ともかがみ




 俺はいつだってお前を見ていた。
 お前もいつだって俺を見ていた。
 そんなことは昔から、お互いに知っていたのに。
 罅が入った友鏡。
 鏡面に映るお前を見て、笑う。
 ――なんだよ。
 お前も、泣いていたのか。
 



 雨が降っていた。
 過去も現在も。
 タイミング良く空を覆っては、冷水を浴びせるように、井宿の――芳准の頬を打った。
 ――それで熱が冷めたら良かったのに。
 雨を浴びた過去の自分は逆上した。
 今の自分は――落ち着いている、と思う。
 自分は独りではないのだと、ちゃんと理解しているから。
 芳准は翼宿と共に、母校までやってきた。近くに大きな川が横たわっている。昔、その河川敷で親友を殺した。
 光を映さない左目が、僅かに疼く。
「……飛皋はきっと、あそこにいる筈だ」
「川か?」
「河川敷。橋の下。……犯行現場(、、、、)だ」
「井宿」
 窘めるような口調で少年が言う。
 芳准はとっさに「すまない」と謝った。
「自虐的になっているわけではないよ」
「いや……お前、……言うたよな、俺。大丈夫やって。俺が側におるんやから」
「解っている。当てにしているよ」
「おう」
 力強く頷いた少年を見やり、心に暖かい火が灯るのを感じた。
 行こう、と告げて河川敷へ向かう。
 激しい雨で川の水位が上昇している。人気はまったくないが、周囲への影響を配慮し、芳准は辺り一帯を結界で覆った。
「これ、あいつも入ってこれへんのか?」
「能力者と魔物は侵入できるようにした。一般人を弾いただけだ」
「ふうん……。結界の中でも、雨は降るんやな」
防護壁(シールド)というわけではないからね。勿論、そういう結界も創ることはできるけど……この結界は空間を少しずらして、そのずらした空間を切り取って一つの部屋として独立させることによって、現実世界に戦闘の影響を及ぼさないことを目的としているから」
「お……おう。っちゅうか……戦うつもりなのか」
 いや、と返して目を伏せる。
 話し合いで済めばそれに越したことはない。
 だが、恐らくそんなことは――。
 ぱしゃん、と水溜りの水が跳ねる。重力を無視して地面から浮き上がってきた水の塊が、降り注ぐ雨を吸収して増幅する。塊は蠢きながら人型へと变化し、芳准の前に立った。
「甘いな」
 水の塊が笑う。
 そうだ。話し合いで済ますなんて、そんなことは――親友が許さないだろう。
「お前のその甘さが――嫌いだった」
 言の刃で斬られた胸が、ずきんと痛む。
 今でも、こんなにも辛い。彼に「嫌い」だと言われることが。
 芳准は屹と塊を見返した。
「……飛皋」
「私は飛皋ではない」
 人型の塊が、親友へと変化する。
 切れ長の目。臙脂色の陰陽服。宝具の玉――。
「我が名は旱鬼。水を司る鬼神よ」
「魔物とちゃうんかい」
 張り詰めた空気を嫌がったのか、翼宿が茶化すように言った。
 ふふ、と飛皋が笑う。
 愉しそうに。
「人間にとってはどちらも似たようなものだろう。今の私は人間を超えた存在。上位種というやつだ」
「ならば何故、陰陽の衣を着ている」
 喉から絞りだすように、声を発する。
 相手は魔物だ。今はそう思うしかない。冷静を保ち、親友の本意を探るためには。
陰陽(それ)は人の象徴だ」
「これか? こんなもの――お前への当てつけに決まっているだろう」
「やっすい挑発やな」
 つまらなそうに言い放った翼宿を、飛皋が睨みつける。
「ふん……まずは邪魔者から始末するか」
「やれるもんならやってみぃや」
 各々の拳に炎を、水を宿らせて、間を取った二人が構え合った。
「翼宿、無茶は」
「わかっとる。死んでも死なへんから、安心せえッ!」
 翼宿が右腕にまとった炎を放った。ゴオオオと猛々しい音を響かせて、炎の塊が飛皋に突進していく。だが敵に辿り着くよりも先に、炎は水の壁に弾かれて消滅した。
「つまらん一手だ。この程度では私を殺すことなど出来んぞ――オンナンダバナンダエイソワカ……ッ!」
 ――この真言……!
 芳准はハッとして印を結んだ。
「翼宿、引け! オンシュリマリママリマリ」
「遅いッ! 喰らえ!!」
 飛皋が両手を前に突き出す。宙に出現した水の塊が龍を象り、翼宿に襲いかかった。
