ともかがみ




 雨が嫌いだった。冷たくて、痛くて――前が、見えなくて。
 白い紙のような肌に滴る雫が、涙のようで。
 何故、との問いに対する答えは永遠に得られない。
 脳髄や筋肉や神経に――血肉や精神に在り続けられるとしたら。
 もう滅びはしない。
 俺も、お前も。



 ***



 未だ雨は断続的に降っている。梅雨には早い。異常気象だとテレビのニュースで天気予報士が言っていた。
 異常は異常だろう。だがしかしそれが自然によるものなのか、何らかの力によるものなのか――翼宿には解らない。
 昨日の出来事――旱鬼の強襲――から半日以上が経過した。井宿の傍から離れるのを嫌がった翼宿は、住職に願い出て寺に泊めてもらった。 早朝から読経の声に起こされるという不快な目に遭ったが、寺仕事を手伝わされないだけ有難いと思えと住職に言われ、せやなと納得して布団から這い出た。
 それからずっと待っている。井宿が部屋から出てくるのを。
 時刻はもう直ぐ正午を回る。
 まだ出てくる様子はない。
 食事も摂らないで大丈夫なのだろうか。昨日の夜も、何も食べていないのに。
 何か作っておこうか。そう思い至って、メニューを考える。この寺の住職は坊主のくせに肉も食べるし酒も飲むので、材料には事欠かない。
 黙ってじっとしているのが、そろそろ苦痛になってきている。何も考えずに体を動かす方が楽だ。
「おい、昼どうする」
 居間に入ってきた住職が簡潔に問う。
「あー……何か作ろうと思っとったところや。井宿……何も食うてへんやろ?」
「朝に覗いた時は寝てたからな。何作るんだ」
「せやなあ、何か消化のええもん……お粥」
「却下」
「なら、うどん。煮込みか釜あげか鍋焼き」
「じゃあ関西風鍋焼きうどんを六人前、よろしく」
「六人?!」
「俺、お前、芳准、うちの修行僧三人。一人用の土鍋、ちゃんと人数分あるから。うどんは乾麺。ねぎ多め、ほうれん草と椎茸と卵は必須な」
「細かッ!」
「芳准の好みだ」
 ぐ、と言葉に詰まる。井宿の好みと言われては貶しようがない。
 影喘はふっと笑うと居間から出て行った。
 もしかしたら住職の好みなのではないかとの疑念を抱くも、それならそれで仕方ないかと翼宿は台所に向かった。
 考えるのは苦手なのだ。昔から。
 ――言うてる場合とちゃうか。
 それも、わかってはいるけれど。
 自分がどんなに無力でちっぽけな存在であるか、朱雀の宿命を通して嫌というほど味わった。能力など持っていても意味がない。使う自分が間抜けでは宝の持ち腐れだ。
 しかしだからこそ、己が動ける範囲内で精一杯足掻くことが大切なのだと翼宿は思う。肉体を使って行動しなければ何も得られない。少なくとも翼宿はそうだ。
 馬鹿ねと言われる。自分でもそう思う。もっと上手くやれる方法はある筈だ。否――それが解らないわけではない。
 井宿の為を考えるなら、構わないのが一番だと思う。もうお前には構わないから、もう好きだなんて言わないからと言って距離を取るのが、本当はきっと一番いい。
 だが、そんなことはできない。
「……ほんまガキやな」
 大切なもののために、自分を殺せもしない。
 否――殺せないからこそ、俺なのか。
 詭弁のようだ。
 いずれにしろ素直に納得できないのであれば、一言で片が付く。
 修行不足だ。
 ああああっ、と呻いて頭を掻く。
 怒ると怖い恩師が、頭の片隅で苦々しく笑ったような気がした。



