 こんなに最悪な現実を迎えても、俺は。
 自虐的な気分に浸る。少し笑いたくなった。
「……それは……星の導きですか」
 答えなどわかりきっていることを尋ねる。
 幼少の頃から世話になっている寺の住職であり、自分の後見人でもある男が呆れたように返した。
「占術でそんなことが解る訳ねえだろ。俺は思ったことを勝手に言っているだけだ」
 ――勝手に。
 貴方が断言することでもないだろう。
 ――俺が救うだなんて。
 そんな、そんな勝手なこと……!
「……お前も解っているんだろう」
 解らない。昔から、何も解った試しがない。
 だからあんなことになったんじゃないか。
 だから今も――こんなことに。
「いい加減――腹を括れよ」
 針を刺したような痛みが胸に到来する。その原因は容易に察することが出来た。
 何故なら自分は知っている。
 括れる腹など、とうにないことを。
「井宿」
 一瞬、誰に呼ばれたのか解らなかった。倒れる前の状況から察して、声の主を思い当てる。
 七つ年下の、同じ宿星の下に生まれた仲間であり――恋人でもある――。
 ――こいびと?
 誰が。彼が? この幼い仲間が?
 馬鹿を――いうな。
「……大丈夫か」
 彼にしては随分と抑えた声音だった。気遣ってくれているのだろう。
 しかし、だからなんだというのだ。
 やさぐれている自分を確かに自覚する。だからといって七つも年下の子供に八つ当たる気にはなれず、沈黙を貫いた。
 今ならいい。まだいいのだ、まだ――全てを打ち明けてはいない今なら。
 少年だっていい加減、諦めるだろう。今も昔も醜態ばかりを晒しているのだから。もっと蔑んで呆れるべきだ。そしてとっとと離れたらいい。お前は馬鹿だ、阿呆なのだと責めて、突き放せばいい。それを受け入れる用意なら幾らでもある。
 可能なのだ。今なら、まだ。
「まだ……話す気になれんか」
 無茶なことを彼が呟く。できるわけがないことを。
 だって、話してしまったら――。
 ――……君は……。
 不意に彼が顔を覗き込んできた。
 生気の強い鳶色の瞳と眼が合う。僅かに濡れた双眸。
 そして、青い顔から放たれた言葉。
「話せんならええ。……お前が話してくれるまで、俺は待つ」
 ――ああ……。
 何故。どうして、君は。
 ここにきて、そんなに物分りのいいことを。
 杭を打たれたような痛みが胸に到来する。原因は解らない。唯々、つらい。
 傷つく権利なんてありはしないのに。
 ――ちがう。
 傷ついているのは今、眼前にいる少年なのに。
 そして――傷つけたのは。
 同じだ。これではまるで繰り返しだ、同じところをぐるぐると回っているだけだ。
 嘲笑い続けるメビウスの輪。終着地点のない運命の螺旋。
 ――抜け出せない。
 本当に?
「いつまでも待っとるから」
 力強く少年が放つ。
 そして今度こそ、芳准は――井宿は、驚いた。
「お前が話してくれるて――信じとるから」
 ありえない。
 何故そんなことが言える。何故――こんなことになっても。
 それでも君は。
 少年が部屋を去る。
 井宿は蒼褪める。
 ――だめだ……。
 そんなことを言っては駄目だ。 
 君が幾ら信じていたって、幾ら好きでいたって……!
 ――傷をつけることしかできないのに。
 今だって昔だってずっとそうだったじゃないか。
 現にあの子は傷ついている。あいつ(、、、)の言う通りだ。
 俺の傍にいたら、君だっていつかは。
 ――ああ……!
 これ程までに――後戻りの出来ないところに来てしまっていただなんて。
 ここまで踏み込まれることを、許してしまったなんて。
 震えた手で顔を覆う。
 とんだ甘ったれだ。この期に及んで、前途ある少年の未来を思いやることもできない。
 与えられるばかりで何も返しちゃいない。いつも奪うばかりで。
 ――受け入れたのに。
 そうだ、受け入れたのは自分なのだ。たとえ本意ではなかったのだとしても、受け入れてしまった時点でそれは、全ては終わっていたのだ。
 そしてまた新たな(ホイール)が回る。絡まる糸が縦横無尽に交差し、井宿の首を締め上げる。
 ――しんでしまう。
 断たなければ。
 また繰り返す。同じことを。
 目尻から溢れた涙が頬をつたう。
 罪と、未来と、少年を、天秤にかけることなんか――。
「っ……!」 
 異形の気配を察知し、井宿は跳ね起きた。
 体が重い。大人しく寝台に沈めと脳が命令する。だが井宿は強靭な意志をもってその命令を拒否した。
 ――この気は……。
 影喘のものだ。しかし、何か違うものが混じっている。
 様子を伺っていると、空中に青白い(オーラ)の塊が現れた。徐々に水分を含み、透明度を増していく。巨大な雫となったそれから、影喘の気の団塊が現れた。
 掌に乗るくらいの、小さき摩利支天。
 ――護法童子?
 それは影喘が使役している護法童子だった。
 護法童子は井宿の眼前に赴くと、仕掛けられていた言霊を発した。
『許されると思うなかれ』
 体が僅かに震える。
 それはあの男の声。 
 親友――だった。
『貴様程の愚か者はそうそう居ない故、嘲笑うも阿呆らしい。戦う意思がなかずとも滅びる覚悟がなかずとも関係あらず。貴様の煩悶懊悩が我の愉悦なれば――傍らのものを毀すのも道理』
「……っ」
『精々足掻き苦しむがよい。我が貴様の周囲を殺戮し尽くす迄……。先ずは此の男』
 ――あ……ッ!
「止せ!」
 叫んで摩利支天に手を伸ばす。その護法童子が攻撃されたら、影喘も――。
 ふ、と摩利支天が――否、護法童子を操っている男が笑った。
『何をそんなに狼狽する。……戯れも理解出来ぬか』
 ――戯れ?!
 そんな、そんなこと。
 ぎゅっとシーツを握り締める。混乱した頭で井宿は震えた声を発した。
「俺は……っ、俺は、もう……誰も、失いたくない……!」
 失くしたくない。
 俺の所為で。もう、誰も。
『ならば我と戦え』
 その為に――蘇ったのだから。
 そう続けた声にハッと顔を上げる。
 ……その為に、とは。
 摩利支天が力なく寝台の上に崩れ落ちた。手を添えて護法童子を支える。纏う気はもう既に影喘のものでしかなかった。
 止め処なく溢れる涙が頬を濡らす。ぱたぱたと零れ落ちてはシーツに幾つもの染みを作った。
 ――……何を……。
 お前は、何を。
 一体、何を――望んで……。
 意識が段々と遠のいてゆく。
 まだ本調子ではない。重い体が、脳が、今度こそ寝台に沈めと訴える。井宿は黙ってそれに従った。
 泣いて、泣いて、泣き疲れて、眠って、そしてまた眼を開いたら――その時は、何かが変わっているだろうか。
 息苦しくなって眼を閉じる。
 ふと脳裏に浮かんだ少年に対し、井宿は呟いた。
「ごめん……」
 何の意味も、効力もない謝罪だ。口にすること自体が我儘であり利己的である。
 解ってはいるのに。
 でもあの子は――否、朱雀の仲間は、みんな――責めないだろうから。
 今はそうだと理解できるから。……昔とは、違うから。みんなと出会う前とは。
 ――変わったのか、俺は。
 ならばこれは逃れられぬ運命なのか。
 だとしたらお前は。
 緩々と思考が縮小してゆく。
 そして井宿は再び深い眠りについた。






















 120209