「そう簡単にやられるかっちゅうねん!」
 翼宿が両の手に炎を宿し、水の龍に向かって放った。大きな丸い炎の弾が、龍と衝突する。
 芳准も援護するために呪文を紡いだ。
「オンシュリマリママリ」
「遅いと言っているだろう。ナウマクサンマンダボダナンバルナヤソワカ!」
 ――追加真言……?!
 真言により、水龍が二倍ほど大きくなった。大きく口を開いて、炎弾を飲み込む。
「ちっ……負けるかッ!」
 翼宿が再び炎を放った。それに合わせて、芳准も真言を唱える。
「オンシュリマリママリマリシュシュリソワカ……!」
 今度は炎の勢いが増し、宙に広がった炎の海が水龍を包み込んだ。数瞬の内に相殺された力は、双方共に(くう)へと霧散した。
「火属性の増幅呪文か。発火能力者と連携して戦えるとは、流石だな」
「飛皋……もう、止せ」
 印を解き、親友と向かい合う。
 彼の望みを叶えなければ、この戦いは終わらない。
 ――終わらせるためにここに来たんだ。俺は……。
 過去に決着をつけるために、この河川敷にやって来たのだ。
 恐らく、飛皋も。
 芳准は親友を見つめながら言った。
「……お前が俺を殺したいと思うのは、道理だ。俺は……お前の望みに応えたい」
「ッ井宿!」
「だがお前の望みは、俺を殺すことではないのだろう」
「?! ……、」
 翼宿が驚いて眉を顰める。
 芳准は構わずに続けた。
「でも俺には、お前の本当の望みがわからない。飛皋……教えてくれ。お前は俺に、何を望んでいるんだ?」
 魔のものに堕ちてまで、お前は俺に会いに来た。
 ならばお前は一体――。
 ふ、と飛皋が微笑む。
「決まっている」
 ドン、と地面から何かが突き上げてくるような衝撃が走った。
 地中から突如、水の柱が飛び出し、空へと伸びる。幾つもの柱が天と地を結び、飛皋を守るように四方を取り囲んだ。
滅ぶこと(、、、、)だ」
 飛皋はそう告げると、印を結び真言を唱え始めた。
 大きな術を放とうとしている。
 そう判断した芳准は、小さく息を吐いた。瞑目し、呼吸を整える。
 ――……俺には、打ち明けないか。
 それがお前の答えか。
「……解った」
 再び目を開いた、その刹那――。
 芳准は、腹を括った。  
「今のお前は、人ならざるものだ。俺は陰陽師として、お前の存在を看過するわけにはいかない」
「ほう? なら、どうするつもりだ」
お前を倒す(、、、、、)
 俺が、この手で。もう一度――お前を。
「ふん……面白い。ならばやってみろ……!」
 飛皋の両手に向かって、柱から水が集まってゆく。
 芳准は護符を取り出し、印を結んだ。背後から翼宿が「井宿!」と声をかけてきたが、返答せずに真言を唱える。
「オンアボキャベイロシャノウマカボダラマニハンドマジンバラハラバリタヤウン――」
 印を結び変え、水の柱に向かって数十の式を打つ。飛び立った護符たち――式神たちは水の柱に張り付き、その身を朱く発光させた。
「結界か? 芳准、貴様こんなもので私を防げるなどと――」
「オンガルダヤイダテイタモコテイタソワカ!」
 唱え終えた瞬間、芳准は地面を蹴った。水の柱をすり抜け、真言の力を借りて瞬時に飛皋の背後に回り、両腕を掴みあげる。
「っ……瞬間移動か……!」
 驚愕に目を剥いた親友と視線を交わし、芳准は彼の腕を握る手に力を込めた。
 ――つめたい。
 ああ、死んでいるんだな。
 死人なのだな、お前は――。 
「翼宿!」
 腹の底から声を出す。
 少年がびくりとして顔を上げた。
「柱を燃やせ! 護符ごと柱が燃えるように念じろ! そうすれば中にも火が届く!」
「は……? なん、やって?」
「燃やすんだ! 俺が飛皋を抑えられている内に、早くッ!」
「ッはあ?! アホか、中に火ぃ届いたらお前も燃えるやろがッ!」
「いいんだ」
「ああッ?!」
 いいんだ。ごめん。もう、いいんだ……。
 俯いて、少年から視線を外す。
 次の瞬間、翼宿の気が一気に増大した。
 それは烈火の如く――。
「ッのド阿呆が……ッ!」
 ――ごめん……。
 君は何も悪くない。だからそんな怖い顔をしないでくれ。
 全て、愚昧な俺が悪いのだから。
「小僧の言う通りだな」
 芳准にだけ聞こえるような小さな声音で、飛皋が呟いた。
「どういうつもりだ」