 ***


 
 馬鹿馬鹿しい。何度もそう思った。今も思っている。
 最後には結局、そういった感情が心を支配する。戸惑いや懺悔や後悔といったものがリセットされて、胸の裡はわずかに澄み渡る。
 井宿はゆっくりと目を開いた。
 頭が痛い。夢でも現実でも、散々泣いたからだろう。飽きるほどに。
 そうだ、飽きたのだ。そんな日が来ようとは、思ってもみなかったけれど。
 再び溜まりかけていたマイナス感情を追い出すように、長い息を吐く。上体を起こし、寝台の脇にあったペットボトルのミネラルウォーターに手を伸ばす。生温い水を喉に流し込み、干乾びた体を潤した。
 疲れた。もう、何もかににも疲れ果ててしまった。
 心も体もこれ以上傷ついてくれない。沈み続ける沼に、底などある筈がないのに。
 それもこれも――あの子の所為だ。
 ふと口元を綻ばせた。未だ笑える自分が些か信じられない。それもきっと――あの少年の所為か。
 僅かに頭を振る。
 冷静になって、気づいたことがある。親友のことだ。
 何故今――否、何故今更なのだと、井宿自身も思った。復讐にしても何にしても、タイミングが遅すぎる。あれからもう八年も経っているのだ。さらに、彼の命日が近いわけでもない。
 魔性の気配がした――ということは、親友は魔のもの――物の怪に呑まれたということだ。
 もはや人ですらなく、幽霊でもない。生者に影響を与える魔のものである以上、いずれにしても放ってはおけない。
 ――だから……なのか……。
 今の俺に気づかれる必要があったから。
 だから今で、だから魔のもの、なのか。
「なら……お前は……」
 何を望んでいるんだ、俺に。
 赤く腫れた目を擦る。
 お前にしか救えないと、住職は言った。
 本当にそうなのだろうか。
 勝手だ。傲慢にも程がある、救うなんて。今更、俺が。
 でも、本当にそうなのだとしたら、それは。
 それは――なんて……。
 不意に扉がノックされる。返答を迷っている内に、扉が開いた。
 お盆を持った翼宿が顔を出した。
「あっ……起きとったんか。なあ、腹減ったやろ。うどん作ったんや、食わんか?」
 いつもの様に笑いかける。そんな翼宿を、井宿は茫然と見やった。
 胸の裡に暖かいものが広がってゆく。悔しいくらいに――嬉しくて。
 いつも簡単に、本当に簡単に救われてしまう。
 馬鹿みたいに。
「、……井宿?」
「いや……」
 垂れ下がった前髪をかき上げて、井宿は微笑した。
「……頂くよ」
 括れる腹など、とうにないけれど――覚悟など、定まりはしないけれど。
 それでも時間は過ぎるし、その分、人は変わる。
 一秒先の自分は一秒前の自分じゃない。細胞の一片に至るまで、刻々と変化する。
 ――詭弁かもしれない。
 それでも。
 もう、耐えられない。
 ここに留まっていることは。
 そう、飽きたのだ。立ち止まり続けるのは、もう。
 沈み続けるのは、もう――。
「そうか! なら、これはよ食おうや。半熟卵が固まってまう」
「翼宿」
 張りのある声で名を呼ぶ。
 弾かれるように、翼宿が顔を上げた。
「……食べ終わったら……話があるんだ。……聞いてくれるか」
 前に進もうとか、過去と決別しようとか――そんなことは考えていない。
 ただ、あいつが――親友が、再び会いたいというのなら、それに応えたい。
 ――お前が望むのなら。
 俺は、お前の願いを叶えてやりたい。
「おう。なんでも聞いてやるで」
 持ち前の度量を以って、翼宿が頷いた。
 苦笑を浮かべてその声を聴く。
 敵わない。本当に敵わない、いつまで経っても。そしておそらく、これからも――彼にはずっと、敵わないのだろう。
 ――いいんだ。
 それで、いいのだ。
 何故か強く、井宿はそう思った。



 ***



 思ったよりも井宿は落ち着いていた。無論、平静を装っているだけなのかもしれないが、翼宿相手に装いきれるなら正常の範疇内であるといっていいだろう。
 覚悟を決めた、のだろうか。
 食事を終え、一息吐いて井宿を見やる。青白かった顔は幾分か赤みが増し、生気を取り戻していた。
「……先に言っておくが、聞いていて気持ちのいい話じゃない。君の……俺に対する評価が、一変するかもしれない。いや……すると思う」
 何かしらの罪がある。それは本人にも住職にも示唆されていたことだ。
 翼宿は迷わずに告げた。
「構わん。お前が話したいんやったら、なんでも聞いたる」
「……俺が構うんだよ」
 井宿は小さく笑うと、視線を落とした。
 暗さと緊張を増した空気が簡素な室内を満たした。
「あれは……あの、昨夜襲ってきた男はね。あれは……幼馴染なんだ。俺の」
 幼馴染?
 ……友達?
「いや、幼馴染だったんだ。……八年前に、俺が殺すまでは」
 ――なっ……!
 嘘だ。そんな話は、いくらなんでも。
 咄嗟にそう思ったが、口には出せなかった。井宿の暗い左眼が、翼宿を制すように鈍く光った所為か。
「あいつは、飛皋という。親同士の仲が良くて、家も近かったから、生まれる前からずっと一緒にいた。俺の能力のことも知っていて……時には仕事を手伝ったりしてくれてね。俺は、家も自分も一般的とは言い難かったから、世間や社会とのギャップに悩んだこともあったんだ。以前の君のように……。そういう時はいつも飛皋が力になってくれた。……親友だった」
 井宿はあえて淡々と語っているようだった。
 口を挟むタイミングが掴めない。
「八年前……高校三年の春だ。俺にはその頃、許嫁……婚約者がいて」
「え?」
 思わず声を漏らした直後、翼宿はしまったと思った。
 だが井宿は構わずに続けた。
「彼女も幼馴染で……親が決めたものだったけれど、俺は彼女が好きだったから」
 ぐ、と息を呑む。
 この程度で傷ついている自分に、翼宿は唖然とした。
 井宿が自ら他人のことを好きだというなんて。そのような相手が、過去にいただなんて――。
 じゃあ、俺は。
「だから……あの頃は、本当に幸せで……親友と、彼女と、家族と、大好きな人たちに囲まれて、能天気に生きていたんだ。いつまでもその幸せが続くと思い込んでいた。……でも、違った。俺は親友だと……思っていた男に、彼女を奪われた」
 紡ぐべき返答を、完全に見失う。
 的確な相槌を打つこともできず、翼宿はただ井宿が発する声に耳を傾け続けた。
「俺は血気盛んな頃だった。裏切られた悲しみと怒りで我を忘れた。親友を呼び出して……問い詰めた。あいつは何も言わなかった。それが余計に腹立たしかった。俺は、家の御神体の手刀を持ち出して、あいつに翳した。それでもあいつは……何も言わなかった。弁解も、謝罪も。怒りが頂点に達して、刀を振り落とそうとした時――空が光った。……気づいたら、あいつは俺の足元に蹲っていて……死んでいた。……同じ時刻に、家に何者かが侵入して、家族を含めた李家の一族全員が殺された。たまたま俺に会いにきていた彼女も、……みんな死んだ。その時に。……俺には、能力があった。怒りに我を忘れていなければ、みんな助けられたかもしれない。家族も、彼女も、あいつも……。……飛皋の亡骸を見下ろした時、零れたのは涙だった。どれほど奴が好きだったか、思い知ったよ……」
 真紅の両眼がうっすらと濡れる。
「俺の罪とは、そういうことだ。誰一人として救えなかった。大切な人たちを、一人も……守れなかった。能力がありながら……。……飛皋が、何故今頃現れたのかは、解らない。ただ……あいつには、今の俺に伝えたいことがあるんじゃないかと思うんだ。だから魔性と手を組んだ……のだと思う。だとしたら、やはり俺の所為だな。魔のものと融合してしまうなんて」