「……お前が真実を明かさないのであれば、俺が勝手に解釈する」
 氷のように冷たい腕を握り直す。
 口元に笑みを湛えて、芳准は言った。
「共に滅ぼう」
 そして帰ろう。
 俺と、お前と、彼女と――また、三人に……。
「……馬鹿だな」
 吐き捨てるように飛皋が言った。
「昔からそうだった。お前は……誰よりも強い力を持っていた。だから周りにいる連中はみんな、自分よりもずっと弱いと思っている」
 芳准は眉を潜める。
 何の――話だ。
「お前は自分より弱い連中を――周りに居る人間を、傷つけたくなかった。だからいつも先頭に立って闘ってきた。誰も傷つくことがないように」
 でもな、と飛皋が振り返る。
 親友と目を合わせて、胸が大きく高鳴った。
 ――魔物なんかじゃない。
 この眼は――懐かしい、この暖かい眼は……!
「あの小僧はそんなに甘くないぞ」
「っ飛皋……!」
「見ろよ」
 促されるままに視線を向ける。
 水の柱の前にて、拳を握り締めて瞑目し、気を高めている翼宿の姿が目に映った。
「あいつはきっと俺だけを(、、、、)燃やす。お前を救うために、不可能を可能にする。絶対にだ。……俺はこうなることを見越していた。だから煽ったんだ。――芳准」
 呼ばれて親友を見やる。
 続けられた言葉に、芳准は眼を瞠った。
「すまん」
 ゴオオオオオッ――。
 水の柱が炎に包まれる。
 飛び上がった少年が、飛皋に向かって拳を繰り出した。
「っでやあああッ!!」
 拳が腹に入った瞬間、飛皋の体にボッと火がついた。
 とうの昔に朽ちた、氷のように冷たい体が――燃えていく。
「飛……皋……」
 悲鳴もあげずに、親友はただただ燃え続けた。
 魔と融合した肉体がぼろぼろと崩れ落ち、残された魂が水に留まる。
 液体化した親友を呆然と見下ろした芳准は、それでも掴んだ腕だけは離さなかった。いや、離せなかった。
 離してしまったら、親友が完全に事切れてしまう気がして。
「っ飛皋……飛皋……!」
「……望みを、聞いたな」
 かろうじて水に留まっている魂が――飛皋が口を開いた。
「芳准、彼女は……香蘭は……お前を裏切ってなど、いない」
「っ……?!」
「俺が、無理やり奪ったんだ。でも彼女は……お前一筋だったから。(けが)れてしまったと思ったんだろう。だからお前に別れを告げたんだ」
「そんな……」
 もう貴方とは一緒になれない。ごめんなさい――。
 彼女はそう言って泣いた。あの涙は、真実だったのか。
 あの時――芳准はただ、彼女を蔑んでいた。言い訳もせず、泣いてばかりいた婚約者を。
 だが彼女は、純粋だっただけなのだ。そして心の底から誠実だった。だからこそ言い訳などしなかったのだ。
 ――解っていたのに……。
 そんなことは昔から――誰よりも俺が、解っていた筈なのに……!
「ついでだから教えてやる……俺を殺したのは、お前じゃない」
「な……っ」
「俺が倒れた直後……現場に、魔の匂いが残っていただろう。俺を殺したのは、外の世界から来た奴だ。そいつが何者かは知らないが……お前が俺を殺したわけじゃない。お前は……何も悪くない」
「ッ違う……! 例えそうだとしても、あの時、俺がもっとしっかりしていれば……ッ!」
 お前が死ぬことはなかった。彼女も、家族も、一族も――。
 あの時、自分が冷静に危機を察知することが出来ていたなら。
「止せ。お前を追い込んだのは俺だ」
「違う! 違う、飛皋……っ俺が……!」
「泣くな、芳准」
 水の中で、親友がふっと笑った。
「俺は……お前も、彼女も、好きだったんだ。ただ……それを伝えたかった。それが俺の望みだ……」
「飛皋……っ!」
 俺だってお前が好きだった。
 今も、昔も、これからも。
 生まれる前も、生まれ変わっても、違う世界でも――!
「水に、還る……芳准……」
 生きろよ――。
 手中から、親友の腕が消えた。指の隙間からするすると水が流れ落ちていく。
 存在が、いのちが、無くなった。
 その感触が体中に伝わる。強く、虚しく――寂しく、かなしい。
 足元の土の上にはただ、大きな水溜りが広がっていた。その中に漂っていた(ぎょく)を手に取り、握り締めて――芳准は、泣いた。
 手を伸ばしてきた少年の腕の中で――暖かい、生きた人間の温度を、感じながら。



 ***



「ああ……うん、解ったよ。俺も午後から行くから――えっ? いや……そこまで気を使ってくれなくても、別に……ああ、はい……解った。それじゃ」
 通話終了ボタンを押し、芳准は――井宿は、一つ息を吐いた。
 縁側に立ち、空から降り注ぐ太陽の光を浴びながら、伸びをする。
「でかけんのか?」
 いつの間にか背後にいた影喘が尋ねる。
 飛皋との一件以降、井宿は自宅に戻らず、影喘の寺に世話になっていた。自分の気が済むまで喪に服していたいという気持ちから、寺に住むことを選んだ。しばらく厄介になりたいと申し出た時、住職は大いに顔を顰めたが、家事を手伝うという条件と引き換えに居座ることを許してくれた。
「はい。今、翼宿の友達から連絡があって……どうやら、風邪を引いたみたいなので、見舞いに行こうかと」
「風邪ぇ? 馬鹿は引かねえ筈なんだけどなあ」
「結界の中とはいえ、長い時間雨に打たれてしまいましたから……俺のせいで神経を使わせてしまいましたし」
「お前、全てにマジレスする癖どうにかした方がいいぞ。……なあ、それ」
 影喘の視線が胸元に留まる。
 ああ、と井宿は首に下げていた玉に触れた。
「実家にあったやつか?」
「ええ……昔、飛皋にあげたものです。李家に代々伝わるお守りで……これだけは、翼宿の炎でも燃えなかった」
 丸い、中央に孔が空いた宝玉。
 幼いころ、いつか時が来た時、一番信頼している人間にやれと父に渡されたものだ。
 井宿は迷わず、次の日に飛皋に贈った。
 信頼と友情の証に。
「……影喘さん。一つ、お願いがあるのですが」
「なんだ」
「経を読んで頂けませんか」
 人間としての飛皋の葬式は、彼が亡くなった時に済ませている。
 魔のものと融合した彼を弔う必要は、本来ならない。第一、この寺は彼の一族と宗派が違う。
 それでも井宿は、影喘に経を読んで貰いたかった。
「……あいつには届かねえぞ」
「解っています。ですから……俺のために、読んで頂けませんか」
 生者のために、葬という儀式があるのならば――俺と、そして、俺が想う彼のために。
 ふん、と影喘が片頬を釣り上げる。
「お安いご用だ」
 そう言って、住職は本堂に向かった。芳准も静かに後を追う。
 経を聞き、焼香を終えたら、翼宿に会いに行こう。今までのことを詫び、そしてこれからのことを話し合おう。
 いちばん最初に伝える言葉は決まっている。
 ――好きだよ。
 君のことが――本当に。
 その強さが、暖かさが、優しさが、いつも真っ直ぐで嘘のない瞳が。
 本当はずっと惹かれていた。燦々と輝く太陽のような少年に。
 もう逃げはしない。正面から向き合って、君を受け入れる。君がずっとそうしてくれていたように。
 ――これからは、俺が頑張るから。
 今まで頑張ってくれた、君のために。
 
 長い年月をかけて、心に芽吹いた新たな想い。
 久方ぶりに抱いたこの感情を、芳准は大切に育てようと思った。

 感情の名は、恋という。

 
 






 ともかがみ/終















140228