 自嘲気味に井宿が言った。
「ともかく……もしそうなら、俺はちゃんと聞かないといけないと思ったんだ。あいつの声を……あいつが、伝えたいことを。だから……翼宿。君に頼みがある」
「っえ?」
 まったく予想外の発言だった。驚いて井宿を見つめる。
 紅い眼は、強い意志を孕んでいた。
 呼応するように腕がじんと痛む。己の(あかし)が、疼いている――星のさだめで結ばれた仲間の決意に煽られて。
「俺と共に、飛皋と会って欲しい。……一人では、俺は安易に死を選んでしまうだろうから。でも、今死んだら……みんな怒るだろう?」
 困ったように眉を寄せる。まるで子供のように。
 その顔を茫然と見やったあと、翼宿はハッとして声をあげた。
「あっ……当たり前やろ! お前、気づくの、遅すぎなんじゃ……っ!」
 それはもう何度も、何万回もみんな言ってきたことだ。互いに――お前が死んだら、みんな泣くのだと。
 井宿は小首を傾げて、眼元を緩めた。何故そこで笑うのか、翼宿には解らない。
「今回のことは、君にはまったく関係のないことだ。だから、わざわざ関わることはない。今以上に不快な思いをすることになるかもしれない――……それでも、手伝ってくれるかな」
「それも当たり前や! 大体な、お前のことなら全部俺に関係大ありや! それにっ……それに、俺が、お前の頼みを断るわけないやろ……!」
「そうなのか?」
「っだから気づくのが」
「遅い、な。……本当に」
 あのなあ、と翼宿は思わず呆れ調子で呻いた。
「お前、自分が思うとるよりも、めちゃくちゃ強いんやで」
「……え?」
「能力だけやなくて、心も。ほんまに強いねん、お前は。せやから大丈夫や」
 根拠はない。ただ感じるだけだ。そして――知っているだけだ。
 誰よりも傍で見てきた。彼と共に過ごした時間に、無駄なことは一つもなかったのだ。
 今この瞬間が何よりもそれを証明している。
「俺もついとるしな」
 必要としてくれている。なら、精一杯の誠意をもってそれに応えよう、全力を賭して。
 お前が求めてくれるなら幾らでも強くなれる。修行不足だ? そんなことは関係がない。否、関係がなくなった。たった今――。
 ――俺は無敵や。
「あっ。せやけど……あいつがお前に酷いことしたら、俺、何するか解らんから。それは先に言うとくわ」
「ああ……君にそうさせないように、気を付けるよ」
「何言うてんねん、無茶せんでええって。お前はあいつのことだけ考えてればええねん。俺も邪魔せんように頑張るから」
「随分、聞き分けがいいじゃないか」
「お前のおかげや」
 お前がいつも、俺を強くしてくれるから。
 翼宿はにっと笑った。
 井宿が困惑気な視線を寄越す。
「君は……今の話を聞いて、俺に対して……何も思わないのか」
「そんなん後や後! 今はそれどころとちゃうやろ」
 勿論何も思わないわけではない。殺したとか言うても完全に未遂やろとか、最初からずっとお前は傷ついてばかりやないかとか、何も守れなかったのはお前の所為やないやろとか、色々と思うところはある。
 だがそれは今伝えるべきことではない。
 あえて伝えるとしたら、それは――。
「っちゅうか……もし、朱雀のみんなが今のお前の話を聞いたとしても、誰もお前を軽蔑したりせんと思うで」
 何故仲間のことを口にしたのか、翼宿自身にも解らなかった。
 ただそう伝えるべきだと思った。いつもの事ながら、単なる直感である。
 ぐしゃりと歪んだ井宿の顔を見つめて、翼宿は言った。
 行こう、と。



















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